アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 5/14

船の生殖孔

Risonanze errantiの作品世界には、南北戦争勃発直前の時の経過を描いたBattle-Pieces巻頭の三篇の詩が時間的配列を保ったまま現れることによって、死へ、そしてその先の戦争へと向かう一筋の不可逆的な時の流れが引かれている。この片道航路には「しかし」、一箇所「穴」が空いている。Battle-Piecesの三篇以外のメルヴィルの詩の引用を、ノーノは決定版でも一箇所だけ残した。生前は未発表のTha Lake (Pontoosuce) は秋の湖畔の瞑想をうたった全96行の詩で、ノーノがRisonanze errantiの歌詞に採った60行めのBut look...hark!(原文はBut look—and hark!)は、前半のAll dies万物は死ぬから後半のAll revolves万物は流転するへと舵を切る転機の一行である(「聞けhark」というのは、湖畔の空き地に生えるヒカゲノカズラが女性の人格を得て、「すべては死ぬだなんて溜息をついているのは誰?」と詩人に語りかけてくるからである)。 *1

 

All dies → But look...hark!  → All revolves

 

The Lakeの穴は、112小節から120小節にかけてバスフルートとチューバ、クロタルが専らC#音を奏でる平坦な音の「湖面」である。『白鯨』のピークォド号の航路にもやはり同じように一箇所穴が空いており、その穴もやはり同じようにThe Lakeであった。忘れ得ぬ87章The Grand Armada大連合艦隊。狂奔する鯨の大群の中心部に「a serene valley lake静かな谷間の湖」のように静謐な海域が一時的に形成される。奥行きの開示をかたくなに拒んでいた海が、そこでだけは「いちじるしく深いところまで、おどろくほど透明(阿部知二訳)」に透き通り、海中を平和に遊弋する鯨の姿をいっとき垣間見させてくれる。それをメルヴィル(イシュメイル)はThe Lakeと呼ぶ。

...as if from some mountain torrent wa had slid into a serene valley lake.

*

The Lake, as I have hinted, was to a considerable depth exceedingly transparent...

 

Risonanze errantiのTha Lakeの穴はなにを垣間見させてくれるのだろう?一面においてこの穴は、Prometeoに到る5作品をカッチャーリと共に制作していた70年代半ばから80年代半ばにかけての日々へとつうじる覗き穴である。But look...hark!(しかし/見よ/聞け)の三語それぞれにカッチャーリの思想の残響を聞き取ることはたやすい。look...harkはカッチャーリが編纂したDas atmende KlarseinのテキストのSIEHE /  Ascoltaに直接つうじる。AscoltaがPrometeoの中心的キーワードにしてモットーであることは承知のとおりである。 Guai ai gelidi mostriの註釈でカッチャーリはフランツ・ローゼンツヴァイクの「勝利する<しかし>」(le puissant Mais)にふれている。『救済の星』の『詩篇』第一一五章の文法的分析 *2 からカッチャーリが引いてきた「しかし」は、手短に言えば、死へと向かって継起する時間に穿たれた「穴」(=瞬間のいま)そのものを指している。 *3

 

「マッシモ・カッチャーリに捧げる連作歌曲」の副題をもちながらも、Risonanze errantiはPrometeoへと連なる多島海の風土とは相当に趣の異なる異郷の響きに満ちた音楽である。まず声。Das atmende Klarseinにとりわけ顕著な天使的平静とは打って変わって、ノーノがプログラムノートでpfffpppfpppppppfffff nel mio cuoreと書いているとおりの、人間的な感情の起伏に富んだ歌唱。Risonanze errantiの楽譜の声のパートにはwütend憤激、wie Schrei叫びのように、addolorato – triste深い嘆き――悲しみ、dolcissimoごく甘美に、wütend – contro tutti!憤激――すべてに対する、kalt冷たく、zweifelnd!疑い、mit Überraschung!驚きとともに、duro wie Anklage告発のように厳しく、といった感情表現に関する但し書きが随所に書き込まれているのが特色である。打楽器。カッチャーリとの共作群ではいったんほぼ鳴り止んでいた打楽器(5作品をとおして打楽器の使用はPrometeoのグラスのみ)がRisonanze errantiでは一転して大々的に復活する。そして管楽器。早くも2小節めから現れるピッコロの、Prometeoまでの後期作品ではついぞ聞き慣れぬ、耳をつんざくような、取り付く島もない、凛冽にして硬質な音の蒼穹はGalina Ustvolskayaの世界に迷い込んだかと錯覚を起こすほどだ。その中にあって、112~120小節のThe Lakeの穴では、armonici – eolien – varia qualità del suonoの奏法指定の下で、ピッコロと持ち替えのバスフルートによる風のような呼吸音を孕んだ柔らかい多孔性の響きが、カッチャーリともに創ったPrometeoを核とする作品群のエキスのように湧出してくる。特にRoberto Fabbricianiの演奏では、Das atmende Klarseinの最初のフルート独奏部で4たび奏でられる甘美なハーモニクスもharkの歌声に重なり合って一瞬出現する。Risonanze errantiのフルートでarmonici – eolienの指示が付されているのはここを含めて3箇所のみである。

 

カッチャーリの穴とノーノの穴を比べてみよう。「天使のこの幼児性が輝ける休止符、つまり時間に穴を穿ち、その連続を引き裂く亀裂を生み出す」。 *4 カッチャーリ/ローゼンツヴァイクの「しかし」の穴は、クロノロジカルな時間の連続性を断ち切り、死へと向かう時の流れを束の間ではあれ止める機能をもつ穴である。「このしかしの時間、無にも等しい継続から切り取られた断片は、真に諸時間のなかの時間たる一片である」 *5 「新しい時間は、天使が休むことなく正しい表象を探求する時間、現在=瞬間、中断、継続の停止、いま=ときである」。 *6 いっぽうノーノ/メルヴィルの「しかし」の穴は、そこにおいてAll diesがAll revolvesへと転じる穴であった。動物でいえば、All diesとは個体の死をもって文字どおりのdead endを迎える体細胞系列、All revolvesとは受精によって次世代へ、さらにその先へ連綿とつづいていく生殖細胞系列である。ノーノの穴はクロノロジカルな時の流れに乗り死に向かって進んでいくメルヴィルの船の船体に設けられた産卵、放精、あるいは分娩のための生殖孔である。この穴がもたらすものは流れの停止ではなく、別の流れへの進路変更である。

 

穴は流れの途絶で有り得るだろうか。穴それ自体はたしかに動かない。しかし、「器という形が自然にそこに水のイメージを溜めてしまう様に」、 *7 穴は自然にそこをとおる流れのイメージを発生させてしまう。これは穴が総じて具えているアフォーダンスである。路傍に洞穴を見つければ入って探検してみたくなるのも、とんがりコーンの穴に指を突っ込んでみたくなるのも、穴が不可避的に生じさせる動線に誘われての所作である。最近出たドーナツの穴をめぐる本 *8 の一章で、「穴と呼ぶ空間は後から外力を加えてあけた空間である」 *9 という穴の定義が提唱されていた。この定義は穴というものにつきまとう作為性を巧く言い表している。別の惑星に降り立ってそこに穴と呼び得る構造を数多く発見したとき、この星にはなにか生きものが棲んでいるのではないかとの疑いを誰もが抱くだろう。そのような穴を空けることのできる力と意図を有するなにものかの存在を穴が暗示するからである。ものの形を知覚することは、その形が形成されるまでの過程を時を遡って再現する試行だと言う人もいる。 *10 穴の時間を遡っていけば、過去のある時点で穴が空いている方向にはたらいた穿つ力のイメージが必ず喚び起こされるはずだ。

 

 西欧式の楽譜のように左から右へと横に流れている時間に穴を穿つ。するとその穴が空いている前後方向に別の時間の流れが生じる。穴は流れを断ち切るのではない、流れの向きを変えるのである。ノーノの最大の理解者であるAndré Richardは、切断ではなく漂泊の一手段としての穴の効能を流石はよく心得ている。「裂け目によって中断された音楽の流れは、その危機と官能と決断の刻をとおして別のかたちの把握へと、旅や漂泊の想念へと導かれていきます」。 *11

 

補足:島型断片・穴型断片・船型断片についてのメモ

「断片のメタファーと言えばね、まあ島なんですけれども」

「穴や船って可能性もあるだろ!」

*

穴は2種類の動きを誘発する。

  • 知覚的補完による 穴の向こう側の見えない空間への 際限ない拡散運動
  • アフォーダンスによる 穴をくぐり抜ける 方向づけられた運動

 

人間が無限を見るための一番良い方法は穴越しに見ることである。

 

f:id:dubius0129:20180209220159p:plain

上の図は二通りに解釈できる。白い面の上に青い円形の物体が島のように置かれている。白い面に穴が空いて向こう側の青が覗き見えている。白/青を図地の地/図とみるか、図/地とみるかの違いである。青を穴(つまり図地の地)とみなすということは、白と青を境界づける線の所有権を白に帰属させるということである。輪郭線を失った青は白に隠れて見えない背後の空間にとめどなく水のように拡散する。イメージの中で発生するこの拡散運動にはまさしく際限がない。私たちは無限の拡がりを直接一望のもとに見渡すことはできないが、なにものかの背後に無限の拡がりを間接的にイメージすることならできる。

 

穴が誘発する第二の運動は、今しがた述べた、穴をくぐり抜ける運動である。

 

f:id:dubius0129:20180210095648p:plain

穴が誘発する2種類の運動イメージを1枚の画面に描くと「広大無辺の海原を進みゆく船の航跡」の図になる。穴をとおしてイメージの中に拡がる海には必ず船が浮かぶのである。

 

f:id:dubius0129:20180210095702p:plain

穴型の断片は断片性を2種類の連続性に――すなわち、知覚的補完によって果てしなく拡がる海の連続性に、アフォーダンスによって船の進行の連続性に――変換する特性を具えた断片である。穴型断片と船型断片の関係は深い。穴が誘発するイメージの空間には船がつきものだからである。いっぽう穴型断片と島型断片は図地反転の対蹠的な関係にある。穴が島に反転するとただちに船影も消える。

*1:ノーノが参照していたイタリア版のメルヴィル選詩集Poesie di guerra e di mareの目次はDa: Battle-Pieces and Aspects of the War、Da: John Marr and Other Sailorsの二部構成をとり、The Lakeは前者の末尾に置かれているので、この詩集だけを見ていると恰もThe LakeがBattle-Piecesの一篇であるかのような印象を受ける。

*2:フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、387~391頁

*3:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、77頁

*4:同上、49頁

*5:同上、77頁

*6:同上、76頁

*7:桑原徹「凹のプログラム」、『要素(書肆山田)』所収

*8:芝垣亮介・奥田太郎編『失われたドーナツの穴を求めて』、さいはて社

*9:芝垣亮介「私たちは何を「ドーナツの穴」と呼ぶのか」

*10:Michael Leyton (1992). Symmetry, Causality, Mind. Cambridge, Massachusetts: MIT Press.

*11:Entretien avec André Richard. [pdf]