アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 4/8

二度めの脱線:感情と連続性

 

その1 ブルーノの感情論

相反する複数の感情の「同時的な」生起というノーノの立脚点は、ブルーノの「感情論」の大前提とじじつまったく同じものだ。『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』の岡本源太曰く、「苦しみがなければ楽しみはなく、楽しみがなければ苦しみもない。相反する感情は、たがいのことを前提にしている。この指摘は、それ自体としては特異ではない。とはいえ、ブルーノはここからパラドクシカルな帰結を導き出す。すなわち、感情は相反する両極へとつねに同時に揺れ動いている、というのである」。 *1

 

『傲れる野獣の追放』という、ノーノの蔵書リストに含まれているので *2 おそらくノーノも読んだことがあるだろう本の冒頭で、ブルーノはこう述べている。

ソフィア というわけで、物体、質料、そして存在者の中に変化と多様性有為転変がないとしたら、ふさわしいもの、良いもの、喜ぶべきものは、何も存在しないでしょう。

サウリーノ ソフィアさん、あなたの論証はじつにお見事です。

ソフィア 喜びはすべて、ある種の移動や行程や運動に存しています。空腹の状態は不快で悲しく、満腹の状態は不愉快で重苦しいものですが、一方から他方への運動は、われわれを喜ばせます。燃えるような性欲の状態はわれわれを苦しめ、情欲が燃え尽きた状態はわれわれを悲しませます。われわれを穏やかにするのは、一方から他方への移動なのです。不快な過去なしには、現在にはいかなる喜びもないのです。労苦は、<原則的に>、休息の後でなければ喜ばしくなく、休息は、<原則的に>、労苦の後でなければ楽しくないのです。

サウリーノ もしそうならば、悲しみが混ざることなしには楽しさはないことになります。というのも、満足させるものとうんざりさせるものが運動に備わっているからです。*3

ここで予告ふうに提示された感情の問題にブルーノが真っ向から取り組むのは、『傲れる野獣の追放』の翌年に出版された『英雄的狂気』においてである。もっとも『英雄的狂気』がテーマとしているのは、腹がへったときのパンだとか、のどが渇いたときの水だとかいったような日常的、物質的な対象ではなく、神的な対象へと向けられた人間感情のありかたである。ブルーノにとっての神性とは、われわれもその中に漏れなく含まれるところの、この一なる宇宙/自然の無限性とほぼ同義であるから、『英雄的狂気』とはすなわち、限りある者が限りないものと対峙することによって触発される感情をめぐる考察だということができる。

 

無限なるものへと振り向けられた感情は一面において苦悩に満ちている――「英雄的狂気は苦悩になる」。 *4 「われわれの有限な知性が無限の対象を追い求める」 *5 試みは、つねに不完全なものでしかありえないからである。だがその一方で、それと「同時に」、無限へと向けられた感情は喜びでもある。「この無限の苦悩においては、求めているものを所有しないからといって、苦痛があるわけではありません。むしろ、求めているものがつねに見出されるがゆえに、そこには幸福があるのです」。 *6 無限なものの探究はけっして満たされることがないが、それゆえに、パンのように腹いっぱいに食べて飽きるということもないのである。したがって、無限との関わりにおいて生起する感情の基調は、休みを知らない苦しみと、休みを知らない喜びの混淆からなる葛藤状態の、際限ない持続である。「ある種の移動や行程や運動」として、つねに途上にあること。「心の真昼」 *7 とブルーノは言っている。「このような情念は動きの始まりにも、休息のための終わりにも近づいておらず、灼熱した中間点にある」。 *8 無限へと接がれた感情はまさに、... sofferte onde serene ... 苦悩に満ちながらも晴朗な波の、尽きせぬざわめきになるのだ。

 

ところでブルーノは(この点においては『聴く悲劇』を旗印に掲げるノーノとは異なり)、認識において目の果たす役割を特に重視している。神性の(すなわち無限なるものの)輝く光にまなざしを向けるとき、その光は目を「わたしの心へのたやすい入り口」 *9 として、わたしのなかに入り込んでくる、そして心に火をつけ燃えあがらせる、そういう言い方をブルーノはしている。これはなにを意味しているかというと、無限へと振り向けられた感情は結局のところ、無限によって引き起こされた感情でもあるということである――「実際、外の光景は(内なる情念が)存在する発端だったのです」。 *10 わたしの心のなかで感情が千々に揺れ動くのは、この無限なる、実体としては一にして不動である自然/宇宙のなかで犇きあっている、「同一の実体の多様で異なった相貌」 *11 であるところの無数の諸事物の際限ない流転、それとの共鳴の証だと、ブルーノはみなすのだ。外においては永遠の流転であるものが、内においては感情の持続的な変転となって表れる。森羅万象の絶えざる流転とは、「不動で持続的で永遠な存在の、移ろいやすい、流動的な、消滅可能な相貌」 *12 なのであるから、流転を感じるということは、無限の貌をみることに等しい。無限の宇宙/自然を一つの大洋だとすれば――ブルーノもときどきアンピトリテという海の比喩をもちいることがある――わたしがいつでもその海の只中にあって波に揺られている航海者だということを、わたしはわたしの間断なく揺れる感情をとおして知るのである。「人間が感情を抱くという事実は、自然の真理たる永遠なる流転それ自体である」。 *13

 

感情をなかだちとする内と外との共鳴という様相が、ブルーノ的な遍在する無限についての、ある意味ではいまだ不完全な認識の産物であるという側面は否定できない。本当に知るべきことは、わたしが広大無辺の海原に浮かぶ一艘の船として、悠久の波のうねりを感受しているということではなく、わたし自身もまたその海の一滴にほかならないということだからである。ただそこに到るまでの前段階として、感情を介した内面と外面の共鳴状態をブルーノは肯定的に捉えているのだ。ブルーノが『英雄的狂気』で示しているのは、この共鳴をいっそう加熱し、という意味はいっそうの豊かな感情をもって、内と外を隔てるかりそめの障壁を灼き切るようにして無限の一者との合一にいたるという、狂気furoriの名を冠するにふさわしい非常に情熱的なみちすじである。

 

その2 ノーノの感情論

ではこうしたブルーノ的感情論に、ノーノの思想がどう絡んでくるのか。先に引用した二つの発言を読むだけでは掴みづらいので、少しく補足の必要がある。

 

シナゴーグの歌が揺れ動く感情を反映しているという主張を聞いて、間違ってもノーノが「歌は心でうたうもの」だとか「命を削って紡ぎ出した魂の旋律」だとかいった類のなにか情緒的なことを言っているのだと解してはいけない。ノーノが指摘する感情の動きとは具体的にどういう性質の動きなのか、それを見極めることが肝要である。感情の動きを反映したシナゴーグの歌の動きとは、le oscillazioni infinitesimaliだとノーノは言っている。間断なく揺れ動いてはいるが、遠目にみれば平坦にみえるくらいの微細な動きである、ということ。そう聞けば、誰もが「あれ」を思い浮かべるのではないだろうか。

 

この点をいっそう明確にするために、もう一つ別のテキストを読んでみよう。ノーノが1987年に来日した折に催された講演の一節である。

チェ・ゲバラの声には、昔から今日にいたるまで常に存在しつづけた大いなる「砂漠」、大いなる夢、ユートピアがあります。私はかつてヘルダーリンやロルカ、ウンガレッティ、また古代ギリシャの詩人をマッシモ・カッチャーリとともに研究しましたが、それと同様にチェ・ゲバラの声についても、彼自身の書いたテキストとの関係のみでなく、その抑揚を分析しました。私はあまりうまく真似できませんが、全く平坦なしゃべり方で、ことばのメリハリがことさら強調されるようなことはありません。まるで別の空間と別の時間を探して流れつづける歌、夢、ユートピアという感じです。

 

もし同じ内容を、全く対照的な激しい抑揚で熱情をこめて語るとどうなるでしょうか。まるで陳腐なイタリアのベル・カントです。もっともここでベル・カントと私が言うのは、ヴェルディを指すわけではありません。彼は偉大な作曲家で、声やダイナミックスやテンポの新しい用法を生み出しましたが、ただ残念なことに演奏のされ方がまずいのです。先日日本のテレビで、イタリアの歌手たちによる『仮面舞踏会』を見ましたが、その上演は滑稽なものでした。私が今語っているベル・カントとは一番悪い種類のベル・カントのことで、例えばマスカーニやレオンカヴァッロ、そしていくつかのプッチーニの作品など、前世紀末から今世紀はじめにかけて書かれたものに見出されます。

 

ヴィンチェンツォ・ベッリーニの取った態度には――これは彼のあまり知られていない側面なのですが――、それらの作曲家たちのとは大いに異なります。彼は作曲するときテキストを繰り返し読み上げ、自然な抑揚で流れるようにしました。そこではテキストの意味は二義的となり、重要なのは声の抑揚です。チェ・ゲバラの声におけるのと同様、声の時間と空間、そして甘美な夢が限りなく続いていきます。私はいくつかの分析を通じて、チェ・ゲバラの口調とベッリーニの歌曲の声の抑揚にいくつかの関係を見つけました。 *14

三つの声が比較されている。チェ・ゲバラの声、イタリアのベル・カントベッリーニの歌。チェ・ゲバラの声とベッリーニの歌にノーノは類似性を見いだしており、いっぽうこれらに対置されるある種のイタリアのベル・カントは陳腐でかんばしからぬものとされる。

 

まず注目すべきは、さしあたって「ベル・カントのような」と呼ばれているものに対するノーノの評価である。それを「イタリア製メロドラマ」という形容でノーノが呼ぶこともあるが、「激しい抑揚で熱情をこめて語る」こと、要するに、常識的な理解における感情のこもった語り方、歌い方を、ノーノはまったく下品なつくりもので、ウンザリだとしているのである。それではイタリア製メロドラマのなにがいけないのかといえば、抑揚が人為的に誇張されていて巨視的にすぎる点である。あたかも陸地のように起伏に富んでいる、富みすぎているがために、その代償としてこの歌はいささか硬直的で、自然な流れというものを欠いている。逆にチェ・ゲバラの声は、ある意味でメリハリがなく、「全く平坦」だ。ただし平坦というのは動きがないという意味では断じてない。チェ・ゲバラの声はなによりも、「流れつづける」というその性質によって特徴づけられるのだからである(「別の空間と別の時間を探して流れつづける歌」)。同様に、ベッリーニの歌は「自然な抑揚で流れる」滑らかな歌である。

 

平坦ではあるが滑らかに(連続的に)流動するもの。ノーノは砂漠のたとえを用いているけれども、もちろん言うまでもなくこれは、海にふさわしい属性である。だからノーノがここで話していることは、小学生が遠足で登るような高尾山ですら標高599mにも達する「不動の大地」と、千年に一度の大波ですらせいぜい波高50mにしかならない「波打つ海」の原理の差異にほぼ相当する事柄なのだと考えればよい。言い換えれば、起伏はあるが流れのない陸の歌と、平坦だが流れのある海の歌の対比である。

 

その海の歌の代表格ということになるベッリーニの歌に関してノーノがかねがね披露しているきわめてユニークな議論に、数々の重要なヒントが含まれている。1987年にパリで出版されたベッリーニの論集に収録されている、

 

Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes  

ベッリーニ:地中海文化の十字路にたつシチリア

 

と題されたノーノの談話を第三のテキストとして参照することにしよう。

*1:岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、月曜社、46頁

*2:http://www.luiginono.it/en/node/12689

*3:ジョルダーノ・ブルーノ『傲れる野獣の追放』、加藤守通訳、東信堂、29-30頁

*4:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、56頁

*5:同上、157頁

*6:同上、256頁

*7:同上、162頁

*8:同上、163頁

*9:同上、209頁

*10:同上、105頁

*11:ブルーノ『原因・原理・一者について』、加藤守通訳、東信堂、19頁

*12:同上、179頁

*13:岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、171頁

*14:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、99-100頁