アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 3/14

かわく船

「海に浮かぶ○○島」と比喩的に言われることは多いが、本当に海に浮かんでいる島はひょうたん島くらいなものである。いっぽう船は例外なく本当に海に浮かんでいる。船の魅力の半分くらいはこの「浮いている」という海との絶妙な関係性にある。飛ぶことのできない船は片時も海から離れることがない、と同時に、海との関わりにおいて文字どおり「浮いた」存在である。船と海との関係はあくまで表面的だ。海に浮かぶ船は濡れることと乾くことの両義性である。濡れすぎた船は沈没し、乾きすぎた船は燃焼する。難波による死と船火事による死の可能性の両極の間を揺蕩いながら、船は危うく存在している。

 

death死へと向かうメルヴィルの船の航跡を上空から一望してみると、ときどき海面に浮上してくるバッハマンの鯨は気まぐれに遊弋しているのではなく、いたって規則正しい関係をメルヴィルと取り結んでいることにすぐ気がつく。順番に登場するBattle-Piecesの3篇の詩の節目にバッハマンが挟まっているのだ。

 

Melville 1 Misgivings

Bachmann

Melville 2-1 The Conflict of Convictions

Bachmann

Melville 2-2 The Conflict of Convictions

Bachmann

Melville 3 Apathy and Enthusiasm

 

ただし、原詩でも引用の分量でも最も長い2篇めのThe Conflict of Convictionsはバッハマンによってさらに前半と後半の節に区切られている。前後半の構造の違いはこれまた一瞥しただけで明らかである。限られた少数の語彙が単調に反復される、「時間の背骨」の喩にふさわしい椎骨を連想させるメタメリズム(分節繰り返し構造)が、後半部のほぼ全域に認められる。この部位では、通常は構造の曖昧化へと向かうはずの断片化によって、逆に断片化前の元の詩と比べてよりrigidな構造が発達してきている。濡れることと乾くことの間で揺れ動いている船の羅針がいっとき乾燥化のほうへと大きく傾いている相がMelville 2-2である。

 

わけても船の乾きが頂点に達するのは、timeとpast、とりわけpastの反復構造が出現する箇所である。

time time time time time

past slave past

past past past past past past

a a ahimé

ahimé

ahimé

ノーノがRisonanze errantiの歌詞選びに繙いていたメルヴィルの詩集Poesie di guerra e di mareは頁の左側に英語の原詩、右側にイタリア語の訳詩を併記する構成になっている。訳詩でtime (olden times) はsecoli lontani、pastはpassatoである。しかしノーノは英語の原詩を歌詞に用いた。これはシャンソンのこだまからなる母音主体の音韻の海を渉っていくことができるだけの堅牢な船板を得るために必要な選択であった。典型的な開音節言語であるイタリア語は船の素材に用いるにはあまりにも柔らかく、みずみずし過ぎるのである。

 

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ノーノがBattle-Piecesから引いてきた語群の特性はRisonanze errantiの冒頭の一節に端的に表れている。

tempest bursting ... waste ... time

閉音節言語の代表格たる英語のなかでも、阻害音の連続したstや

tempest bursting waste fairest storming starry cloistered past stones strong against frost

やはり阻害音の一種であるpのような

tempest hope sweep deep past pain purpose despairing

とりわけ硬質な響きの感触を具えた語をノーノは意識的に選び取っているように見受けられる(川原繁人の近刊より阻害音の定義:発音する際に口腔内気圧が上がる音。音圧の変化は非周期的で角ばった形をしており、「男性的」「角ばった」「ツン」「近寄りがたい」などのイメージにつながる *1 )。中でもpastは最上級の硬度を誇る選りすぐりの一語である。唯一の母音aを子音p-stの、文字どおり水も漏らさぬ堅固な外骨格で厳重に封じ込めた言葉のカニ(いっぽうイタリア語のpassatoは殻から軟体が常時はみ出している言語の世界のオウムガイである)。とは言え、この鉄壁の蟹型要塞からも、その気になれば水分を抽出することは可能である。甲羅を力ずくで引っぺがしてやればよいだけのことだ。Risonanze errantiとほぼ同時期の作品であるOmaggio a György Kurtág (1983/86) の歌詞は被献呈者の名前György Kurtágである。口に出して一息に発音すればウオノエのごとく喉に引っ掛かりそうなこのゴツゴツといかついGyörgy Kurtágを、ノーノは音素レベルにまで徹底的に分解して歌にした。Omaggio a György Kurtág の音の海は、György Kurtágがその堅い表皮の下に隠し持っていた母音の体液を溢れ出させて時空間にひろげていくという、見ようによってはややスプラッター的な作曲技法を駆使して生み出されている。翻ってRisonanze errantiでは、言葉がもはや船板として機能しなくなるほどの容赦なき解体作業はおおむね回避されている。ノーノはメルヴィルの詩からいくつかの単語を切り出してきたが、それぞれの単語をさらに腑分けしていく二次加工は基本的に行われていない。

 

Risonanze errantiのpastの反復部では、解体とは別種の処理がこの語に対して施される。6つのpastの矢継ぎ早な連呼である。

 

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唯一の母音aに強勢が置かれていることに起因する若干の潤いがpastにはまだ残っている。しかしこの語を早口言葉のように高速で唱えたとき、母音aの弱化が生じることは避けられない。pastは脱水され、船の甲板で陽に曝され乾涸びていく蟹のように、乾ききった皮殻だけの空疎なp-stへと変質する。

 

メルヴィルの歌詞=船の乾きは生物の発生における誘導体のように近接するこだま=海に作用して、音の海の変質を引き起こしている。こだまの海洋性は、母音主体の音韻特性の素地に2種類のライヴ・エレクトロニクスの効果(リバーブによる輪郭の溶解と、複数のスピーカー間での再生時機調節による疑似的な流動化)がさらに加わることにより成っている。ところがMelville 2-2の内部では、ライヴ・エレクトロニクスの効果をどちらも欠いた、水のように輪郭がぼやけてもいなければ水のように空間を流動することもない乾いたこだまが連続して出現している(06B 07A 08A)。

 

ID 小節 歌詞 流動パターン 残響時間 (s)
01A 36-40 malhuer me bat E 10
02A 60-65 adieu B 20 / 4
02B 66-68 ah... ah... E 4
03A 83-85 -lheur me E 4
04A 103-111 ahimé ahimé A 20
05A 133-137 [ah...ha] E 4
05B 137-138 u B 70 / 4
06A 188-194 pleure A 60
06B 196-196 ah E 4
07A 214-218 ahimé uh eh uh ah ahimé E 4
08A 242-245 a a ahimé ahimé ahimé E 4
08B 245-247 ah C 20
09A 256-261 adieu B 30 / 4
09B 262-265 adieu D 30
10A 288-293 adieu mes amours ah! ah! A 10
11A 319-320 adieu B 50 / 4
12A 357-366 pleure A 80
13A 369-371 malheur E 4

こだまの流動パターン:

  1. 旋回運動
  2. 中央から四囲へ拡散する動き
  3. 左側から右側への動き
  4. 前方へ遠ざかっていく動き
  5. 動きなし

 

※1986年3月の初演時のライブ録音を聞いて最も驚いたことのひとつが、上のリストの07Aのこだまに非常に深いリバーブがかけられていたことであった。しかしこれは、初演後も固定を免れ生きもののように姿態を変化させていくノーノの後期作品ではままあることである。Prometeoのドラマの流れに大昔からそこに存在していたかのような自然さで溶け込んでいるシューマン『マンフレッド序曲』冒頭の引用が、初演の翌年のミラノ再演版で後から付け加えられたものであるという驚きの事実はその好例である。

 

では結局のところ、Melville 2-2 にみられる船の乾燥化のそもそもの原因は何だったのか。当該の節の歌詞を構成する語が含まれる連の詩行を追っていくと、

 What if the gulfs their slimed foundations bare?

もし湾が、その軟泥の地盤を露わにしたらどうだろうか?(山田省吾訳

という詩句が目に留まる。

I know a wind in purpose strong –

 It spin against the way it drives.

What if the gulfs their slimed foundations bare?

So deep must the stones be hurled

Whereon the throes of ages rear

The final empire and the happier world.

 

(The poor old Past,

The Future’s slave,

She drudges through pain and crime

To bring about the blissful Prime,

Then – perished. There’s a grave!)

メルヴィルの詩の世界で海が干上がり、船の素材が乾く。メルヴィルの詩の世界から切り出されてノーノの音楽の世界へと移植された詩句断片の乾いた船がノーノの音楽の世界の海を同様に干上がらせる。船はメルヴィルの作品世界で生じた環境の異変をノーノの作品世界へと伝達する誘導体である。Melville 2-2は海の一時的なひき水による座礁の時間ということになる。だがこれと正反対の見方も可能である。

 

Risonanze errantiの全航程のなかでも遠洋航海の気分がある面で最も色濃く顕れているのがMelville 2-2である。その単調、その紋切型、その生硬、その不毛のゆえにMelville 2-2は外洋的だ。『白鯨』の大半を占める外洋の日々――モービィ・ディックが浮上してくる瞬間を洋上で空しく待ち侘びていた、毎日が昨日の繰り返しのようなあの無味「乾燥」な日々を想うこと。毎日が昨日の繰り返しのような時のメタメリズムとはつまり、past, past, past, past......である。

 

生物学者のJ. Lee Kavanauは言う *2  、外洋に住む魚たちは眠らない、眠る必要がないからだ。睡眠が肉体の休息のためのものならば、マグロやカツオやシイラはよほどタフな連中なのかという話になるが、そうではない。睡眠とは第一義的に、脳の、脳による、脳のためのものである。脳の学習の基本原理は「くりかえし」である。ある記憶にかかわる神経回路は、くりかえし賦活されることによって結合が強化され、安定化していく。日常的に何度も体験する事柄であれば、実際の体験による再活性化自体が反復効果をもたらすことになるが、そうでなくても神経系はその内部で自律的な活動の波を発生させ、記憶を何度も「脳内再生」させることによって、記憶を定着させる仕組みを持っている。神経系の自律的な活動はしかし、外界からの感覚刺激による攪乱を避けがたく受ける。感覚情報を処理する神経回路と、記憶に関わる神経回路が重複しているためである。とりわけ、高度に発達した眼が進化してそれまでとは桁違いの膨大な視覚情報がまさに洪水のごとく脳に流入するようになると、外界からの感覚刺激の干渉はいよいよ深刻なものとなった。脳というサーバの保守作業を行うことのできるようなオフラインの時間が必要になってきた。それゆえに動物は眠る。感覚刺激に反応する閾値を引き上げ、瞼があれば瞳を閉じて、外界から押し寄せる感覚情報に対する堅固な防波堤を築くことによって、脳はその水面に自身が自由に波を刻むことのできる内海となる。こうして、その日目覚めているあいだに経験したことは眠りの中で反復再生され、記憶として記銘される。もっと以前の記憶も同様に賦活されて、記憶の保持が図られる。

 

外洋は、構造らしい構造のほとんど無い、とめどなく広がる水また水の世界であり、また陸上や沿岸に比べてずっと安定した環境である。外洋性の魚類は、毎日が昨日の繰り返しのようなこの単調な世界に何百万年と住み続けてきた。彼らが生きていくために必要なノウハウの多くは遺伝的な記憶として既に固定されて、各々の個体が新たに学ぶべき事柄は限られている。遮断せねばならない感覚情報にも、日々の生活で新たにつけ加えられる経験にも乏しい外洋は、睡眠の機能において前提となる二大条件をともに欠いていることになる。刺激と経験の貧困な外洋、あらゆる主語を沈めてしまう青一色の世界で、脳はもはや睡眠を必要としなくなった、そうKavanauは考える。

In their many millions of years of existence in the relatively constant epipelagic and mesopelagic conditions (including interactions with prey and predators), continuously swimming fishes very likely encountered all potential contingencies, and incorporated responses to all of them into their repertory of inherited memories (excepting possible interactions with humans and conditions of human origin).

外洋性魚類において顕著に進行しているとKavanauが推測する行動形質の遺伝的な固定(genetic fixation)とは、細胞質の海を漂うゲノムの船に形質の決定因子が仕留め鯨のごとく引き揚げられたということである。柔らかな海のエピジェネティクスから堅い船のジェネティクスへ。Kavanauの仮説は水にまつわる皮肉な教訓である。水の中の歳月が魚から水のような柔軟性を奪い去った。魚の生は水の中で堅く乾いて、定型的な行動パターンの寄せ集めへと形骸化していった。Melville 2-2はその只中に生きるものの心象をカラカラに乾涸びさせるdeserto del Mare(Prometeo第4島のリブレットより)の情景なのかもしれない。

*1:川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 音象徴で学ぶ言語学入門』、ひつじ書房、199頁

*2:J. Lee Kavanau (1997). Vertebrates that never sleep: Implications for sleep’s basic function. Brain Research Bulltin 46 (4): 269-279. [pdf]