アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの前篇 4/4

0752 溢水

ダラピッコラのオペラIl Prigionieroを海とするならば、ノーノのCon Luigi Dallapiccolaはその海に浮かぶ捕鯨船のようなものである。Il Prigionieroの海原を遊弋していたfa-mi-do#というたった3音の素材が、Con Luigi Dallapiccolaでは船上に引き揚げられ、皮を剥ぎ取られ、切り刻まれ、釜で煮られ、圧搾され、遂には演奏時間15分前後の一箇の音楽作品にまで膨れ上がっていく。メルヴィルの『白鯨』のなかで、檣頭から遠望される一頭の鯨がピークォド号によって仕止められ、徹底的に解体し尽くされる過程で、厖大な記述群が溢れ出してくるように。話の筋のようなものをほとんど難破させる勢いで『白鯨』に氾濫する、鯨にまつわる細部の縷々たる記述の、あの海のような平板さ。船上で完膚なきまでに解体されていく鯨の体においては、内部と思われるものも悉く表面の一細部へと縮退していき、輪郭と奥行きを奪われた鯨は、やがてそれ自体が海に似たもの、その表面に浮かぶ細部のみが触知できる、とめどない海面のようなひろがりへと変容していくと、岩成達也は指摘している。 *1 メルヴィルが書いているように、船上に鯨を引き揚げるということは、鯨の側からみれば、利用可能な所有物である「仕止め鯨」として鯨が解体操作に委ねられることであるが、船の側からみれば、しみひとつない乾いた甲板が、ある日「血と油との川」 *2 (海と呼んでもいいだろう)の溢水におそわれるということでもあるのだ。

 

ノーノによる音の解体作業が精度を増していくにつれてしだいに惹き起こされてくるのも、同様の事態である。Das atmende Klarsein(1980/1983)以後に導入されたEXPERIMENTALSTUDIOのライヴ・エレクトロニクスは、Con Luigi Dallapiccolaで使用された原始的な技術に比べてずっと高性能の音響解体装置を装備している。音の表皮を溶解させるリバーブ、肉切り包丁としての周波数フィルタ、フィードバックによる複数の音の圧縮/混合。ピッチシフトに伴う音質の変化は、回避すべき問題としてではなくむしろ、原音の音色を脱色させる機能として積極的に活用されているようだ。音はあたかも徹底的な分解の涯に微細な粒状あるいは液状と化したかのように、空間を遊動する性質をハラフォンによって与えられる。かくして、侵蝕されていく音の島から安定した形をもたない、名前も定かでない、何かはっきりしない水や粉塵のようなものが遊離して、島と島のあいだの海へと拡散していく。止めるべくもないこの溢水現象によって島から海のほうに滲み出していった、分解や混合のていども様々な海洋性の音響とは、たとえば次のようなものである。

 

例1 Omaggio a György Kurtág (1983/86) では、音響処理装置に入力された演奏音に3秒のディレイをかけてフィードバック・ループで攪拌したあと、圧縮/混合された音響を時間差を置いて楽音と楽音のあいだの空隙に出力させるという加工技術が用いられている。たとえば、18-20小節のフルート、クラリネット、チューバの演奏音が、装置に呑み込まれてから約20秒の潜伏期を経て、23-27小節の、全休符が連続する空白地帯に湧出してくるといった具合に。圧縮というのは、時間的に継起していた演奏音が、フィードバックによって3秒周期で垂直に積み重ねられていくからであり、また混合とは、フィードバックによる音の堆積に加えて、ピッチシフト、リバーブ、あるいは周波数フィルタといった音響加工も施されていく過程で、個々の音の輪郭は崩れていき、次第にひとつに融けあっていくということである。1994年に録音された旧盤(MO 782047)では、おそらく録音技術の限界のために、もとの演奏音の形状はほとんど聞き取れないほどにまで溶解してしまい、素性のよく分からない持続音へと一体化して、空隙を水のように充たしている。最新盤のSACD(NEOS 11122)だと、溶け残った演奏音の欠片の手触りが随所に感じられ、水というよりは、解体されていく鯨の身体から、引きちぎられた肉片や油滴混じりのぬらぬらした体液が流れ出しているような、生々しさの残るテクスチュアを醸し出している。

 

例2 Risonanze erranti (1986/87) のところどころに差し挟まれる、母音の柔らかな響きを湛えた古いシャンソンの「谺」。母音を谺として扱う手法はCori di Didone (1958) で既に用いられているが、ライヴ・エレクトロニクスによる処理を受けたRisonanze errantiの谺は、その多くがリバーブによって輪郭を奪われ、さらにハラフォンによって流動性を与えられることで、より直截に水のような性質を帯びるようになる。(エルンスト・ユンガーは『母音頌』のなかで母音を細胞の原形質にたとえ、「原形質は海の写し絵をあらわす」と『ヘリオーポリス』で書いている)NEOS盤SACD(NEOS 11119)の19分39秒ごろから始まる谺の場合であれば、pleure(泣く)という語(子音の身体plから流出する母音eure)を歌うアルトと、同時に演奏されるチューバの、それぞれ3つの音符で表される音が深いリバーブとハラフォンの作用によって空虚の海へと滲み出していき、遠くの方で混ざり合いながら、「すべての嘆きと憧れが青い粒子となって溶けあっている無限の青み」 *3 へと溶解していく過程を聞くことができる。

 

例3 ライヴ・エレクトロニクスによる最も高度な分解を受けた音響が出現するのはGuai ai gelidi mostri (1983) だろう。なかでも、NEOS盤SACD(NEOS 10801)トラック1の4分20秒あたりからかすかに聞こえ始める持続音の完膚なきまでの粉砕っぷりにはただならぬものがある。フィードバック、ピッチシフト、周波数フィルタといった処理を経て漂白され、もはや何の楽器に由来するのか定かではなくなった無名の音が奏でる遠い海鳴りのような匿名のドローンは、解体と拡散の末に名前も形も失った音の粉塵が、海それ自体の尽きることないざわめきへと転じたかのようだ。

 

0753 漂着物

Post-prae-ludium per Donauの53秒間の持続音。La lontananza nostalgica utopica futuraや"Hay que caminar" soñandoの、揺れ動く持続音。これらの、演奏法に関する註釈つき持続音は、いま3つほど例を挙げた、島から海へと滲み出していく「水のような」音響の系譜を受け継ぐ音であると考えている。その証拠らしきものとして、Fragmente - Stille, an Diotimaと"Hay que caminar" soñandoの楽譜を比較してみよう。するとHay que caminarの持続音は、Fragmenteにおいて音の断片と断片のあいだの休符の置かれていた場所、すなわち、島と島のあいだの海であった場所に出現していることが分かる。

 

これらの音が特異なのは、楽譜上に音符として明示的に記されているという点である。海で鳴っている音の多くにはライヴ・エレクトロニクスが関与していて、ライヴ・エレクトロニクスの性質上、それらの音が音符として楽譜に現れることはなく、あたかも音符から流れ出した水のようなものが譜面の余白に拡散していって、そこでざわめいているかのごとき在り様をしているのが通例のはずなのだ。

 

この点に関する理由づけは、外洋の海表面を漂うアサガオカイやアオミノウミウシのような浮表動物群が、風の加減で時にはまとまって岸辺に吹き寄せられることがあるのを思い出せば、そんなに難しいことではない。つまりこのような音符を、渚に流れ着いた海からの使者とみなすわけだ。打ち上げられてもなお、身体に染み込んだ海洋の色が褪せることのないアサガオガイやアオミノウミウシのように、五線譜の岸辺に漂着した音符が、出自である海の記憶を失うことはない。それはただの持続音ではない。その音符から発散されるのは、海の蒼い持続音である。

 

いっけんただの水にしか見えなくても、飽和水溶液には無数の溶質が不可視の状態で溶け込んでいる。それと同様のことが、海についてはいっそう劇的に当てはまる。海の沖合いのほうは、子どもたちでみち満ちた世界である、というのは、たいていの海洋動物が孵化後一定の期間、沖合いで浮遊生活を送るからである。ただし、ほとんどの浮遊幼生は、漂流の途上で捕食されたりして消耗し、着底にまで到るのはほんのわずかである。私たちが渚で出会う、ホホグロギンポ、クロシタナシウミウシヤツデヒトデ、コシダカウニ、チンチロフサゴカイ、スベスベマンジュウガニ、ウノアシ、アカヒレハダカハゼといった無数の動物たちは、形らしい形もない沖合いの青い連なりのなかに、いまだ展かれることのない可能態として漂っていた素材のごく一部が、確率的にみてもまさに奇跡的に現実化されたものにすぎない。

 

海の持続音は、この目も眩むような可能性の疼きを湛えて然るべきであると思う。だが、作曲家がそれについて具体的に書けることは多くはない。作曲家の領分は、島の海岸を埋め立てるとか、防波堤を築くとか、あるいは自然のままの海岸線を保全するといったような、島の景観設計であって、海はその勢力圏の外に拡がるものだからである。

記述が海に関する事項におよぶとき、記述は常に曖昧となり、 *4

打ち上げられたアサガオガイを生きたまま持ち帰ったところで、カツオノエボシやカツオノカンムリやギンカクラゲのような妙なものばかり食っているあの外洋の生き物を飼育するのは容易ではないだろう。結局、作曲家にせいせい出来ることは、

  • suono lontanissimo e più mobile possìbile con microintervalli
  • The sound is variable for microintervals of less than 1/16 (of a tone): searching for itself or searching for the sound varying it every time
  • Sounds never held static but modulated less than 1/16 of a tone

といった海についての曖昧な記述により、そこで鳴るべき音についての要望を奏者に託すことくらいである。こういうあまり具体的でない説明書きをもとに、具体的にどのような音を出すかは、それこそ奏者によってまちまちだろう。かくしてこれらの持続音からは、奏者の数だけのさまざまな海がひろがっていく。"Hay que caminar" soñandoの持続音が湛える響きも、十人十色である。なかには、Sounds never held staticと言うほどに音が揺れているとは感じられない演奏もある。おそらく、ノーノのこのような書き方にあまり好意的でない奏者もいるのではないかと思う。「こんなこと言葉でゴチャゴチャ言われても知りませんがな」とか、「1/16 of a toneとか無理でしょそんなの」などといった具合に、書かれていることを奏者があまりまともに受け取ろうとせず、そのおかげで海が生気を失ってしまうおそれがあることは否めない。しかし、作曲家が海の事象を思いどおりに操るすべを持たない以上、それもまた一つのありうべき帰結なのではないか。

みなさんはじっくりとそれらについて思いめぐらせ、受け入れるのか、拒否するのか考えることができます。 *5

 

ノーノの要請がときには受け入れられないということ、「その苦痛もまた見られるのであり、世界の事実のひとつであり、曇りのない眼で見ることを学ばなければならない偶然のひとつ」 *6 なのだろう。

*1:岩成達也「モゥビ・ディクの短い見取図」、『マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験(青土社)』所収

*2:ハーマン・メルヴィル『白鯨』より、九十八章「積み込みと片づけ」、阿部知二訳

*3:原民喜『美しき死の岸に』より、「夢と人生」

*4:岩成達也「モゥビ・ディクの短い見取図」

*5:ルイジ・ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社

*6:マッシモ・カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号