アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの前篇 2/4

0000-0430 晩夏

演奏開始から5m20sまでのあいだ稼動するライヴ・エレクトロニクスのプログラム1は、チューバの演奏音に対し、5、7、10、15秒の4つのディレイを生成する。このディレイの設定の意図を知るためには、別の作品、二人の奏者のためのA Pierre (1985) の考察からはじめるのがよいだろう。

 

A Pierreのディレイは24秒、またはバンドパスフィルタによる処理を加えたうえでの12秒という、Post-prae-ludium per Donauと比べてかなり長いディレイであるが、これには実験的な裏づけがある。さまざまな音が聞こえてくる環境である音にディレイをかけたとして、ディレイの長さが3秒ていどであれば、おそらく聞き手はディレイに気づくだろう。しかしディレイの長さが60秒だったとき、1分前に聞いたのと同じ音だと聞き手が認識できるかどうかはかなり疑わしい。そう考えてみると、音の島々が浮かんでいる時の海にも、そこを超えるともはや向こう側を見ることができない水平線のような閾がどこかにあるはずである。EXPERIMENTALSTUDIOで行われた心理学的な実験により検証したところ、水平線は約24秒の位置にあるという結果が得られた。 *1 ディレイの長さが24秒を超えると、音と音の間隔が開きすぎて、聞き手はディレイがかけられていることをよく認識できなくなってしまうのだ。ただしこの長さは 音色や音のリズムパターン、音の聞こえる位置などの条件次第で大きく変動する。バンドパスフィルタで処理し、さらにリバーブを加えて音の同一性を損なってやると、水平線は半分の12秒にまで縮小することもある。

 

A Pierreのディレイは以上の実験結果を踏まえて設定されたものである。ディレイの長さをあらかじめ知識として知ったうえで意識して聴けば、12秒後と24秒後に同じ音型が回帰してくるのを確認できるが(ただしエレクトロニクスの出力レベルは時間とともに変動しているので、常に明瞭に聞こえるわけではない)、予備知識なしでディレイを自然に認識するのは容易ではない。A Pierreのディレイは、ちょうど心理的な水平線のあたりに位置している。この条件の下だと、たいていの聞き手はたまに特徴的な音型が現れた折にディレイに気がつくていどで、規則正しいディレイが一貫して働いていることまで察知するには到らない。そのため全体としては、音の断片が仄暗い空間を無秩序に浮遊している捉えどころのない音楽という印象をA Pierreから受けることになる。

 

翻ってPost-prae-ludium per Donauのディレイは、ふつうに聞いていてもディレイがかかっていることを自ずと感じとれるような長さに設定されている。演奏開始から5m20sまでのあいだ、チューバ奏者は楽譜Aにしたがって、4種類の奏法を用いながら多様な音の断片を発出していく。これらの雑多な断片同士を組織づけるような秩序は存在しない。それに対し個々の断片には、ディレイによって5、7、10、15秒の不均一な節のある全長15秒の時の矢の形状が与えられる。この小さな時の矢は、聞き手に5、7、10、15秒の時の経過を報せてくれる原始的な時計である。ここから生まれる音響空間は、ツクツクボウシ節足動物にしては異様に起承転結のはっきりした声で鳴き交わす夏の終わりの雑木林とよく似たものになる。時の溶解した、終わりなき夏の溶液のなかから、小さな時間のベクトルが無数に析出してくる、日本の晩夏におなじみのサウンドスケープ、それとよく似た感覚を聞き手はここで体験することになるはずだ。

 

ところが話はそれだけで終わるというわけではない。数多の時の矢をつくりだしこの世界に散布したのはライヴ・エレクトロニクスの音響技術者である、だが彼は同時に、それらの創造物を毀損してしまう破壊者でもあるのだ。演奏開始後4m40sまでのあいだ、エレクトロニクスの入出力レベルは任意のタイミングで調整される。この点に関しノーノは「二人の破壊者を召喚せよ」と推奨している。 *2

 

一人は入力レベル、すなわちマイクロフォンの拾った演奏音が音響加工機器に送り込まれるところのレベル、もう一人は出力レベル、すなわち音響加工を施された音がスピーカーから出力されるところのレベルを、それぞれ独立にいじくり回す。たまたま入力のレベルが低いところにあたれば、4つのディレイすべてが聞こえにくくなる/聞こえなくなってしまうし、出力のレベルが下がると、複数のディレイのうち一部が欠けてしまう。夏の驟雨のように気まぐれなこの攪乱作用により、4つのディレイの連鎖がつくりだす時の結晶構造は、しばしば相当度の破壊を受けることになる。

 

入出力レベルの増減による攪乱のほかにもさまざまな要因に触発されて、時の矢は鮮明にもなれば不明瞭にもなる。チューバが発する個々の音の形状は、ディレイの聞きとりやすさに殊に大きな影響を与える。ディレイを追跡することは同じ音型の回帰を追跡することだから、特徴ある音型のほうが当然ディレイを追いかけやすくなる。Post-prae-ludium per Donauの楽譜はノーノがappuntoだと言うくらいで、チューバの出す音を厳密に規定するようなものではない。ピッチについても一応書かれてはいるけれども、あくまで大まかな目安である。この作品の制作に深く関わり、初演のチューバも担当したGiancarlo Schiaffiniは、演奏にあたってはピッチを気にするよりもむしろ音色の変化にこそ注意を払うべきだとコメントしている。 *3 このため同一の楽譜にしたがっていても、実際に出てくる音は奏者により、また同じ奏者でも演奏のたびに、とりどりの個性をみせることになる。これまでにリリースされた5種類のCD *4 のなかでは、記憶に残りやすい特徴的な音型が数多くかつ適当な間隔を置いて発せられる初演時の録音(col legno)が、もっともディレイを認識しやすい。音の抑揚の小さいJesús Jaraの演奏(ARS HARMONICA)ではその逆である。ARS HARMONICA盤のように、エレクトロニクスの入出力のレベルが全体的に高いと思われる場合には、厚みを増した響きのテクスチュアに個々の音が埋没していくため、ディレイの追跡にはより意識の集中を要する。col legno盤であれば、ツクツクボウシの声を何とはなしに鳴き始めから鳴き終わりまで聞きとおしてしまうように、同じ音が2度、3度、4度と間を置いてめぐってくるのを自ずと待ち受けるような聞き方になる。いっぽうARS HARMONICA盤の時の矢は、朧のなかに半ば埋もれかけている。最新の録音であるNEOS盤SACDは、クリアな音像にもかかわらず、4つのディレイがすべて揃って聞き取れることがあまりないのが特徴である。あるいは、入出力のレベル調整がより頻繁に行われているのかもしれない。NEOS盤の場合は時の矢の部分欠損がより顕著なので、col legno盤に比べるとディレイの本来の時間構造は把握しづらくなる。

 

0430-0520 真夏へ

さて聞き手はいま、小さな時間のベクトルが次々に析出してくる時のほとりに佇っている。千の時の矢はやがて一つの大きな流れとなり、止まっていた季節を再起動させるだろう。ところがここでは事態は逆向きに進行するのである。7m00sの消失に到るまでに断片群が経る二つの段階のうち、最初の遷移が4分過ぎにあらわれる。4m30s以降、ディレイにはフィードバックがかかりはじめ、100%にむけて徐々にレベルが引き上げられる。同じ音が4回を超えて何度も反復されて、全長15秒の時の矢としての定型的な構造は急激に崩壊し、時を測る手がかりが喪われていく。もともとの4つのディレイのなかに7秒のディレイが入っているので、5秒間隔の整然とした周期性が定常状態で発現することもない。

 

かくして、ツクツクボウシポリフォニーのようだった当初の音響空間は、アブラゼミクマゼミの合唱の様相――ツクツクボウシに比べるとずっと単調な各個体の鳴き声がひとつに融けあって、巨大な音響体のドローンと化す夏の盛りの蝉時雨の様相を帯びてくる。Post-prae-ludium per Donauの季節は晩夏から秋へと向かうのではなく、逆の方向へ、時の失われた真夏の迷宮へと還っていくのだ。

 

フィードバックの作動とともに時間が溶解していくような感覚が鮮明に感じられるのは、初演時の演奏のようにディレイが聞き取りやすい場合である。ディレイを把握しづらく、したがって時の矢が不明瞭な場合は、はじめから半ば混沌に侵された状態であるため、フィードバックが加わった後の聴取感の変化はさほど顕著ではない。演奏ごとのこうした差異は、良し悪しの問題というよりは、晩夏から真夏へと時間を遡るいくつもの可能な道筋を教えてくれるものとして受け取りたい。

 

0520-0700 サイレン

多数の音の欠片が懸濁してコロイド状になったフィードバック・ループは、5m20s以降、ゼロレベルに向けて徐々に減衰していく、あるいは遠ざかっていく。代わって5m20sからは、新しい楽譜とライヴ・エレクトロニクスの組み合わせにより、別の音現象が生起する。チューバではあまり聞かれない高音が使われることの多いこの作品のなかでも最高音域のc2-f2がここで現れる。このようなunusualな音は、たとえば河川の水位が堤防を越えそうになったときや、飛行機の高度が異常に低下したときなどに、警報音として聞かれる類のものだ。なにかただならぬ事態が差し迫りつつあるという、漠とした予感がこのあたりから次第にひろがりはじめる。井戸水が濁り出し、沖合いに閃光が走り、深海魚が打ち上げられる。7m00sの断片群消滅までは、もうすぐそこである。

 

0000-0700 大渦巻

…以上の素描はPost-prae-ludium per DonauをCDで聴いたときの印象に基づくものだが、実演に接した場合に受ける感じは、これとはまた異なったものになる。まず第一に、演奏会場では、ディレイに先立ってかけられているリバーブの、靄のような、あるいは水のような不定形なひろがりに空間が充たされているという感覚を、CDよりリアルに感じることができる。形あるもろもろの断片群は、リバーブの溶媒に浸かった状態で現れる。蝉のすだく夏の乾いた雑木林には不似合いな、水のようなものの遍在が喚び起こす海の気配。

 

なにより決定的なのは、4つのディレイが会場の四隅に置かれたスピーカーから順に出力されて、回転運動をしているという点である。時間の中でディレイは矢の形状だとしても、空間の中では渦を巻き、旋回しているのだ。 *5 蝉の鳴き声がこんな風に渦巻を描いたりすることはない。一段と遠のいていく蝉時雨。代わってたちあがってくるのは、海原を漂う雑多な流木のようなものとしての音の断片群と、それら並べての断片を捕捉し旋回させている大渦巻の情景である。渦巻の連想は、一切の断片をそこへ向けて収束せしめる絶対的な中心の存在を浮かび上がらせる。CDで聴いているかぎりではむしろ混沌への拡散とみえた過程が、一転して収束という概念により整序を受けるようになるのだ。

*1:Lecture given at Venice by Hans Peter Haller [link]

*2:Scott Edward Tignor (2009). A performance guide to Luigi Nono's Post-Prae-Ludium NO.1 "Per Donau". [pdf]

*3:Ibid.

*4:2012年にMike SvobodaのチューバによるWERGOからの新譜(WER 67442)が加わり6種類となった。

*5:正確に言うと4つのディレイは、四隅にスピーカーの置かれた演奏会場を真上から俯瞰した矩形の図において、左上→右上→左下→右下の順に出力される。したがって本来これは円環運動とは言えないのだが、それでも聴衆を取り巻くようにディレイが動いているため、体感としては、Scott Edward Tignorの解説に書かれているようにconsistent circlingであるかのような印象を受けることになる。