アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 7/9

時間の海

反射という現象がもついくつかの側面をこれまでとりあげてきた。

  • やって来た音をはねかえす作用
  • やって来た音をまぜかえす作用
  • リフレクション=記憶の過程との親和性

だが結局これらすべては、反射の本質を射抜くたったひとつの単語によって要約することができる。すなわち、反射はまっすぐなものを「曲げる」ということである。この点を掘り下げていくために、まずは音の反射のない世界とある世界をビフォーアフター的に見比べてみることにしよう。

 

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上図のAは、音というものがもともと漂泊者としての素質にさほど恵まれているほうではない、という由々しき事実を端的に物語る絵である。たしかに空気中でも緩やかに進路が屈折することはあるし、障害物の後ろ側に回りこんでいく回折というこじゃれたふるまいもみせるとはいえ、Aのようにどこをどのように通ることもできる広大な空間を旅する自由が与えられたとき音がすることはといえば、おおむね直線的な経路をとってただ前へ前へと猪突猛進するという、およそ遊び心を欠いた通勤通学的な移動でしかない。

 

Bにおいて空間の底部を占めている海は、気圏を伝播する音にとっては立入禁止区域と同義であるから、本来なら自由の制約を意味するはずである。ところが空間に描き出される音の軌跡は、無制限な行動の自由を享受していた頃の画一的な動きに比べてずっと豊かなものになる。ひたすら前進することしか知らなかったあの単純なる輩が、いまや進む方向を大きく変えるということを覚えたのだから。直線性の呪縛から逃れるための方途としての反射という一般的図式がここにくっきりと浮かび上がってくる。

 

反射を介した間接的な音を好むというノーノの嗜好は、音源からまっすぐ直接的に届く音を好まないということと表裏一体の関係にある。直線的なもの全般に対する倦厭の情は、万事にわたるノーノの美学の基調をなしているといっても過言ではない。1987年のNo hay caminos, hay que caminar初演に合わせて初来日したノーノは、ユーラシア大陸をシベリア鉄道に乗ってはるばる横断するという尋常でないルートを辿って日本にやって来た。その旅のことを武満徹との対談でこんな風に話している。

武満 今お話を伺っていて、ふと思ったのですが、ノーノさんの時間の認識というのは、ヨーロッパにおける極めて直線的な時間――もちろん、そんなに簡単に図式的に言えることではないけれど――そういう時間認識とはだいぶ違うような気がしますね。むしろ私たち日本人、東洋人の時間認識に近いんじゃないでしょうか。

NONO そうかもしれません。ここにふたつの点があるとして、その両者をつなぐ線というのは、何も直線だけではないわけです。僕はそういう杓子定規な考え方が嫌いで、ですから今回の旅で、イタリアから日本への直線コースをとらなかったというのにも、そんな動機もあったのかもしれません。トリノの時間、モスクワの時間、イルクーツクの時間、ハバロフスクの時間という四つの時間を通り抜けて、日本の時間にたどりついたわけですが、そうやって、紆余曲折してたどりついた日本というのは、最初に思っていた日本とは違う日本だったという気がします。 *1

ここで注目したいのは、ヴェネツィアから東京へと到る紆余曲折の旅を、ノーノが時間の経験として捉えている点である。イタリアから日本まで飛行機でひとっ飛びした場合と、シベリア鉄道にがたごと揺られて陸地を移動した場合、それぞれが空間に描き出す軌跡を単純に比較してみれば、実際のところそう大きな違いがあるわけはない。どうやらノーノが言う「直線コース」とは、空間に引かれた線のことを指しての言葉ではないように思われる。飛行機に対してシベリア鉄道を選ぶということは、空間というよりもむしろ、まっすぐすぎる時間を紆余曲折させるための手段なのである。

 

同様のことがリバーブやエコーという、もともと時間と密接に関わる現象についても考えられよう。上の図を時間的イメージとして眺めた場合、Aに示した直線的な軌跡がクロノロジカルな時間の直線性、均質性に対応していることは明白である。ではBはなにを表しているか。

 

過去を置き去りにし、現在を素通りして、ひたすら未来へと脇目もふらず無表情に歩みを進めていくクロノス。なんだかすましたヤロウだな。どれ、この辺に海のマットを敷いておいてやろう。

 

狙いどおり仕掛けにひっかかるクロノス。海面にぶつかって蹴躓いたクロノスは、「あっ」とか「うっ」とかいう柄にも無い狼狽の声を発して、それまでは一顧だにしなかった後ろの方を振り返るような素振りをみせる。よろめいた方向のいかんによっては、あのクロノスが元来た道を引き返すという僥倖さえ起こり得る、そうなれば、過ぎ去った時が回帰してくるのを「待つ」ことも可能になる。躓きの海を利用したクロノスの攪乱による、新しい時間の創出である。

 

クロノスとは別の時間を探究すること、それはPrometeoを中心とする後期ノーノ5作品のためにカッチャーリが編纂したテキストに込められた通しテーマでもあった。だがそのためにカッチャーリがとった方法とノーノがとった方法とのあいだの隔たりは小さくない。上図のAとBを時の変容として見比べたとき、

  • 時間に穴を穿ち、その連続を引き裂く亀裂を生み出す *2
  • 「瞬間をその個的な一回性のなかに置」き、「瞬間を一連の継続から解放する」 *3
  • 流れる時を止めて継続を断ち切る *4
  • 「空虚な継続である一様な時間からほとばしり、流れを止めて時を再生させ」る *5
  • 継続を切り取る *6
  • 空虚な持続の形式を(直線的なものであれ円環的なものであれ)覆す *7
  • 時間を無数の単独的な瞬間へと粉砕する *8

といった言葉で示されるカッチャーリの処方箋に直接対応する要素をそのなかに認めることは困難である。AからBへの遷移のあとでも、相変わらず時間は立ち止まることも断ち切られることもなく、連続的に流れている。ただ変わったのは、流れ方だ。反射の発生によって、時の流れは断ち切られることはないが屈曲する。上の図では単純化のため、一定方向の鏡面反射の軌跡のみが描かれているが、複雑に波打つ海面はそこにぶつかってはね返るものを、光であれ音であれ時間であれ、もっと様々な方向に散乱させる作用を示すだろう。かくして、一定の方向に「流れ去る」という時間の挙動にsospeso=宙吊られたような、宙に浮かぶような要素が混ざってくる。いまこのsospesoの語を、Il canto sospesoの訳としてよく用いられる「断ち切られた」の意味――これはsospesoが持っている「中止された、中断された、延期された」といった語義を若干拡大解釈して得られたものである――で読むのはまったく不適当だ。sospesoのいまひとつの語義は「不確かな」だとか「不安な」で、反射はその意味でも時を"sospeso"させる。以前とは進む向きが変わってしまうことにより、それがどこからやって来たのかがよく分らなくなる――時間の言葉で言えば、どちらの方向がより古く、どちらの方向がより新しいかの順序が判然としなくなるのだ。

 

先に掲げた発言集のなかでノーノがリバーブやエコーに結びつけていたのも、その不確かさの感覚である。

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、リバーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。

 

それらの音にリバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面の上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。

これらの発言のなかでノーノは、英語のwhereに相当する「どこ dove」の語のもとに、反射によって線形的な空間の位置関係が不分明に陥るさまを語っているわけだが、ノーノが別のところで述べている、リバーブによって得られる音響は「時間なき共鳴risonanza senza tempo」 *9 の様相を呈するといった言葉が示唆するように、それを直線的な時間の前後関係の溶解として読み替えることも十分に可能だろう。

 

要するに反射は、川のように明確な方向性をもって流れ去る線的な時間(tempo lineare)を、海のように方向性の不明瞭な、面的に漂い流れる時間(tempo sospeso)へと近づけるはたらきをもつのである。別の言い方をすれば、起こった出来事が一本の時間軸上に整然と配列されている年代記的な時間から、起こった出来事が海のように漠とした心的空間を雑然と浮遊している、記憶のなかの心理的時間への接近ということでもある。

*1:武満徹対談集『歌の翼、言葉の杖(TBSブリタニカ)』に収録

*2:マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、49頁

*3:同上、48頁

*4:同上、56頁

*5:同上、76頁

*6:同上、78頁

*7:同上、78頁

*8:Massimo Cacciari. Profane Attention.

*9:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 57