アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 14/14

航跡を引く

批評家から不本意にも点描主義者の称号を授けられているノーノが繰り出す、点を線に変換するための手練手管は枚挙に暇がない。

 

左右対称

 

点を線に変えるとは、島を船に変えることである。島と船を分かつもろもろの相違点は、「船/島は進みゆくものである/ではない」という決定的な一点から派生している。島と異なり船が総じて左右対称なのは、重力の作用下で方向性をもって進もうとするものが必然的に具える体制が左右対称だからである。左右対称は垂直に立つ対称軸に直交する前後軸すなわち進行方向を暗示する形である。そして船は進むことによって、停泊中から既に前後軸で暗示されていた線を具現化する。その線は航跡として海面上に可視化される。船を表現するためには左右対称形(線を生み出すことのできる形)を描いてもよいし、航跡(生み出された線)を描いてもよいが、意味するところはどちらも同じである、「進みゆくものよ」。

 

最初期からノーノの譜面はそこかしこに大小さまざまな左右対称の船影を浮かべた船着き場の光景を呈していた。ノーノが書く音は生まれつき島ではなく船になりたがる性向を宿していたのである。それは1985年(もしくは86年)のスペイン旅行に先立つ10年ほど前にPrometeoの制作過程で出会ったニーチェのDer Wandererからさらに20年以上も遡るCaminantesのルーツである。カミナンテス三部作の最終作にしてノーノ最後の作品でもある"Hay que caminar" soñandoで船は舫を解いて出航しており、こちらに舷側を向け水平に伸びる長い航跡を譜面に引いている。

 

ライヴ・エレクトロニクス

 

80年代のノーノ作品の大半に導入されたライヴ・エレクトロニクスでは、出てくる音が五線譜上に明示されないという記譜法の問題がある。実際には書かれないのではなく、記述方式が変わったのである。出版されたノーノの楽譜では巻頭にまとめられている下例のようなフローチャートを辿っていくと、概ねどんな音になるかを読むことができる。つまり音符のような点ではなく線によって音が記述されている。

 

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「流れ図」の名のとおり、フローチャートの線は音が進んでいく経路を表している。音自体が「進みゆくもの」なのだ。何のために音は「進まねばならない」のか――変身するために。電子空間を音が進んでゆく軌跡は音の変化の軌跡でもある(リバーブがかかる、ピッチがシフトする、フィルタをくぐり抜けて周波数特性が変わる、枝分かれする、フィードバックループの渦に捕捉される…)。五線譜上の定点に留め置かれている音符はこのあと電子の海を遍歴していく音の初期値(音源)を示しているにすぎない。喩えるなら港に停泊している出航前の船である。裏返して言うとライヴ・エレクトロニクスは譜面の港から個々の音符を船出させるのだ。

 

ノーノのライヴ・エレクトロニクスはヴェネツィアの空間が演出する魔術的な音の変容劇を疑似的に再現するための一手段であるから、その線的に記述される音の姿はヴェネツィアの空間の舞台上で変身を遂げていく音のある一段階を模写したものでもある。「霧が濃い日には、島の位置を知らせるために鐘楼の鐘が鳴り続けるんですよ、Dong Dong Dongとね……」 *1 と語りはじめたノーノが聞いている、一つ二つと数えることのできる分節化された鐘の音と、「ヴェネツィアにあるこれら多数の鐘、サント・ステーファノ、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ、サン・トロヴァーゾ、サンタ・マルゲリータの鐘、それと同時にサン・マルコの鐘が鳴り響き、それらが一体となって、ひとつの音響体を成していきます。おのおのの鐘が他の鐘と響き合い、ある鐘が別の鐘の音と干渉し、そうして経路を見つけ出していく、その行程のはじまりを見定めることはもはやできません」 *2 と語り終えたノーノが聞いている、DongのngどころかDすら聞き取ることができない、海のような音響の連続体と化した鐘の音、この似ても似つかぬ二様の鐘の音は、「石と煉瓦と水の被造物である」 *3 ヴェネツィアの空に張り巡らされた不可視の音響加工回路でひとつに結ばれている。

その始まりも定かではない、まさにヴェネツィアのきわめて特別な音楽。不意にヴェネツィアの鐘が鳴り響く。鐘の音が宮殿のあいだを揺れ動き出し、水面から壁へと投げ返され、壁がまたそれを反射して、最後には空へと消えていく。この音現象には、ヴェネツィアのすべての鐘が関与しています。(…) 空間は音の絶えざる変遷を、永遠の漂泊を、ヴェネツィアの音の流浪を可能にしています。鐘の音は舗道の足音や小型モーターボートのエンジンの唸る音と重なり合い、再び水の音楽と混合していく。 *4

明らかにノーノは鐘の音が奏でる「ヴェネツィアのきわめて特別な音楽」を、五線譜に書かれた音符をひとつひとつ読み取るようには語っていない。島の内部の鐘楼から海へと流れ出し、空間を縦横に駆け巡りながら石や煉瓦や水面に当たって反射を繰り返し変容していく軌跡としての音を、流れ図を辿るように描写しているのである。

 

鐘の音は群島状に点在する鐘楼から四方八方に、「水のように」拡散していく、と私は以前書いたことがあるが、つきたての鐘の音像は慣習に即して両端を閉じた器の形(Dong)にしても、現実に即して片端を開いた矢の形(Dooooo...)にしても、「水」と呼ぶにしてはエッジが立ちすぎている。鐘の音は鐘楼の泉からいきなり水のように流れ出すのではなく、鐘楼の港から船のように虚空へ旅立っていくと言ったほうが適切だろう。鐘をひとつきすることは音源の島から音の船を一艘出航させることだ。まさに船出を告げる銅鑼である。島に「進みゆくもの」の属性を付け加えるだけで島から船への変換は成し遂げられる。進みゆくものの別名は変わりゆくものである。「無限の空間を走り廻りながら、その顔を変えつづけているのです(ジョルダーノ・ブルーノ)」。 *5 ぐるぐる駆け廻った末にバターになってしまった虎のように、音の船は空間を走り廻って反射を繰り返した末に水のようにすっかり溶けて互いに融合し(con-fusione)、音の海に変貌する。島、船、海は固体、液体、気体に相当する音のメタファーの三態だろうか。固体が通常液体の相を経てから気化するように、空間の一点に座を占める島のような音と空間を満遍なく満たす海のような音のあいだには、空間に航跡を引いて進んでいく船のような線状の音像が介在している。ライヴ・エレクトロニクスのフローチャートで書き表される線的な音は、ヴェネツィアの音景の中で島と海をつないでいるこの中間段階の船影の音楽的表現である。

 

ノーノの音楽を構成する音は二通りの方式で記述される――音の高さや長さを指定する音符による点的な記述と移動経路を示す線や矢印による記述。後者の航路図風の絵面は生物の形態を図示した画像の中では胚の段階に特徴的に現れる。「embryonic tissues actually travel spatially as they develop 胚組織は発生の過程で実際に空間を旅する」 *6 ――まさしく船のように。

 

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胚の大航海時代から時間を遡ると次第に船影は消え、点でも線でも書き表し難い茫洋たる海の光景がひらけてくる。液体を湛えた小さな惑星である卵細胞の球体の海にはのちに船の竜骨や舵の材料となる微小な細胞骨格が目立たない状態で潜在している。 

 

胚の図に付された線や矢印が示すようなダイナミックな臓器の移動がもしも成体で起こったら致命的である。発生の段階が進むにつれて固体状の組織の航行速度は低下し、やがてそれぞれが身体地図の特定の地点に定着して領土を確保し分化を遂げる。そのいっぽうで血液やリンパ液のような液状の組織の流動性は成長とともに増大していく。 *7 成体の全身を循環する液体の流れがもし数分でも途絶えたら致命的である。かくして成体はIslands in the Streamの様相を呈するが、成体の各所に譜面の音符のように配置されている臓器の島はかつて船だったのである。

 

人間がなにかを形づくる際によく用いる、液状のものを鋳型に流し込んで固化させる手法とはまったく異なる原理に則って、生物の形態形成は海(卵)→船(胚)→島(成体)の順に推移する。ヴェネツィアの空間が奏でる音楽、そしてそれを範にとるノーノの音楽は形態形成と同じルートを、しかしまったく逆向きに辿るのだ、島から船を介して海へと。

 

呼吸

 

ヴィンチェンツォ・ベッリーニの音楽を呼吸の抑揚に則って自然に流れる歌と捉えることによって、ノーノはベッリーニの全作品を貫いて流れる一筋の断ち切られない歌を発見したのだった。

Lorsque les chanteurs en viennent à faire seulement comme une espèce de respiration, à tenir ce fil, ils comprennent qu'il n'y a pas vraiment de début ou de fin. *8

歌手らがただ一種の呼吸のような状態となってその流れを保持するに到ったとき、まさにはじまりも終わりもないのだということをかれらは理解します。

歌とは「通常以上に呼吸すること」であり、あらゆる歌は呼吸というひとつの長大な連作歌曲の部分である。あらゆる歌が沈黙によって随所で断ち切られているようにみえるのは、呼吸という「目に見えない詩(リルケ)」のうち歌声で着色されているのは呼気の一部のみで、ほかは無色透明だからである。

 

Risonanze errantiの第137小節では「あらゆる海のなかでもっとも倹ましく貯える海(リルケ)」の連綿たる波のうねりのほんの1周期分が例外的に可視化されている。そこでは歌詞に替わって、空間を音が動いていく軌跡を表すスケッチにノーノが書き込んでいたのと同じシンメトリックな矢印が付されている。最初の矢印はherausで内から外へ向かう流れ(呼気)、二番目の矢印はhineinで外から内へ向かう流れ(吸気)。137小節の驚きを伴う(mit Überraschung)一呼吸が、続く138小節の吐息のこだまU-と無関係であろうはずがない。息を呑むほどの驚きをもって感受した外界の印象(impression)が内部で咀嚼され、吐息や涙となって再び外部へと表出(expression)されるのである(もしくはinspirationとexpiration)。

 

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たとえ一曲の歌の中の沈黙によってもはたまた一曲の歌そのものの終わりによっても断ち切られることがないとしても、一人の人間の一生を上回る延長を呼吸が得ることは遂にかなわないのではないか、そう疑う者はdeathと声に出して唱えてみるがよい。deathという単語の検死結果から、その死因は母音eaを包み込み語に輪郭を与えていた子音の皮膜d-thのthにおける損傷にあると特定される。Risonanze errantiのメルヴィルの歌の終端で4たび繰り返されるdeathで、ノーノはまさしくそのthに毎度強勢を置いている(thの強調は回を重ねるにつれて顕著になり、4番目のdeathではアクセント記号に加えてクレシェンドの先のffffまで冠せられるに到る)。

 

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thの無声歯摩擦音θは破れた語の皮膜から息が漏れ出している音である。死によって広大な空間へと解き放たれていく息吹をノーノは四度にわたり強調しているのだ。四つ並びのdeathでノーノが念押ししているのはたぶんこういうことである――death死とは呼吸の途絶ではなく、もっとも深く長い吐息だ、「水泡の球に包まれていた空気が砕けて飛び散っただけ」 *9 だ。ジョルダーノ・ブルーノは言った、「あらゆる液体が実体においては一つの液体であるように、あらゆる気体は実体において一つの気体だし、あらゆる精神は一つの精神のアンピトリテから来ていて、そこに戻っていく」。 *10 死への怖れは実体の偶有性に過ぎないものを実体と取り違えることから生じる。「死は我々にとって存在するけれども、実体にとってはなんら存在するものではありません。万物は、実体としては、少しも減りません。しかも、無限の空間を走り廻りながら、その顔を変えつづけているのです」。 *11 実体は一にして無限であり永遠である、そのことに思いを馳せるならば、Pone metum――(死を)怖レルコトハナイ。 *12 「事物の本性は実体としては消滅しない。ただ我々の目にはそう映るのです。水泡の球に包まれていた空気が砕けて飛び散っただけのことなのです。なぜならば、ご存知のようにこの世においては、事物はつねに事物へとつづき、創造主の御手によってそこで二度と帰れぬ無のなかに投げこまれるような最後の深淵は存在しないのだからです」。 *13

 

私は死というものをおそらく、異なる様態で(in modo differente)ひらかれた空間と時間のなかを遊弋していく(naviga)ものだと感じています。死は閉じたものではなく、変容していくものである。ある精神的な力が変容し、別のものになり、別のさまざまな空間を、別のさまざまな記憶とともにさすらうのです。待ち受ける、あるいは新たな感情を帯びるのです。 *14

このいかにもブルーノ的な死生観を、ブルーノではなく前年のエドモン・ジャベスとの対話から受けた啓示だと前置きしてノーノが語ったのは1987年のことである。そこから遡ること30年以上前の1953年、マリピエロに宛てた手紙の中でノーノは早くも同じような考えを言葉に表している。

nulla precipita nel nulla della morte, ma tutto si trasforma e permane nella realtà bellissima della vita

いかなるものも死の虚無のなかに落ち込むことはなく、すべては変転しつつ、生の美しい現実のなかで永続するのです *15

私の信ずるところでは、ノーノの上の台詞と先に掲げたブルーノの「この世においては、事物はつねに事物へとつづき、創造主の御手によってそこで二度と帰れぬ無のなかに投げこまれるような最後の深淵は存在しないのだからです」との明らかな類似は意図的な参照の賜物ではなく、自覚なきブルーノ主義者の本領が例によって閾下でいかんなく発揮されたことによるものである。ノーノの作品の中でもブルーノ的世界観が最も色濃く顕れたRisonanze errantiでdeathのその先にひらけてくるのはもちろん「二度と帰れぬ無」などではなく、「五千年前にうねったと同じようにうね」 *16 る四分音符=30の大海原である。それはPrometeo以降の全作品をその懐に包含して果てしなく連なるノーノのアンピトリテである。

 

船の歌はその終端の死によって断ち切られることはなく、海の歌に変容してひらかれた空間と時間のなかをなおも遊弋していく。だがそれですべてではない。Risonanze errantiに移植されたメルヴィルのBattle-Piecesの時間は、死と絶望を踏み越えたその先の南北戦争開戦へと向かう時間でもあった。もはや船影の消えた「おだやかに挽歌を奏でるような海原」 *17リヴァイアサンが、巨鯨が浮上してくる。戦争という名のその怪物が誕生するまでの道筋を暴く言葉を、ノーノは旧友インゲボルク・バッハマンが生前最後に公表した数篇の詩のうちのひとつに見つけたのだった(「バッハマン 鯨の歌」へつづく)。

*1:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226, p. 224.

*2:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990, p. 222-223.

*3:Luigi Nono (1983). “Ascoltare le pietre bianche”. I suoni della politica e degli pggetti muti.

*4:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990, p. 223.

*5:ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、34頁

*6:Susan Merrill Squier (2017). Epigenetic Landscapes: Drawing as Metaphor. Durham: Duke University Press, p. 75.

*7:ジェラルド・M・エーデルマン『トポバイオロジー 分子発生学序説』、神沼二真訳、岩波書店、30~31頁

*8:Luigi Nono (1987). Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes.

*9:『無限、宇宙および諸世界について』、35頁

*10:ブルーノ『キュレネの驢馬』、岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、月曜社、24頁

*11:『無限、宇宙および諸世界について』、34頁

*12:Guai ai gelidi mostri (1983) の最終章PARTE IVで最後に歌われる歌詞

*13:『無限、宇宙および諸世界について』、35頁

*14:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 52-53.

*15:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 16.

*16:メルヴィル『白鯨』135章「追跡――第三日」、阿部知二

*17:同上、「結尾」