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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの後篇の前篇 5/5

1112e ヴェーベルン島とノーノ島

ところでカッチャーリは、先に引用したPrometeo論のなかでノーノのPrometeoはコンポジションであるとも書いている。

ノーノのプロメテウスにとってロゴスとは、同じではないものを、そのようなものとして、それらの区別を保ったまま寄せ集める行為である。それが、死すべき者にプロメテウスが授けた教え、すなわちコンポジションという技芸である。コンポジションは、ユニークなLogosの教条主義、対立項を一つの解決へと解消する教条主義からついに自由であり、あの「始まり」の守護者、われわれのいかなる「アート」よりも強い「始まり」の「言い表しえぬもの」の守護者である。 *1

件の短い評論からうかがえるのは、カッチャーリが、ヴェーベルン的なものとベルク的なものの両面からPrometeoを評しているということである。ヴェーベルンとベルク。この二人との比較ということであれば、ノーノの音楽はいっけん前者との親和性がより高いと感じるかもしれない。ところが案に相違して、カッチャーリがヴェーベルンとベルクについて書いたことをノーノの後期作品にも当てはめようとしたとき、違和が生じるのはむしろヴェーベルンのほうである。

 

カッチャーリは、Prometeoについての別の論考の中で、音楽の中の島とは、物理的に認識できる実体を全く欠いた空気のようなものであり、ただ音の響く瞬間からのみ成るものであると書いている。 *2 「単純さ」をカッチャーリは島に求めているようなのだが、その理由は、ヴェーベルンの音楽についてのカッチャーリの議論のなかでより詳しく説明づけられている。ヴェーベルンの島は、産出する空虚から発出してきた唯一無二のユニークな音の島である。この島は、「絶対的な明晰さをもって、装飾なしに」 *3 示されるのでなければならない。装飾されうるのは「それ自体は無意味だと見なされているもの」 *4 だけだからである。音がそれぞれにユニークであるとは、そもそもどういうことだろうか。この世にまったく同じ指紋の人間が二人いたらそれこそ驚くべきことであって、指紋が人によって異なるということは、みたとおりのありふれた事実である。たとえなんら不確定要素のない単純な楽譜をもとに同じ奏者が同じ曲を演奏しても、細部は演奏のたびごとにわずかづつ異なる。これもまた当前の事実である。まさに世界の事実にほかならないユニークさは、あまりにもありふれていて当たり前であるがゆえに、往々にして取るに足らない無意味な細部、どうでもいいようなものの扱いを受けることになる。「本質、『もっとも深いもの』を探求する者、彼岸を志向する者の病んだ眼には、現実存在するものは、どれかひとつの個別的なものにすぎない」。 *5 「どれかひとつの個別的なもの」は英語版ではa detailと訳されている。「ありふれた事実である」ことを「ありふれた事実にすぎない」ことだと判断することで、「大地に花開く偶然」 *6 は、a detailとしてその輝きを失うのである。これまで細部性とユニークさを併置してきたけれども、a detailという意味であるかぎり、じつのところ細部性はユニークさの対立概念ですらありうる。

 

産出する空虚である、あの「別の海」の放つ燦きを受けて、事物はその輝きを取り戻す。それは「偶然の奇跡への変容」 *7 である。「奇跡とは、物がまさに偶然として輝くことである」 *8 とカッチャーリは書いている。PrometeoのQuinta Isolaのなかで、シェーンベルクの合唱曲の歌詞からの引用として何度も繰り返されるquesto è MIRACOLO――「これは奇跡だ」という言葉。その奇跡を起こすのになんら特別なものはいらない。「驚くべきことに、単純に偶然を語りさえすれば、語りうるものはすべて語られる」。 *9 ユニークなものをただありのままに見ること聞くこと語ること、必要なことはただそれだけである。「個別的なものが明晰さをもって見られ、自己のうちなる空虚の最大限の集中のもとで聞き取られるとき、それはすべてである」。「明晰さとしてのこの短さ、この単純さ」 *10 に付け加えるものなどなにもない。

 

だが果たしてこうした「ヴェーベルン的な禁欲」は、後期ノーノの原理でもあるのだろうか。どうもそうとは思えないのである。「呼鈴のように単純」 *11 な音を一つポンと鳴らして、「これですべてだ、付け加えるものはなにもない」と言い切る禅師のようないさぎよさと、ノーノがやっていることとのあいだにはどうみても相当な隔たりがある。合成の原理による創作を、どれだけ歩いても歩き尽くされることのない森を往くことにカッチャーリはたとえたことがあった。「作曲は、この森の端にけっして達することなく、この森の両義性をけっして伐採することなく、この森を耕し、耕しなおしていく」。 *12 ここでいう森がさらに微視的なスケールでひろがっているのが後期ノーノだといったベルク風味の解釈のほうが、後期ノーノの素描としてはよりもっともらしく聞こえる。個々の音に対峙する晩年のノーノの姿勢には、ヴェーベルン的単純さとは異質のなにかもっと過剰なものがあって、一つの音のなかにさえ、踏み迷うほどの森や経巡ることのできる渚があるのだと言わんばかりである。この過剰さはいつから胚胎したのだろう?音の千差万別な多様性を「無限の可能性」という壮大な標語のもとに認識したときからではないかと思う。それから約十年のあいだ、ノーノは限りないものにどう向き合ってきたのだろうか。この点に関する若干の議論を乗り越えれば、11m12sにトラップされたまま既にPost-prae-ludiumのポの字もみえなくなって久しいこのノートも、ようやく再び先に進むことができるようになるだろう。

*1:Massimo Cacciari. L'étroite bande de terre. [pdf]

*2:Massimo Cacciari (1984) Verso Prometeo / Tragédie de l'écoute.

*3:カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号

*4:同上

*5:同上

*6:カッチャーリ「離脱した者の歌」、廣石正和訳、『批評空間』第II期24号

*7:同上

*8:同上

*9:同上

*10:カッチャーリ「弓道

*11:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、49頁

*12:カッチャーリ「動物小屋へいらっしゃい」、廣石正和訳、『批評空間』第II期18号