アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 13/14

Ascolta聞けとCaminantes進みゆくものよ

ノーノは聞く人である、と一般には思われている。Prometeoの制作過程で本人の言によればsindrome antivisualistica *1 に罹ったノーノが、Emilio Vedovaの協力を得て模索していた視覚的演出のほとんどを「聞く悲劇」の妨げになる攪乱因子として排するに到った経緯はよく知られている。人の顔に空いている穴のなかで正面性をもっともあからさまに主張しているのが目で、逆にもっとも控えめなのは耳である。これと狙いを定めた対象を射抜き見据える好戦的な凸型の目と、「何だかはまだわからないが、何かが響いて来るのを待つ」 *2 慎ましい凹型の耳は、『特性のない男』の用語に即してそれぞれアクティヴィストの感覚器官とニヒリストの感覚器官と呼ぶこともできそうだ。カッチャーリが編纂したDas atmande Klarseinの歌詞にはじめて現れる「ascolta聞け」は、しかしもともと「SIEHE見よ」に並置されていたのだった。そしてこのSIEHE Ascoltaの対は、メルヴィルの詩The Lake からノーノが引いたBut look - and hark!(イタリア語訳はMa guarda, ascolta...)に姿を変えてRisonanze errantiにも継承されている。

 

Prometeo後に浮上してくるCaminantes(進みゆくものよ)の新たな呼びかけは、視線と分かちがたく結びついている。進みゆくものは、特にあらかじめ定められた道がない環境のもとでは、まなざしが指す方向へ進んで行くのが通例である。だからこそ進む方向は耳指すでも鼻指すでもなく目指す方向と呼ばれる。ジョルダーノ・ブルーノが言うとおり、目は「魂の船首に輝く双子の光」 *3 なのだ。トレドの修道院の壁にノーノが例の落書きを見つけるはるか以前のごく初期の頃から、ノーノの音は譜面上のあちこちに左右対称の船の形を造り出していた。左右対称の図を眺めたとき総じて正面向きの印象を受けるのは、要するに、見つめ返してくるまなざしを感じるからである。あらゆる左右対称形が喚起する、対称面に沿って前方に伸びる動線を視線と呼び直してもよい。潮騒を迎え入れる耳の凹と目指すべき海を志向する目の凸は文字どおりの凸凹コンビとして、1987年に一度だけ来日したノーノを感心させた神社と寺院の混在のごとく、ノーノの音楽のなかで「不思議な共存」 *4 を果たしている。ウルリヒやアガーテと同じく、ノーノもレアリストではないが「ニヒリストとアクティヴィストではあった、そして時に応じて一方ともなり、他方ともなったのだった」。 *5

 

Ascoltaの声が5たびこだまするDas atmende Klarseinの合唱は天使的平静を旨としていた。部分音を欠いた純音による声部ごとの完全なユニゾンの理想への途に、私的な情念のざわめきが入り込む余地があろうはずがない。打って変わってRisonanze errantiの独唱に横溢するのは、すこぶる人間的な感情の起伏である。ノーノはそれをpfffpppfpppppppfffff nel mio cuore(私の心の中のpfffpppfpppppppfffff) と形容している。心の火。いっぽうRisonanze errantiの音の海=こだまの主成分は私の内側から溢れ出してきた溜め息(a ah u ahimé uh eh)や涙(Pleure)である。カッチャーリに捧げられたこの連作歌曲の作品世界では、ジョルダーノ・ブルーノが『英雄的狂気』で解き明かした、(ある意味カッチャーリらしからぬ)アクティヴィスト的な情熱を燃料に駆動される情動の絶えざる流れが、歌い手である「私」の内外を行き来し循環している。

 

1969年のとあるインタビューでノーノは俗説に異を唱えている――私は決して点描風に作曲したことはない、それは批評家が見つけ出したことだと。「音の点がそれぞれ自分自身の中に閉じこもって密閉されているというような音楽観は私には全く無縁なものです」。 *6 Il canto sospesoで私が企図していたのは、幾つものバラバラな点ではなく「ひとつの線」なのである――。点ではなく線だということの意味をRisonanze errantiで詳しく検討していこう。いっけん細切れに寸断されているようにみえるメルヴィルの詩句断片の「断ち切られた歌」をひとつに結びつける線については既に述べた。Battle-Piecesの3篇の詩を貫いて流れるクロノロジカルな時の流れを保存する(原詩を断片化はしても並び替えはしない)ことによって、メルヴィルの詩句断片は終端に置かれたdeathに向かって進んでいく一筋の航跡につなぎ止められる。メルヴィル由来の多数個の断片は作品世界に鏤められたメルヴィル群島ではなく、一隻のメルヴィル号の、激情に彩られた「人生航路」の軌道を表す連続画像の構成要素を成すのである。

 

ライヴ・エレクトロニクスにより再構成された音響空間において、メルヴィルの詩句を歌う独唱は明らかに内的独白の性格を与えられている。メルヴィル(とバッハマン)の歌は、ホールに設置された10台のスピーカーのうち、左右の辺に沿って均等に配された8台のスピーカーではなく、ホールのちょうど真ん中に位置する2台のスピーカー(L9、L10)からもっぱら出力される。主人公を空間の中央に据え置いた自己中心型の視座をとおして一人称で紡がれていくナラティヴ。英語の閉音節性に加えてリバーブも最小限に留められることにより、メルヴィルの船歌の音質は乾いて堅い。一転して母音主体の柔らかな響きを湛えたシャンソンのこだまは、大半が深いリバーブによる液化処理を施され、10台のスピーカーすべてを駆使したダイナミックな再生時機の制御により、中央に定位する船=私を取り巻く空間に遍く滲み拡がっていく。文字どおり陸と海ほどに性質を異にするメルヴィルの歌とシャンソンのこだまは、しかし互いに無関係に生起する音現象ではない。

 

Risonanze errantiの作曲に際してノーノは音が空間を動いていく経路を描いた模式図を幾つも書き残している。 *7 *8  *9  *10 図に添えられたspazio esterno・esterno Raum(外部空間)、piccolo spazio interno(小さな内部空間)のキャプションが示すとおり、ノーノの関心事はなにものかの内と外を行き来する音の動態であった。これらの「進みゆく音」のスケッチにおいて音は音符という島のように動かない点に換わって動きを体現する線により書き表されることになる。『英雄的狂気』のブルーノは、内から外への流出と外から内への流入を共に矢のメタファーで表現していた(内→外の例として「目の光である矢が放たれる」 *11 、外→内の例として「(心)の傷は、鉄やその他の素材によるものではなく、筋力によって作られたものでもありません。それらは、ディアナの矢かフォエブスの矢のいずれかなのです」 *12 )。ノーノが描く音の経路も視線のように指向性の高い、ブルーノ譲りの直線的な矢印である。そしてその矢は内→外、外→内の双方向に先端を向けている。

 

スケッチの一枚の、矩形の空間の中心の一点から音が四散していくモデルに基づいて、メルヴィルの船=私の立ち位置であるホール中央のL9とL10の2台のスピーカーからホール四隅の4台のスピーカーに向かってこだま(adieu u)が放射状に発散していく音の動きは、ブルーノが『英雄的狂気』の第二部第三対話で説いたかの因果律の忠実な再現である。私の心の内で燃え盛る情熱の炎が吐息や涙を私の内から海のようにとめどなく外部の空間へ溢れ出させる。船が「海の種子」 *13 になるために必要とされるもう一つの条件をノーノは忘れていない。ホール中央の船から発出して演奏空間を蒼一色に染め上げていった音は壁に当たって反射し、ヴェネツィア名物のアックア・アルタのように船に向かって再度押し寄せてくる。その逆向きの流れにノーノはspazio esterno che entra(流入する外部空間)と書き添えている。 *14 内→外の流れと外→内の流れが組み合わさることによって、船と海との間で往還を繰り返し、「下位の水を上位の水と等しく」 *15 する持続的な回路が確立される。

 

Risonanze errantiの全篇に鏤められた打楽器は、海流を観測するため海に撒かれた色付きの砂のように、ブルーノ的回路の流れに乗って作品世界を循環している。あるときは水平線の彼方から聞こえてくる遠いざわめき(クロタル、ボンゴ、サルデーニャの羊の鈴のいずれの譜面にも認められるlontanissimoの添え書き)。またあるときは心の内奥に打ち響く心臓の鼓動(51~55小節のクロタルとサルデーニャの鈴の音に付された「come palpiti di cuore心臓の鼓動のように」)。作品世界に生きる「私」の内withinと外withoutを股にかける打楽器の融通無碍なふるまいの秘密は、その音の形状にある。言葉の世界で打楽器の音、たとえば鐘の音は慣習的にGongやゴーンと擬音化されている。末尾に付く「ng」や「ン」は、あらゆる事象に形を与えねば気の済まない人間の抱くイメージの帰結である「入れ物」のメタファー(心のような抽象概念や事件のようなできごとが「もの」化し、さらに「入れ物」になる) *16 を形成するため人為的に設けられた、音と沈黙を分かつ架空の境界である。Gとngで両端を閉じることによって打楽器の響きは堅い器の輪郭を得て、囲い込まれたoが音の内部を満たす中身になる。リルケの詩Gong(銅鑼)から引けば、「流出(過ぎ行く時間)から圧し出される持続、鋳なおされた星」。しかし現実の打楽器の音にはンやngのような仕切りはなく、アタックの後の余韻は彗星のように長く尾を曳きながら沈黙の海へと有耶無耶に溶け込んでいく(Goooooo...)。減衰音の最大の特徴はアタックと余韻の前後の極性が明瞭なことで、その形状はよく言われるような点、粒子ではなく矢に近い(先ほどの砂粒の喩えは撤回しなければいけない)。つまり打楽器の発する減衰音は本来、方向性を持って空間を進んでいく運動イメージ(→)を喚起するのである。打楽器の役回りは音で器の形を空間に打ち立てることではなく、器の形をとるものが自然に呼び覚ます、器の内外を出入りする流れを音で可視化することにある。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 71.

*2:1987年の高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*3:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、265頁

*4:1987年11月27日の武満徹との対談の中でのノーノの発言。『歌の翼、言葉の杖 武満徹対談集(TBSブリタニカ)』所収

*5:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「夏の日の息吹き(断章)」

*6:Gespräch mit Hansjörg Pauli. 訳は黒住彰博『ノーノ作品への視点』による

*7:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 203, 209.

*8:Marinella Ramazzotti (2017). Risonanze erranti o la Winterreise della memoria. shiiin – eln 1, p. 47, 53.

*9:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 185.

*10:Friedemann Sallis (2015). Music sketches. Cambridge: Cambridge University Press, p. 39.

*11:『英雄的狂気』、64頁

*12:同上、207頁

*13:同上、247頁

*14:Ramazzotti (2017), p. 46.

*15:『英雄的狂気』、23頁

*16:瀬戸賢一『空間のレトリック』、海鳴社