アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Guai ai gelidi mostri Texts 概略 2

6 Rosenzweig

第1章をしめくくるのは、国家についてのローゼンツヴァイクの言葉である。永遠の生を生きるユダヤの永遠の民族に対し、時間的な生を生きている世俗の諸民族が、自らも永遠性を我が物にしようという企てがローゼンツヴァイクの国家であり、したがってそれは時間と密接に関わっている。国家の暴力は、時間に対してふるわれるのだ。

 

永遠の民族は、瞬間を永遠化する、きょうを永遠へと作り変える、彼らの瞬間は過ぎ去るのをやめ凝固しているとローゼンツヴァイクはいうが、しかしこれは決して静止状態を意味するのではない。瞬間が、時の流れに対して「時機Stunde」に、「とどまれるいま」になるために必要なのは、時が流れ去るのではなく、終わりが再び始まりに流れ込むような円環を成すことである。

 

祝祭日の連なりからなるユダヤ宗教的な一年はそのような円環であり、その中では神「と」世界「と」人間という3つの普遍的要素をつなぐ一筋の流れ、軌道が循環している。この循環する軌道それ自体に対してローゼンツヴァイクが発するのは、「たちどまるな」「流れよ」という言葉である。

祝祭日は健康な日常とまったく同じように、神がなん「である」かも、世界がなん「である」かも、人間がなん「である」かも知らない。祝祭日はそれらの「本質」にはすこしもわずらわされない。祝祭日は、隔絶した神も、孤独な人間も、周りを囲まれた世界も知らない。むしろそれが知っているのは、この三者がたがいに移行し運動すること、たがいにばらばらになり、たがいに交わりあり、たがいに関係しあうことだけである。願う、与える、受け取る、感謝するという行為の流れが途切れることなく循環しなければならない。人間が願い、神が与え、世界が受け取り感謝する。そして、人間があらためて願う。この流れの循環のうちにはどんな暗礁も、どんな不変の渦も存在してはならない。

[……]

祝祭日どうしが連なりあって祝祭年となる。一年が経過してはじめて円環が閉じられる。ここにもまたどんな暗礁もあってはならない。ここにもまたどんな存在もあってはならないのであって、あるのはただ進展と流れとさらなる流れだけである。ここでもまた、祝祭日は日常がそうであるもの、つまり移行――進展し、さらに進展し、けっして立ち止まらないこと――である。 *1

永遠性を希求しはじめた世俗の民族は、古い法を更新する国家の暴力によって、古いものと新しいものの矛盾を力づくでつなぎ合わせて円環にし、時の流れをせきとめようとする。しかし、暴力が凝固させたこれらの瞬間がもたらす永遠性は、ローゼンツヴァイクの言葉では「擬似永遠性」である。

 

7 Memor

国家の終焉は、空気の変容であるとともに時間の変容でもある。「物という物を食い尽くす時」の強大な力はテキストの1章、2章を席巻している。あらゆる腐敗、腐食の進行。病に斃れ次々に死んでいく人たち。さまよう死霊。ただしその中で、第2章のIlle Memorだけは異質な存在といえるかもしれない。

Ille Memor = He who remembers

昔からのしきたりを忘れずに覚えている人は、死霊レムレースに立ち向かうための言葉、所作を知っており、死霊の狩りにたじろぐことなくレムリアの祭儀を執り行うことができる。

Memor, Celui qui se souvient, qui connaît les mots et les gestes capables de faire face, Ce Memor ne fuit pas devant la Wildjagd (chasse sauvage) des Lémures, il se dresse face à elle et accomplit son rite. [LINK ]

祭暦から切り取られ、ニーチェルクレティウス、パウンドの引用が放つ死臭や腐敗臭に包囲されて孤立した断片でありながらも、Ille Memorは、仮借ない時の流れに抗して時間が作り変えられる兆しがレムリアの暗い夜の中に既に潜んでいることを、それとなく告げ知らせているようにもみえる。

 

8 das Offene

国家と国家の終わりを架橋する第3章は、ほぼその全体が、「開かれ」を主題に据えたリルケの『ドゥイノの悲歌』第8悲歌の引用で構成されている。

 

冷たい怪物が「essere-stato=であった」の刻印を押して凍りつかせた過去の硬さ、「全てを貪る時」の謂でもあるusuraが利子として残したハスクの硬さは、安定した輪郭を欠いた、捉えどころの無い空虚な拡がりに曝されていた。ニーチェには呼吸するすべを心得るべき空気があり、パウンドには潮騒に耳を傾けるべき海があった。そしてリルケの「開かれ」は、まさしく全き空虚である。時間の廃絶された、対象化しえない「開かれ」は、動物の眼だけが見ることのできる世界である。人間の向き合っている形態化された世界は「空間の断片化」と「時間の継起」 *2 により特徴づけられる。言葉により世界を分節化し、動物たちの純粋な空間に縦横に亀裂を走らせてしまう人間、時間的な生を生き、動物がすべてを見るところに未来を見いだしてしまう人間の背後に、「動物たちの大いなる無」が立ち現れる、時の継起の中を流れる言葉を生産する暴力に抗する沈黙として。

Le Néant n'est plus le simple Néant, le vide, l'absence — mais le grand Néant où résonne, profond, das Offene, l'Ouvert de Rilke : silence qui résiste à la violence productive de la Phrase, à la violence du dis-courir, du bavardage, du « on », essence de la Terre et de l'Animal qui résiste à la violence imposée, à l'Hybris, qui de ce Bestand (existence) veut faire une pure propriété. C'est le grand Néant d'où constamment naissent les mots, les souvenirs, les rythmes. [LINK ]

その空虚からは、言葉、記憶、リズムが絶えず産まれ出る、カッチャーリのテキスト解説はそう書いているが、「そこでは物と名の音がもはや流れることなく、継起する次の音のために生まれることもない」。 *3

それは、産出する空虚である。しかし、その語の生産、建設という意味において、そうであるわけではない。空虚からあふれ出るもろもろの偶然は、聞き取られるもろもろの形と同様、進化―進歩の階梯にそって序列化されるわけではない。そうした階梯にしたがうなら、あるものは他のものを補完したり、他のものの意味、運命を表現したりするのであるが。あらゆる音はユニークであり、反復不可能である 。 *4

その空虚から産まれ出るものをニーチェの言葉で言い換えれば、(国家が終わるところではじまる)「一回かぎりの、かけがえのない歌」ということになる。

 

9 Entwicklungsfremdheit、隣人、カミナンテス

最終章、国家が終わるところで、「余計なüberflüssig人間でない人間がはじまる」。ニーチェのこのüberflüssigという語がここでは字義どおりにüber-flüssigと読まれている。

commence à ne pas être « superflu », Nietzsche : überflüssig, c'est-à-dire qu'il commence à ne pas « fluer », à ne pas courir ou dis-courir ; il commence à pouvoir rester debout ou à tenter de rester debout ; [LINK ]

すなわち、余計な人間でなくなるということはsuper-fluousではなくなること、流れないようになること、立っていることができるようになること、立っていようと試みるようになることであると言う。いまや「流れないこと/立ち止まること」と読まれるようになったnicht überflüssigに、先に引用したローゼンツヴァイクの言葉――ここにあるのはただ流れだけ、けっして立ち止まらないことだけだと説くローゼンツヴァイクの言葉は、いっけん真っ向から対立しているように見える。ローゼンツヴァイクだけではない。1986年のスペイン旅行の折に立ち寄ったトレドの修道院の壁に書かれていた

Caminantes no hay caminos hay que caminar

という言葉を、ノーノがその後の創作のモットーに掲げたことはよく知られているが、caminarすなわち歩くことは、立ち止まることのまさに逆ということになるのではないか。

 

質的に異なる多種多様な流れ/歩みを、等し並みに同じことばで言い表そうとすることにどうやら間違いがあるようだ。Guai ai gelidi mostriのテキスト第4章の表題は、ゴットフリート・ベンの詩Statische Gedichte(静学的詩篇)冒頭の一行より採られたEntwicklungsfremdheitである。

Entwicklungsfremdheit / ist die Tiefe des Weisen

発展にうといのは /  賢者の深みだ

したがって、ここでのnicht überflüssigはとりわけ、発展とか進歩と呼ばれるような流れ、歩みに対するnicht überflüssigだということになろう。発展というものに価値を置く進歩崇拝者は、「ぼんやりと虚空を見つめる馬鹿者みたいに遠くをさまよい歩く人」だと、ローゼンツヴァイクは評している。

ぼんやりと虚空を見つめる馬鹿者みたいに遠くをさまよい歩く人は、すぐ近くにある良いものを見すごすのがつねである。

[……]

人間は瞬間においてすべてを手にしている。

[……]

そのつど彼のもっとも近くにいる人が彼のために全世界を代表することができるし、彼のそのつどもっとも近い瞬間がすべての永遠を代表することができる。ところがいまや発展の思想は、彼が人間であることのこうした特権と義務を彼から奪ってしまう。 *5

ローゼンツヴァイクの考える、「発展にうとい者の歩み」がいかなるものなのかは、上の短い引用にも端的に示されている。それは、濃霧の海原の果てしない航海のように、そのつどもっとも近くにあるものをすべてとして遇する歩みである。「隣人」という言葉の意味は、文字どおり、「そのつど彼のもっとも近くにいる人」のことだとローゼンツヴァイクは指摘している。隣人が愛されるのは別に彼が眉目秀麗だからではなく、今この瞬間に彼がすぐ隣にいるからというただ一つの理由によってのみである。個々の瞬間ごとにもっとも間近な存在へと向けられる隣人愛の旅路は、「創造物の全域を歩測しおわるまで」 *6 休らうことなく続くだろう、しかし、「この世界遍歴においてどのような順序が守られるかはまったく不定」 *7 であるという。

 

ローゼンツヴァイクは、われわれが現在生きている世界のうちに、いまだ言葉のない前世界と、もはや言葉のない超世界の沈黙の安らぎのうちには存在しないもの、すなわち、彼が「軌道」と呼んでいる絶えざる流れを見いだした。神と人間と世界という三つの普遍的要素を連関させる、この決して立ち止まらない流れを駆動しているのは、個々のたえまない、しかし予測のつかない運動である。啓示者としての神の愛は、「あらゆる瞬間に新たに目覚め」 *8 、「つねに新鮮な衝動でもって世界を経めぐる」。 *9 「そして、いつかこの愛はまだそれにとらえられていないものをもとらえるだろうという確信を除けば、それがどうとらえるか予測がつかない」。 *10 隣人愛を待ちうける世界の成長は必然的でありながらも、隣人愛が対象をとらえる際の盲目的性格ゆえに、その道筋は「予測不可能である」。 *11 こうした予測のつかなさの根源にあるのは、そのつど全身全霊で身を投じることによって体験される、個々の瞬間の圧倒的な重み、時間の連続性を断ち切るほどの重みである。逆に、「時間という長い街道をたえずだらだらと先へ先へと進んでゆく」 *12 ような発展/進歩の歩みにおいて、眼前の瞬間は、遠い彼方の目標に近づくためにただ通り過ぎるだけの移行点の一つにまで格下げされる。

 

啓示者としての神の愛はまったく純粋な現在であって、未来が考慮されることはいっさいないのに対し、隣人愛の属する救済の領域で未来の次元がひらけてくるが、ローゼンツヴァイクの場合、それは「先取り」という特徴的なかたちをとっている。隣人とは、「さしあたりもっとも近くにいる人」のことでしかない。近くにいるということ以外になんらの規定も受けない「任意のだれか」としての隣人はしかし、その不定性ゆえに、「隣人であるというこの場所を占めうるようなすべてのもの」 *13 を代表することができる。隣人への道は、ひたすら海面を行くほか途がない船のように、高みから全体を見渡す視点を徹底して欠いているはずだった。それにもかかわらず、もっとも身近にあるこの局所的な瞬間に、隣人という集光鏡によって全体性が、普遍的なものが導きいれられるのである。私と私の隣人が声を合わせて歌う今日は、やがてこのささやかな歌声が、全員が声をそろえて歌う「われわれ」のユニゾンへと高まる日を先取りしている。さらに、「われわれ」も、「われわれ」がみずからの統一性のために無へと追いやった「君たち」も等しく「彼ら」として包摂する全一の光のもとで、すべてが沈黙のユニゾンへと溶解する終わりの時すらをも先取りしている。

 

先取りされる未来は、長い時をかけて歩いていく遠い彼方にあるのではない。そうではなく、未来は「きょう」到来することのできるものである。先へ先へと進んでいく進歩主義の歩みに「待つ」という時間的な態度が対置される。いまここで待つ者のもとに、未来が引き寄せられ現在へときひだされる、 そうしてはじめて未来はとらえうるものになる。ローゼンツヴァイクはそれを、未来を瞬間のうちに先取りすることによって、瞬間が成熟し永遠化することだと言っている。

*1:ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』、村岡晋一訳、作品社、115-116頁

*2:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、124頁

*3:同上、128頁

*4:カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号

*5:ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』、村岡晋一訳、作品社、102-103頁

*6:ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、361頁

*7:同上、361頁

*8:同上、243頁

*9:同上、249頁

*10:同上、250頁

*11:同上、347頁

*12:同上、349頁

*13:同上、334頁