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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 3/9

ジュデッカ運河モデル

ノーノが「魔術」だと評した、水の上の音の変容劇。その中心的な演出家は海面による音の反射である。

 

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海面で起こる反射とは要するに、陸から流れてきた音を海が拒絶することである。空中から水中へと透過する音の割合は、だいたい1/1000ぐらいのオーダーであるという。海は、海にとっての向こう側の世界である陸の喧噪を聞く耳を全くといってよいほどもっていない。どれだけ喧しく海面がノックされようとも、海の扉は陸からの訪問者に対して閉ざされたままである。水圏にはもちろん水圏に固有の音が水のなかを伝って鳴り響いているとはいえ、気圏を行き交う音はほとんど遮断されるという意味において、陸のざわめきに対する海中の沈黙は守られる。

 

ところが一方で、陸からやって来た音を水の世界の流儀に染め上げ、あたかも水のような性質を帯びた「水の音」へと変身させる役割を主に担っているのも、その同じ海面による反射である。

 

ヴェネツィアの地図をひろげてみる、するとそこには、陸の原理と海の原理、あるいは固体の原理と液体の原理のある顕著な相違点が、鮮やかなコントラストのもとに描き出されているのが一目でみてとれる。図面上で島の内部を縦横に走る小運河によって、「無数の」と形容したくなるほどの細かな断片に分かれているほうが陸で、きわめて複雑に入り組んだ形状にもかかわらず、ひとつの連続体をなしているほうが海だ(運河の上に架かる橋は無視するものとする)。端的に整理すると、

 

  • 陸(固体): 離散的 分節化 可算
  • 海(液体): 連続的 不可分 不可算

 

ノーノといえば水の都ヴェネツィアの作曲家、なおかつ断片の作曲家だとよく言われるけれども、断片化という操作はじつのところ、水の世界からはまったく縁遠い手法である。断片化を受けつけるのはひとえに固体に限られるからである。水を断片化された状態で安定に保つためには、磯の潮だまりのように固体の器を用意するか、さもなくばモーゼの海割りのような神業にでも頼るほかない。陸から流れ出た音が、「分節という営為が解体を遂げる場」である水の領域へと移行したとき不可避的に生じるのは、したがって、別々の音が「混ざる」という現象である――「鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います」。

 

そしてこの、「音が混ざり合う」という状態を実現に導くにあたって多大な効果を発揮するのが、波打つ海面で生じる音の拡散反射による進路の散乱である。

 

陸地の「複数の」音源から海のほうへ拡散していく音=soundsは、海面がもつ <<反射=音をはねかえす作用>> の裏面にあたる、<<反射=音をまぜかえす作用>> により、水の上のひらけた空間で交錯し輻輳し干渉し、潮騒のようなひとつながりの音響の連続体=sound(uncountable)へと変貌していく。この過程で生じているのは、離散的だったものが連続的になり、分節化されていたものが不可分になり、可算的だったものが不可算的になるという、陸の原理から海の原理への音の宗旨替えであり、手短かに言えば音の液化現象である。水の世界への侵入を試みた音が結界に阻まれあえなく送り返されていく海の上の虚空に、反射の第二の役割である「音を <<水っぽく>> するはたらき」の産物である、音の海が出現する。沈黙の海の上に宙吊られた(=sospeso)この第二の海は、陸の異なる地点からやって来たさまざまな音が融け合い、一体となることによって成立したものである。そこからたとえばサン・マルコ広場の鐘楼の鐘の音だけをふたたび単離するというようなことはもはや不可能だ。音の海を充たしている「水の音」はだから純粋な音ではありえない。それは常態として混合物である。

 

con-fusione

水のようなものが一般にもつこうした特質を、ノーノはよくconfondereもしくはconfusioneというキーワードで形容している。confondereもconfusioneも、意味は英語のconfusionとほぼ同じである。これらの単語をノーノは、con-fondere、con-fusioneといった具合に、con-で切れ目を入れてつかうのだ。一例として、

In Andalusia: crocevia di cultura araba ebraica cristiana – La Con-fusione = il fondere insieme diversi, anche CONFLITTUALI, pensieri spiritI anime *1

*

アンダルシアで――アラブとユダヤキリスト教の文化の十字路

con-fusione = 多様な、矛盾さえしている考え、精神、魂がともに混ざり合うこと

Caminantes...Ayacuchoについての覚書より

 

fusioneは英語のfusionに相当する言葉で、fondereも溶け合う、混ざり合うといった意味、いっぽうconは英語で言うところのwithである。したがってcon-fondereやcon-fusioneは、溶融することによって不分明を招くという含意をもつ。

 

ものが水のようになって溶けるときには、二つのことが同時に生じる。巨視的レベルでは、個体として別々に分かれていたものがひとつにつながり起伏がならされ平板化していくことによって、非人称性への緩やかな溶暗が進行し、微視的レベルでは、固相から液相への転移に伴う可変性の増大によって、波立つ海面のような細部形態の絶えざる変転の発現をみる。その二重のcon-fusioneを経て確たる輪郭を失い、安定性を奪われ、もはや音源を定位することも、はじまりや終わりを特定することも、その正体を言い当てることも困難になった音の変貌のありさまを評してノーノはこう言う、それはまさしく魔術的で、このうえなく美しい音の姿だと。

 

ノーノを魅了したconfondereやconfusioneとは、一様化や等質化のことなのか。これはconfusioneをめぐるよくあるconfusioneであるが、答えは否である。アンダルシアでさまざまな文化が混ざり合っていった結果、まったく一様な定常状態にまで達してしまうのであれば、アンダルシアは世にもつまらぬ所だということになるだろう。ノーノにとって混ざるということが均一化を意味していないことは、この点だけをとってみても明らかだと言える。

 

活字に残されたノーノの発言を読めば読むほどしみじみと実感されてくることがある――ノーノの美学のすみからすみまで浸透しているのは、ものごとを固定して変化の可能性を奪ってしまうことに対する心底からの嫌悪だ、ということ。一様性や等質性などという、「固定」の親戚筋のような静的状態(stato)がノーノの海にふさわしい属性であるはずがないのだ。ノーノが水に惹かれる所以をひとつ挙げるとしたら、不動の大地のあの厭わしい不動性を無みする水の可変性に勝るものは考えられない。すなわち、

 

  • 陸(固体): 定まった形がある 不動性 statico
  • 海(液体): 定まった形がない 流動性 mobile

 

当然の帰結としてノーノの音の海では、先に述べた、溶解に伴い同時進行する二つの過程のなかでも、細部の不断の変容に大きなアクセントが置かれることになる。

 

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■ 海の眺め 3 Post-prae-ludium per Donau (1987) - 07m00s-07m53sのC1音の海の全景

※楽譜はScott Edward Tignorの論文 *2 に載っているもの

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■ 海の眺め 4 "Hay que caminar" soñando (1989) - Leggio 1

 

基本的な海の書き表し方はどちらの例も同じである。音符が描いたあくまで平坦な海の下絵に、欄外注が細部を描き加える。後者によって、細部における海の一様性は否定される。

 

più mobile possibile con microintervalli

微分音程を伴い可能なかぎり流動的に」

 *

suono non statico = I suoni tenuti mai statici ma modulati meno di 1/16

「静止していない音=決して静的に保たず16分音未満の範囲で変動させる」

 

現実の海がそうであるようにこの海は間断なく波打つ海である、という旨をただそのまま伝えているだけの、meno di 1/16という波の高さの指定を除けばなんともふわっとした記述であるが、思うにノーノの徹底した固定嫌悪は、海を波立たせるための具体的な方法をなるべく一意に固定したくないというところにまで及んでいるのである(前にみたGuai ai gelidi mostriの弦の海の場合は、奏法の指定を演奏環境に応じて可塑的に変更するというやり方で脱固定化が図られていた)。

 

いっぽうで、巨視的レベルにおける平板さがノーノの海の必要条件であることも強調しておかねばならない。微細な変異はそもそも平板さの中に、いや上にあってはじめて聞き取れるようになるものだからである。ノーノがチェ・ゲバラの声の抑揚の乏しさを、欠点ではなく美点として語る理由もおそらくその点にある。

全く平坦なしゃべり方で、ことばのメリハリがことさら強調されるようなことはありません。まるで別の空間と別の時間を探して流れつづける歌、夢、ユートピアという感じです。 *3

ノーノの口癖である「別の altro」という、不均一性を前提とする形容詞が、平坦さと結びつけられていることに注意しよう。たとえばノーノは、「ド」というひとつの名で呼ばれ、ふつうは均一だと思われている平面上でのできごとを、やはりここでもaltroの語を用いながらこんな風に描写する。

... anche se la "base" è unica - mettiamo un Do - il suono diventa sempre continuamente un "altro Do" perché è impossibile mantenere fisso e stabile un suono dato in quanto la qualità, le "parziali", gli armonici più alti, cambiano continuamente. *4

*

たとえ基音が一つであったとしても――「ド」であるとしましょう――その音はたえず、不断に、「別のド」になるのです。というのも、音の質、部分音、高次の倍音は不断に変化していく以上、問題の音を固定し安定的に保つことは不可能だからです。

altroが単数名詞につくときは不定冠詞とセットになるという文法上の決まりごとが避けがたく醸し出す、「ひとつのド un Do」がたくさんの「別のド un altro Do」へと複数化されたという、メリハリのつき過ぎているイメージ、それを和らげるために、変化の連続性を示すcontinuamenteが二度繰り返される。さらにsempreの語まで駆り出して、sempre continuamente un "altro Do"ときたら、unが含意する固体/個体性は無効化されたも同然である。石ころのように堅い質感の「un Do 一個のド」が、イタリア語では部分冠詞をつかって表現されるような「いくらかのド del Do」に液化し、もはや輪郭を保持できず一面に滲みひろがっていった「ド」の、遠目には平坦な水面にさざなみが起こる。その途切れることのないことない波のしらべが、

 

...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...

 

である。たえずぐねぐねとうねり続けるこの縷縷たる連続体の只中に、頭に不定冠詞をつけられるような粒だった個体的存在を「立たせる」ことがついぞ不可能なのは、水のようになった「ド」の一様性のためではなく、<un ...> へと固定する暇も与えずaltro...へと形姿を不断に変化させていく、水の高度な可変性のゆえにである。

*1:http://www.luiginono.it/it/luigi-nono/opere/1-caminantesayacucho

*2:Scott Edward Tignor (2009). A performance guide to Luigi Nono's Post-prae-ludium No.1 "Per Donau". [pdf]

*3:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、99頁

*4:Luigi Nono (1985). Altre possibilità di ascolto.