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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 4/9

Risonanze erranti

カッチャーリの海

ノーノとカッチャーリの美学の差異がもっとも顕著に表れるのはこの点に関してである。Prometeoをはじめとする後期5作品の共同制作者である二人の関係性は、Prometeoとその関連作品について論じる際の主たるテーマなので、筋道だった議論はそこで行うとして、両者の対照を示す分りやすいエピソードをひとつ挙げると、Guai ai gelidi mostri(冷たい怪物に気をつけろ)に関して、あらゆるものを凍りつかせる=固定することで流動性/可変性を奪ってしまう怪物の冷たさを問題にするのがノーノで、 *1 ニーチェの『新しい偶像』のなかの「余計でないnicht überflüssig」をnicht über-flüssig=not super-fluousと読んで、「流れすぎてはいけない」というメッセージを引き出してくるほうがカッチャーリである。 *2

 

さきほど引用したconfusioneの用例のなかで、ノーノはcrocevia、十字路と言っていた。croceviaは80年代のノーノがよく口にする語彙で、例えば1987年のベッリーニ論の表題にも用いられている(『ベッリーニ:地中海文化の十字路にたつシチリア人』)。じつはこのcroceviaというのはカッチャーリの著述によく出てくる言葉でもある。カッチャーリとノーノがこんな風にキーワードを共有している例は、ひとつやふたつではない。それらはおそらく基本的にカッチャーリからノーノへ伝えられたものだろうと想像されるが、おのおのの語が使われる文脈を比較してみると、インドのカレーと日本のカレーほどのニュアンスのずれが認められることがしばしばである。ノーノはカッチャーリから、結実した言葉の意味ではなく言葉の種子を受け取る。それがノーノの土壌に撒かれて、新たな風土のもとで呼び名こそ同じだが別様の言葉に育っていく。croceviaのような両者の共通語彙は、二人の親近性以上にその立脚点の隔たりについて多くを教えてくれる、よき分度器なのだ。

 

ノーノのcrocevia観を知るには、ノーノ自身の生まれ育った街に関する発言を参照するのが何よりである。多様な文化の十字路としてのヴェネツィアの姿を、ノーノはあるときこんな風に語っていた。

ヴェネツィアは単なる小島ではありません。ヴェネツィアというのは水の上に浮かんだある一点であって、そこにはいろいろな方向からいろんな文化がやってきたのです。たとえばオリエントの方向からはバビロン、中国、アラビアの文化が、あるいはカルタゴユダヤの文化が。もちろんスペイン、フランス、ドイツなどからもはいってきましたし、ロシアからも来ました、ハシディズムもその一つです。そういうように様々な文化が流れ込んできて、そこで交差した、そういう点なのです。私は、ヴェネツィアという場所は他の文化の流入によって、新しい学問やそれまでとは全く異なる文化が実現されるような場所だと思っているのです。 *3

ここでノーノの言う「文化」を「音」に置き換えれば、ノーノが日ごろ語っているヴェネツィアの音風景の描写そのものだ。ジュデッカ運河のなかぞらで交錯する音の変容のプロセスに、ノーノは水都ヴェネツィアの縮図をも感じとっていたにちがいない。ノーノのcroceviaは、さまざまな方向から流入してきた諸要素が、水の流儀で溶け合い混淆し、刻々と別の姿に変容していく、confusione / confondereの場である。

 

いっぽうのカッチャーリにとって、croceviaがこんなにも水の気配に充ちているというのは考え難いことである。

…それは道ですらなく、またしても十字路である。さまざまな声がけっしてひとつに融けあうことはできないままに合成されており、それらの確固とした差異を維持しながらの合成を要求している、そのような相対立する声の複合体なのだ。 *4

croceviaに必要なのは、そこで出会うさまざまなものが水のように混ざりすぎないこと、混ざりすぎてメルティング・ポットのようになってしまわないことである。ノーノに比べてカッチャーリには、水の均質化作用に対するより強い警戒心が根づいているように見受けられる。カッチャーリのcroceviaは、個体的/固体的な諸要素があくまで「区別されたもの」として、差異を保ったまま組み合わされていく、合成=composizioneの場である。

 

こうした自身の美学にそくした海の形象を、カッチャーリはムージル『特性のない男』のなかに見いだしている。

小川のようにある目標へ向って流れて行くのではなくて、海のように、ある状態を形作っている愛のことを、これまでいろいろと話しあったことがあるね! (……)

 一寸考えてごらん。この海は動きもなく、永久に続く結晶のように純粋な出来事だけで満ちている閑寂境なのだ*5

*

...daß dieses Meer eine Reglosigkeit und Abgeschiedenheit ist, die von immerwährenden kristallisch reinen Begebenheiten erfüllt wird.

 

ウルリヒが妹アガーテに話して聞かせた千年王国の愛の海の、とりわけ「結晶(水晶)のようにkristallisch」の語が喚起する海らしからぬ硬質な手触りに、大川勇はウルリヒの可能性感覚の、硬直化による衰退の徴候を読みとっている。 *6 しかしカッチャーリにとってこの海は、まさにその流動性の乏しさゆえに愛すべき形象となるのだ。「水晶のように純粋な永遠の出来事で満たされている」というくだりを、「水晶のように純粋な出来事が絶え間なく迸る」といったニュアンスで読んでカッチャーリはこう言う、その海は、継起する別の出来事との関連性、すなわちある種の混合によって汚染されていない単独的な出来事がそこから不断に析出してくる「産出する空虚」だと。カッチャーリの海で鳴り響く音は、一様な時の継続というある種の流れを打破して束の間輝く水晶のように混じり気のない音、そしてそれらの純粋な音の「還元不可能なポリフォニー*7 なのである。

 

カッチャーリのこの(おそらく原典にあたるムージル以上に)水気のない海は、「純粋な結晶」というキーフレーズに圧縮され、『死後に生きる者たち』の随所で燦きを放っているだけでなく、Prometeoのリブレット――Il maestro del giocoの第X連の最後の二行――にも移植されてきている。

far del silenzio CRISTALLO

colmo di eventi

*

making CRYSTAL from the silence

full of events

つまりPrometeoは、そのなかでノーノの海とカッチャーリの海という二つの異質な海が出会う、croceviaでもあるのだ。

*

さて、ここまで一貫して海の作曲家ノーノの「親水性」を伝える肖像画を描いてきたが、その絵がまだ乾いて固まっていない今のうちに、是非とも付け足しておきたいことがある。万事にわたって一筋縄ではくくることのできないこの「苦悩に満ちながらも晴朗な」作曲家の二面性に関する事柄――「○○に満ちながらも××」の、「××」のほうの側面についてである。これから先、土色の文字で書かれている部分は、ノーノ=海の作曲家という単線的な図式から外れているノーノの別の一面に関する記述の割り込みであり、前後の内容につながる脈絡は特に存在しない。

 

※海の歌はいったんここで中断される。海から陸へ→

 

長めの挿入句:陸の歌

ノーノにはじつは二つの顔がある。水の世界の仄暗い不分明を、その絶えざる流動を、変転を、混淆を愛するノーノ、無限旋律に「溺れる」ワーグナーを評してニーチェが言った、 「彼は、音楽の凝固や結晶を、建築術的なものへの移行をおそれる」 *8 という言辞が似合いそうな「海のノーノ」と、その正反対に、すっきりと整理整頓された明快な構造を好む、潔癖にして建設的な「陸のノーノ」と。

 

シナゴーグの歌が細部に湛える不断のゆらめきに、相反するさまざまな思いを抱えつつ生のつづくかぎり絶え間なく揺れ動く感情の海の波動を聞きとるノーノは、海のノーノである。いっぽうで、1954年のIncontriの作曲に際して、感情の状態を

  • A violenza di ribellione
  • B calma in tensione, e di tensione

の両極へと綺麗に二分し、それぞれの状態を表すA、B2種類の音素材の交替によるじつに簡明な設計原理によって作品を組み立てていったノーノもいる。 *9 *10

前半

A18→A13→A8→A5→A3→A1→B4→A8→A5→B10→A3→A1→B1→B2→B4→B6→B10→

後半

B10→B6→B4→B2→B1→A1→A3→B10→A5→A8→B4→A1→A3→A5→A8→A13→A18

 ※数字は小節数。後半は前半の鏡像になっている

 

これは初期のノーノと後期のノーノの違いなのだろうか。いや、そうではないのだ。A violenzaとB calmaの二分法は、Con Luigi Dallapiccola以降の後期作品の多くに用いられている二つの基本的なリズムパターン、A veloceとB calmoにも受け継がれているようにみえる。対照的な性格をもつ二大要素が交互に現れる構成ということならDas atmende Klarseinがまさにそうであるし、静と動の明瞭なコントラストであれば、Caminantes...Ayacuchoをはじめとする多くの後期作品で聞くことができる。数を意識したシステマチックな曲の構成、これもノーノの生涯にわたって維持されている特質である。たとえばCaminantes...Ayacuchoの基本構造は、5という数によって律せられている。No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskijではその数が7になる。Prometeoの場合は3が重要な意味を担っていると思われるふしがある。1984年の管弦楽曲A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibiliを、あたかもダルムシュタット全盛期の総音列音楽でも扱うかのような手つきで定量的に分析していったNicolaus A. Huberは、この作品がフィボナッチ数を中核とする数の秩序によって、思いのほか緊密に組織化されていることを明らかにしてみせた。 *11

 

こうしたノーノの造形的美意識の最たるものが、対称性である。ノーノの手になる譜面をひらいてみれば、そこはまさしく対称性の宝庫だ。見えない鏡を挟んで向かい合い対をなしている要素は、音符のこともあればp < mf > p といったダイナミクスの場合もある。鏡面は楽譜を垂直に分割していることも、水平に分割していることもある。また時には、面ではなく点対称の構図をとっているケースもみられる。対称性が現れる尺度も、数小節の範囲から楽章まるごと、そして一つの音楽全体が鳥の翼のような対の形をとる場合(そのもっとも有名な例が先に挙げたIncontri)に到るまでさまざまである。こうしたもろもろの対称性を見つけ出す作業は、いまやノーノの楽曲分析におけるルーチンのひとつといってもよいだろう。

 

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※上に示したのはChristina DollingerによるCaminantes...Ayacuchoの分析例 *12

 

楽譜をみるかぎり「対称性をこよなく愛する」と呼んでもなんら差支えないように思われるノーノは、ところが一方でこんな言葉を口にしてもいる。

Was wichtig ist für mich in meinem Denken und Sehen ist das asymmetrische Moment: In Venedig gibt es nur einige Sachen, die symmetrisch sind, und die sind im Renaissance-Stil, das ist Palladio, der große Architekt; der hat immer auf Erde gebaut. Auf Wasser baut man ganz anders. Dort ist das eine Sache von Instinkt und Denken, von Natur [...] Der venezianische Stil ist wirklich asymmetrisch, aperiodisch, es gibt kein Zentrum, keine Einheit, und ist dauernd in Bewegung. *13

*

私の思考や認識にとって重要なのは非対称的なモメントです。ヴェネツィアにも若干の対称的なものがある。それらはルネッサンスのスタイルです。偉大な建築家、パッラーディオ。彼はつねに陸上で建築を行いました。水の上で、人はまったく別のやり方で建てることになる。そこで問題となるのは自然の直感、思考です。 (……)ヴェネツィアのスタイルはまさに非対称的で、非周期的で、中心もなければまとまった単位もなく、常に動きのなかにあります。

この発言の非常に興味深いところは、対称性の有無が陸の世界と水の世界の原理の差異に呼応するものとして捉えられている点である。とすれば、楽譜の平面図のそこかしこにシンメトリックな構造物を設計して倦むことのないノーノは、アシンメトリックだとか、アピリオディックだとか、アモルフだとかいった、「頭にア(a-)がつくまだ固まっていないもの」 *14 のざわめきに溢れた、「常に動きのなかにあ」る海にどういうわけだか背を向けて、およそヴェネツィアっ子らしからぬ陸上建築にいそしんでいる、ということになるのだろうか。

 

Risonanze errantiの作曲のプロセスをもう一度思い出してみよう。

 

マショー、ジョスカンオケゲムの 3 曲の古いシャンソンから抽出された 3 つのモノディが、4~8 音からなる 23 個の断片にそれぞれ分解され、次いでこれら23×3 = 69 個の断片が無作為につなぎ合わされて、127 小節からなるひとつながりの長いモノディがつくられ、それが音符の一部を休符に置換する操作および器楽パートの追加によって 4 人の奏者のための楽譜へと発展したのち、再度 44 個の断片に分解される。

 

ここまでの過程で音はもっぱら、意のままに切ったりつないだり並べ替えたりの加工を施すことのできる、楽譜に書かれた音符と正確に一対一の対応関係にあるような、まったく固体的な形象としての扱いを受ける。ノーノの作曲の行程は、こんな風にして少なくとも初めのうちは、節状に音符を連ねた音の枝を手折る乾いた音が谺する、水の世界とはいっけんまったく無縁な内陸の地で進められていくのである。それでは一体、ここからどのようにして音の海が生じてくるのか。海の水は果たしてどこからやってきたのか。

 

※陸の歌はここで中断される。陸から海へ→

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 68

*2:http://brahms.ircam.fr/works/work/10797/#program

*3:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*4:マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』、上村忠男訳、みすず書房、271-272頁

*5:ローベルト・ムージル『特性のない男 4(新潮社版)』より「遺言状」

*6:大川勇『可能性感覚』、松籟社、2003年、244頁~

*7:カッチャーリ『死後に生きる者たち』、17頁

*8:ニーチェ『人間的、あまりに人間的 II(ちくま学芸文庫)』、第一部134、中島義生訳

*9:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 201.

*10:Juan José Raposo (2010). Luigi Nono y Nuria Schönberg. Las obras del encuentro (II). [pdf]

*11:Nicolaus A. Huber (1999). Nuclei and Dispersal in Luigi Nono's 'A Carlo Scrpa architetto, ai suoi infiniti possibili' per orchestra a microintervalli. Contemporary Music Review 18 (2): 19-35.

*12:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 196.

*13:1984年4月8日、Werner Lindenとの対話のなかでの発言。文献*12のp. 198に収録

*14:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言