アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 3/9

ジュデッカ運河モデル

ノーノが「魔術」だと評した、水の上の音の変容劇。その中心的な演出家は海面による音の反射である。

 

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海面で起こる反射とは要するに、陸から流れてきた音を海が拒絶することである。空中から水中へと透過する音の割合は、だいたい1/1000ぐらいのオーダーであるという。海は、海にとっての向こう側の世界である陸の喧噪を聞く耳を全くといってよいほどもっていない。どれだけ喧しく海面がノックされようとも、海の扉は陸からの訪問者に対して閉ざされたままである。水圏にはもちろん水圏に固有の音が水のなかを伝って鳴り響いているとはいえ、気圏を行き交う音はほとんど遮断されるという意味において、陸のざわめきに対する海中の沈黙は守られる。

 

ところが一方で、陸からやって来た音を水の世界の流儀に染め上げ、あたかも水のような性質を帯びた「水の音」へと変身させる役割を主に担っているのも、その同じ海面による反射である。

 

ヴェネツィアの地図をひろげてみる、するとそこには、陸の原理と海の原理、あるいは固体の原理と液体の原理のある顕著な相違点が、鮮やかなコントラストのもとに描き出されているのが一目でみてとれる。図面上で島の内部を縦横に走る小運河によって、「無数の」と形容したくなるほどの細かな断片に分かれているほうが陸で、きわめて複雑に入り組んだ形状にもかかわらず、ひとつの連続体をなしているほうが海だ(運河の上に架かる橋は無視するものとする)。端的に整理すると、

 

  • 陸(固体): 離散的 分節化 可算
  • 海(液体): 連続的 不可分 不可算

 

ノーノといえば水の都ヴェネツィアの作曲家、なおかつ断片の作曲家だとよく言われるけれども、断片化という操作はじつのところ、水の世界からはまったく縁遠い手法である。断片化を受けつけるのはひとえに固体に限られるからである。水を断片化された状態で安定に保つためには、磯の潮だまりのように固体の器を用意するか、さもなくばモーゼの海割りのような神業にでも頼るほかない。陸から流れ出た音が、「分節という営為が解体を遂げる場」である水の領域へと移行したとき不可避的に生じるのは、したがって、別々の音が「混ざる」という現象である――「鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います」。

 

そしてこの、「音が混ざり合う」という状態を実現に導くにあたって多大な効果を発揮するのが、波打つ海面で生じる音の拡散反射による進路の散乱である。

 

陸地の「複数の」音源から海のほうへ拡散していく音=soundsは、海面がもつ <<反射=音をはねかえす作用>> の裏面にあたる、<<反射=音をまぜかえす作用>> により、水の上のひらけた空間で交錯し輻輳し干渉し、潮騒のようなひとつながりの音響の連続体=sound(uncountable)へと変貌していく。この過程で生じているのは、離散的だったものが連続的になり、分節化されていたものが不可分になり、可算的だったものが不可算的になるという、陸の原理から海の原理への音の宗旨替えであり、手短かに言えば音の液化現象である。水の世界への侵入を試みた音が結界に阻まれあえなく送り返されていく海の上の虚空に、反射の第二の役割である「音を <<水っぽく>> するはたらき」の産物である、音の海が出現する。沈黙の海の上に宙吊られた(=sospeso)この第二の海は、陸の異なる地点からやって来たさまざまな音が融け合い、一体となることによって成立したものである。そこからたとえばサン・マルコ広場の鐘楼の鐘の音だけをふたたび単離するというようなことはもはや不可能だ。音の海を充たしている「水の音」はだから純粋な音ではありえない。それは常態として混合物である。

 

con-fusione

水のようなものが一般にもつこうした特質を、ノーノはよくconfondereもしくはconfusioneというキーワードで形容している。confondereもconfusioneも、意味は英語のconfusionとほぼ同じである。これらの単語をノーノは、con-fondere、con-fusioneといった具合に、con-で切れ目を入れてつかうのだ。一例として、

In Andalusia: crocevia di cultura araba ebraica cristiana – La Con-fusione = il fondere insieme diversi, anche CONFLITTUALI, pensieri spiritI anime *1

*

アンダルシアで――アラブとユダヤキリスト教の文化の十字路

con-fusione = 多様な、矛盾さえしている考え、精神、魂がともに混ざり合うこと

Caminantes...Ayacuchoについての覚書より

 

fusioneは英語のfusionに相当する言葉で、fondereも溶け合う、混ざり合うといった意味、いっぽうconは英語で言うところのwithである。したがってcon-fondereやcon-fusioneは、溶融することによって不分明を招くという含意をもつ。

 

ものが水のようになって溶けるときには、二つのことが同時に生じる。巨視的レベルでは、個体として別々に分かれていたものがひとつにつながり起伏がならされ平板化していくことによって、非人称性への緩やかな溶暗が進行し、微視的レベルでは、固相から液相への転移に伴う可変性の増大によって、波立つ海面のような細部形態の絶えざる変転の発現をみる。その二重のcon-fusioneを経て確たる輪郭を失い、安定性を奪われ、もはや音源を定位することも、はじまりや終わりを特定することも、その正体を言い当てることも困難になった音の変貌のありさまを評してノーノはこう言う、それはまさしく魔術的で、このうえなく美しい音の姿だと。

 

ノーノを魅了したconfondereやconfusioneとは、一様化や等質化のことなのか。これはconfusioneをめぐるよくあるconfusioneであるが、答えは否である。アンダルシアでさまざまな文化が混ざり合っていった結果、まったく一様な定常状態にまで達してしまうのであれば、アンダルシアは世にもつまらぬ所だということになるだろう。ノーノにとって混ざるということが均一化を意味していないことは、この点だけをとってみても明らかだと言える。

 

活字に残されたノーノの発言を読めば読むほどしみじみと実感されてくることがある――ノーノの美学のすみからすみまで浸透しているのは、ものごとを固定して変化の可能性を奪ってしまうことに対する心底からの嫌悪だ、ということ。一様性や等質性などという、「固定」の親戚筋のような静的状態(stato)がノーノの海にふさわしい属性であるはずがないのだ。ノーノが水に惹かれる所以をひとつ挙げるとしたら、不動の大地のあの厭わしい不動性を無みする水の可変性に勝るものは考えられない。すなわち、

 

  • 陸(固体): 定まった形がある 不動性 statico
  • 海(液体): 定まった形がない 流動性 mobile

 

当然の帰結としてノーノの音の海では、先に述べた、溶解に伴い同時進行する二つの過程のなかでも、細部の不断の変容に大きなアクセントが置かれることになる。

 

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■ 海の眺め 3 Post-prae-ludium per Donau (1987) - 07m00s-07m53sのC1音の海の全景

※楽譜はScott Edward Tignorの論文 *2 に載っているもの

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■ 海の眺め 4 "Hay que caminar" soñando (1989) - Leggio 1

 

基本的な海の書き表し方はどちらの例も同じである。音符が描いたあくまで平坦な海の下絵に、欄外注が細部を描き加える。後者によって、細部における海の一様性は否定される。

 

più mobile possibile con microintervalli

微分音程を伴い可能なかぎり流動的に」

 *

suono non statico = I suoni tenuti mai statici ma modulati meno di 1/16

「静止していない音=決して静的に保たず16分音未満の範囲で変動させる」

 

現実の海がそうであるようにこの海は間断なく波打つ海である、という旨をただそのまま伝えているだけの、meno di 1/16という波の高さの指定を除けばなんともふわっとした記述であるが、思うにノーノの徹底した固定嫌悪は、海を波立たせるための具体的な方法をなるべく一意に固定したくないというところにまで及んでいるのである(前にみたGuai ai gelidi mostriの弦の海の場合は、奏法の指定を演奏環境に応じて可塑的に変更するというやり方で脱固定化が図られていた)。

 

いっぽうで、巨視的レベルにおける平板さがノーノの海の必要条件であることも強調しておかねばならない。微細な変異はそもそも平板さの中に、いや上にあってはじめて聞き取れるようになるものだからである。ノーノがチェ・ゲバラの声の抑揚の乏しさを、欠点ではなく美点として語る理由もおそらくその点にある。

全く平坦なしゃべり方で、ことばのメリハリがことさら強調されるようなことはありません。まるで別の空間と別の時間を探して流れつづける歌、夢、ユートピアという感じです。 *3

ノーノの口癖である「別の altro」という、不均一性を前提とする形容詞が、平坦さと結びつけられていることに注意しよう。たとえばノーノは、「ド」というひとつの名で呼ばれ、ふつうは均一だと思われている平面上でのできごとを、やはりここでもaltroの語を用いながらこんな風に描写する。

... anche se la "base" è unica - mettiamo un Do - il suono diventa sempre continuamente un "altro Do" perché è impossibile mantenere fisso e stabile un suono dato in quanto la qualità, le "parziali", gli armonici più alti, cambiano continuamente. *4

*

たとえ基音が一つであったとしても――「ド」であるとしましょう――その音はたえず、不断に、「別のド」になるのです。というのも、音の質、部分音、高次の倍音は不断に変化していく以上、問題の音を固定し安定的に保つことは不可能だからです。

altroが単数名詞につくときは不定冠詞とセットになるという文法上の決まりごとが避けがたく醸し出す、「ひとつのド un Do」がたくさんの「別のド un altro Do」へと複数化されたという、メリハリのつき過ぎているイメージ、それを和らげるために、変化の連続性を示すcontinuamenteが二度繰り返される。さらにsempreの語まで駆り出して、sempre continuamente un "altro Do"ときたら、unが含意する固体/個体性は無効化されたも同然である。石ころのように堅い質感の「un Do 一個のド」が、イタリア語では部分冠詞をつかって表現されるような「いくらかのド del Do」に液化し、もはや輪郭を保持できず一面に滲みひろがっていった「ド」の、遠目には平坦な水面にさざなみが起こる。その途切れることのないことない波のしらべが、

 

...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...

 

である。たえずぐねぐねとうねり続けるこの縷縷たる連続体の只中に、頭に不定冠詞をつけられるような粒だった個体的存在を「立たせる」ことがついぞ不可能なのは、水のようになった「ド」の一様性のためではなく、<un ...> へと固定する暇も与えずaltro...へと形姿を不断に変化させていく、水の高度な可変性のゆえにである。

*1:http://www.luiginono.it/it/luigi-nono/opere/1-caminantesayacucho

*2:Scott Edward Tignor (2009). A performance guide to Luigi Nono's Post-prae-ludium No.1 "Per Donau". [pdf]

*3:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、99頁

*4:Luigi Nono (1985). Altre possibilità di ascolto.

断ち切られない歌 中篇の上 4/9

カッチャーリの海

ノーノとカッチャーリの美学の差異がもっとも顕著に表れるのはこの点に関してである。Prometeoをはじめとする後期5作品の共同制作者である二人の関係性は、Prometeoとその関連作品について論じる際の主たるテーマなので、筋道だった議論はそこで行うとして、両者の対照を示す分りやすいエピソードをひとつ挙げると、Guai ai gelidi mostri(冷たい怪物に気をつけろ)に関して、あらゆるものを凍りつかせる=固定することで流動性/可変性を奪ってしまう怪物の冷たさを問題にするのがノーノで、 *1 ニーチェの『新しい偶像』のなかの「余計でないnicht überflüssig」をnicht über-flüssig=not super-fluousと読んで、「流れすぎてはいけない」というメッセージを引き出してくるほうがカッチャーリである。 *2

 

さきほど引用したconfusioneの用例のなかで、ノーノはcrocevia、十字路と言っていた。croceviaは80年代のノーノがよく口にする語彙で、例えば1987年のベッリーニ論の表題にも用いられている(『ベッリーニ:地中海文化の十字路にたつシチリア人』)。じつはこのcroceviaというのはカッチャーリの著述によく出てくる言葉でもある。カッチャーリとノーノがこんな風にキーワードを共有している例は、ひとつやふたつではない。それらはおそらく基本的にカッチャーリからノーノへ伝えられたものだろうと想像されるが、おのおのの語が使われる文脈を比較してみると、インドのカレーと日本のカレーほどのニュアンスのずれが認められることがしばしばである。ノーノはカッチャーリから、結実した言葉の意味ではなく言葉の種子を受け取る。それがノーノの土壌に撒かれて、新たな風土のもとで呼び名こそ同じだが別様の言葉に育っていく。croceviaのような両者の共通語彙は、二人の親近性以上にその立脚点の隔たりについて多くを教えてくれる、よき分度器なのだ。

 

ノーノのcrocevia観を知るには、ノーノ自身の生まれ育った街に関する発言を参照するのが何よりである。多様な文化の十字路としてのヴェネツィアの姿を、ノーノはあるときこんな風に語っていた。

ヴェネツィアは単なる小島ではありません。ヴェネツィアというのは水の上に浮かんだある一点であって、そこにはいろいろな方向からいろんな文化がやってきたのです。たとえばオリエントの方向からはバビロン、中国、アラビアの文化が、あるいはカルタゴユダヤの文化が。もちろんスペイン、フランス、ドイツなどからもはいってきましたし、ロシアからも来ました、ハシディズムもその一つです。そういうように様々な文化が流れ込んできて、そこで交差した、そういう点なのです。私は、ヴェネツィアという場所は他の文化の流入によって、新しい学問やそれまでとは全く異なる文化が実現されるような場所だと思っているのです。 *3

ここでノーノの言う「文化」を「音」に置き換えれば、ノーノが日ごろ語っているヴェネツィアの音風景の描写そのものだ。ジュデッカ運河のなかぞらで交錯する音の変容のプロセスに、ノーノは水都ヴェネツィアの縮図をも感じとっていたにちがいない。ノーノのcroceviaは、さまざまな方向から流入してきた諸要素が、水の流儀で溶け合い混淆し、刻々と別の姿に変容していく、confusione / confondereの場である。

 

いっぽうのカッチャーリにとって、croceviaがこんなにも水の気配に充ちているというのは考え難いことである。

…それは道ですらなく、またしても十字路である。さまざまな声がけっしてひとつに融けあうことはできないままに合成されており、それらの確固とした差異を維持しながらの合成を要求している、そのような相対立する声の複合体なのだ。 *4

croceviaに必要なのは、そこで出会うさまざまなものが水のように混ざりすぎないこと、混ざりすぎてメルティング・ポットのようになってしまわないことである。ノーノに比べてカッチャーリには、水の均質化作用に対するより強い警戒心が根づいているように見受けられる。カッチャーリのcroceviaは、個体的/固体的な諸要素があくまで「区別されたもの」として、差異を保ったまま組み合わされていく、合成=composizioneの場である。

 

こうした自身の美学にそくした海の形象を、カッチャーリはムージル『特性のない男』のなかに見いだしている。

小川のようにある目標へ向って流れて行くのではなくて、海のように、ある状態を形作っている愛のことを、これまでいろいろと話しあったことがあるね! (……)

 一寸考えてごらん。この海は動きもなく、永久に続く結晶のように純粋な出来事だけで満ちている閑寂境なのだ*5

*

...daß dieses Meer eine Reglosigkeit und Abgeschiedenheit ist, die von immerwährenden kristallisch reinen Begebenheiten erfüllt wird.

 

ウルリヒが妹アガーテに話して聞かせた千年王国の愛の海の、とりわけ「結晶(水晶)のようにkristallisch」の語が喚起する海らしからぬ硬質な手触りに、大川勇はウルリヒの可能性感覚の、硬直化による衰退の徴候を読みとっている。 *6 しかしカッチャーリにとってこの海は、まさにその流動性の乏しさゆえに愛すべき形象となるのだ。「水晶のように純粋な永遠の出来事で満たされている」というくだりを、「水晶のように純粋な出来事が絶え間なく迸る」といったニュアンスで読んでカッチャーリはこう言う、その海は、継起する別の出来事との関連性、すなわちある種の混合によって汚染されていない単独的な出来事がそこから不断に析出してくる「産出する空虚」だと。カッチャーリの海で鳴り響く音は、一様な時の継続というある種の流れを打破して束の間輝く水晶のように混じり気のない音、そしてそれらの純粋な音の「還元不可能なポリフォニー*7 なのである。

 

カッチャーリのこの(おそらく原典にあたるムージル以上に)水気のない海は、「純粋な結晶」というキーフレーズに圧縮され、『死後に生きる者たち』の随所で燦きを放っているだけでなく、Prometeoのリブレット――Il maestro del giocoの第X連の最後の二行――にも移植されてきている。

far del silenzio CRISTALLO

colmo di eventi

*

making CRYSTAL from the silence

full of events

つまりPrometeoは、そのなかでノーノの海とカッチャーリの海という二つの異質な海が出会う、croceviaでもあるのだ。

*

さて、ここまで一貫して海の作曲家ノーノの「親水性」を伝える肖像画を描いてきたが、その絵がまだ乾いて固まっていない今のうちに、是非とも付け足しておきたいことがある。万事にわたって一筋縄ではくくることのできないこの「苦悩に満ちながらも晴朗な」作曲家の二面性に関する事柄――「○○に満ちながらも××」の、「××」のほうの側面についてである。これから先、土色の文字で書かれている部分は、ノーノ=海の作曲家という単線的な図式から外れているノーノの別の一面に関する記述の割り込みであり、前後の内容につながる脈絡は特に存在しない。

 

※海の歌はいったんここで中断される。海から陸へ→

 

長めの挿入句:陸の歌

ノーノにはじつは二つの顔がある。水の世界の仄暗い不分明を、その絶えざる流動を、変転を、混淆を愛するノーノ、無限旋律に「溺れる」ワーグナーを評してニーチェが言った、 「彼は、音楽の凝固や結晶を、建築術的なものへの移行をおそれる」 *8 という言辞が似合いそうな「海のノーノ」と、その正反対に、すっきりと整理整頓された明快な構造を好む、潔癖にして建設的な「陸のノーノ」と。

 

シナゴーグの歌が細部に湛える不断のゆらめきに、相反するさまざまな思いを抱えつつ生のつづくかぎり絶え間なく揺れ動く感情の海の波動を聞きとるノーノは、海のノーノである。いっぽうで、1954年のIncontriの作曲に際して、感情の状態を

  • A violenza di ribellione
  • B calma in tensione, e di tensione

の両極へと綺麗に二分し、それぞれの状態を表すA、B2種類の音素材の交替によるじつに簡明な設計原理によって作品を組み立てていったノーノもいる。 *9 *10

前半

A18→A13→A8→A5→A3→A1→B4→A8→A5→B10→A3→A1→B1→B2→B4→B6→B10→

後半

B10→B6→B4→B2→B1→A1→A3→B10→A5→A8→B4→A1→A3→A5→A8→A13→A18

 ※数字は小節数。後半は前半の鏡像になっている

 

これは初期のノーノと後期のノーノの違いなのだろうか。いや、そうではないのだ。A violenzaとB calmaの二分法は、Con Luigi Dallapiccola以降の後期作品の多くに用いられている二つの基本的なリズムパターン、A veloceとB calmoにも受け継がれているようにみえる。対照的な性格をもつ二大要素が交互に現れる構成ということならDas atmende Klarseinがまさにそうであるし、静と動の明瞭なコントラストであれば、Caminantes...Ayacuchoをはじめとする多くの後期作品で聞くことができる。数を意識したシステマチックな曲の構成、これもノーノの生涯にわたって維持されている特質である。たとえばCaminantes...Ayacuchoの基本構造は、5という数によって律せられている。No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskijではその数が7になる。Prometeoの場合は3が重要な意味を担っていると思われるふしがある。1984年の管弦楽曲A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibiliを、あたかもダルムシュタット全盛期の総音列音楽でも扱うかのような手つきで定量的に分析していったNicolaus A. Huberは、この作品がフィボナッチ数を中核とする数の秩序によって、思いのほか緊密に組織化されていることを明らかにしてみせた。 *11

 

こうしたノーノの造形的美意識の最たるものが、対称性である。ノーノの手になる譜面をひらいてみれば、そこはまさしく対称性の宝庫だ。見えない鏡を挟んで向かい合い対をなしている要素は、音符のこともあればp < mf > p といったダイナミクスの場合もある。鏡面は楽譜を垂直に分割していることも、水平に分割していることもある。また時には、面ではなく点対称の構図をとっているケースもみられる。対称性が現れる尺度も、数小節の範囲から楽章まるごと、そして一つの音楽全体が鳥の翼のような対の形をとる場合(そのもっとも有名な例が先に挙げたIncontri)に到るまでさまざまである。こうしたもろもろの対称性を見つけ出す作業は、いまやノーノの楽曲分析におけるルーチンのひとつといってもよいだろう。

 

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※上に示したのはChristina DollingerによるCaminantes...Ayacuchoの分析例 *12

 

楽譜をみるかぎり「対称性をこよなく愛する」と呼んでもなんら差支えないように思われるノーノは、ところが一方でこんな言葉を口にしてもいる。

Was wichtig ist für mich in meinem Denken und Sehen ist das asymmetrische Moment: In Venedig gibt es nur einige Sachen, die symmetrisch sind, und die sind im Renaissance-Stil, das ist Palladio, der große Architekt; der hat immer auf Erde gebaut. Auf Wasser baut man ganz anders. Dort ist das eine Sache von Instinkt und Denken, von Natur [...] Der venezianische Stil ist wirklich asymmetrisch, aperiodisch, es gibt kein Zentrum, keine Einheit, und ist dauernd in Bewegung. *13

*

私の思考や認識にとって重要なのは非対称的なモメントです。ヴェネツィアにも若干の対称的なものがある。それらはルネッサンスのスタイルです。偉大な建築家、パッラーディオ。彼はつねに陸上で建築を行いました。水の上で、人はまったく別のやり方で建てることになる。そこで問題となるのは自然の直感、思考です。 (……)ヴェネツィアのスタイルはまさに非対称的で、非周期的で、中心もなければまとまった単位もなく、常に動きのなかにあります。

この発言の非常に興味深いところは、対称性の有無が陸の世界と水の世界の原理の差異に呼応するものとして捉えられている点である。とすれば、楽譜の平面図のそこかしこにシンメトリックな構造物を設計して倦むことのないノーノは、アシンメトリックだとか、アピリオディックだとか、アモルフだとかいった、「頭にア(a-)がつくまだ固まっていないもの」 *14 のざわめきに溢れた、「常に動きのなかにあ」る海にどういうわけだか背を向けて、およそヴェネツィアっ子らしからぬ陸上建築にいそしんでいる、ということになるのだろうか。

 

Risonanze errantiの作曲のプロセスをもう一度思い出してみよう。

 

マショー、ジョスカンオケゲムの 3 曲の古いシャンソンから抽出された 3 つのモノディが、4~8 音からなる 23 個の断片にそれぞれ分解され、次いでこれら23×3 = 69 個の断片が無作為につなぎ合わされて、127 小節からなるひとつながりの長いモノディがつくられ、それが音符の一部を休符に置換する操作および器楽パートの追加によって 4 人の奏者のための楽譜へと発展したのち、再度 44 個の断片に分解される。

 

ここまでの過程で音はもっぱら、意のままに切ったりつないだり並べ替えたりの加工を施すことのできる、楽譜に書かれた音符と正確に一対一の対応関係にあるような、まったく固体的な形象としての扱いを受ける。ノーノの作曲の行程は、こんな風にして少なくとも初めのうちは、節状に音符を連ねた音の枝を手折る乾いた音が谺する、水の世界とはいっけんまったく無縁な内陸の地で進められていくのである。それでは一体、ここからどのようにして音の海が生じてくるのか。海の水は果たしてどこからやってきたのか。

 

※陸の歌はここで中断される。陸から海へ→

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 68

*2:http://brahms.ircam.fr/works/work/10797/#program

*3:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*4:マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』、上村忠男訳、みすず書房、271-272頁

*5:ローベルト・ムージル『特性のない男 4(新潮社版)』より「遺言状」

*6:大川勇『可能性感覚』、松籟社、2003年、244頁~

*7:カッチャーリ『死後に生きる者たち』、17頁

*8:ニーチェ『人間的、あまりに人間的 II(ちくま学芸文庫)』、第一部134、中島義生訳

*9:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 201.

*10:Juan José Raposo (2010). Luigi Nono y Nuria Schönberg. Las obras del encuentro (II). [pdf]

*11:Nicolaus A. Huber (1999). Nuclei and Dispersal in Luigi Nono's 'A Carlo Scrpa architetto, ai suoi infiniti possibili' per orchestra a microintervalli. Contemporary Music Review 18 (2): 19-35.

*12:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 196.

*13:1984年4月8日、Werner Lindenとの対話のなかでの発言。文献*12のp. 198に収録

*14:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

断ち切られない歌 中篇の上 5/9

モデルケース

先にみた「ジュデッカ運河モデル」による音の海の形成過程をおさらいしてみよう。

  1. 音の島から音が流れ出し、
  2. 沈黙の海の海面ではね返されて拡散反射し、
  3. 音が沈黙の海のうえで混ざり合い融け合い、水のような性質を帯びた「別の音」になり、
  4. 沈黙の海のうえに二段重ねの格好で音の海が出現する

要するに、海の水はどこか遠くの沖のほうから満ちてくるものではなくて、あたかも島の内ふところから滲み出すようにして海を充たしていくのである。

 

ノーノの作品群のなかでもこのモデルにもっとも忠実につくられている、「ヴェネツィアの縮図」と呼ぶにふさわしい音楽がある。Omaggio a György Kurtágである。

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■ 海の眺め 5 Omaggio a György Kurtág (1983/86)

 

譜面のうえに音符で描かれたヴェネツィアの地図。八分休符や四分休符、あるいは二分休符の小規模な運河を内部にいくつも抱えた、いかにもヴェネツィア風のすきまだらけな音の島が二つ。そしてそのあいだに、島の内奥を走る運河と比べて格段に大きなジュデッカ運河(ここでは総休止のほぼ5小節にわたる連続)が横たわっている。

 

五線譜上にはひとつの音符も見当たらないジュデッカ運河の只中で間断なく聞こえる潮騒は、どこを出自としているのだろうか。答えははっきりしている。楽譜の上段の、網掛けされた島の一角――フルート、クラリネット、チューバの演奏音がマイクロフォンに捕捉され、音響処理を経て変質し水のようになった音――したがってもはや音符ではその形状を書き表せない――が、下段の総休止の連続でスピーカーから出力されるのである。

 

現実のヴェネツィアとは異なり、Omaggio a György Kurtágのヴェネツィアにはたくさんのジュデッカ運河が存在する。17分ほどの演奏時間のなかで、音楽は11ものジュデッカ運河、すなわち総休止の一小節以上の連続を渉る。それらの運河を充たす水のざわめきを生成する回路の概略図がこれだ。

 

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この回路に、音を混淆し液化させる作用が多段にわたって具わっていることをまず確認しよう。

  1. 別々のマイクロフォンで捕捉された4奏者の演奏音がただちに合流して一つになる、この時点で最初の音の混合が生じる。
  2. 3秒の遅延と組み合わされたフィードバック・ループによる音の圧縮ならびに混合。この処理によりもとの演奏音の輪郭や脈絡は大幅に不明瞭化し、3秒周期のうねりを伴う連続的なざわめきの様相を呈するにいたる。
  3. 出力段階で適用されるピッチシフトやバンドパスフィルタが音色を脱色させていっそうの音の非人称化が進行し、
  4. ハラフォンによって空間を水のように流動する性質が音に与えられる。

 

いっぽう、上のフローチャートに書き加えられた記銘や保持、想起の文字は、くだんの回路が音を記憶するはたらきをも兼ね備えた回路であることを示している。Omaggio a György Kurtágのライヴ・エレクトロニクスは、演奏音の入力と加工音の出力とのあいだにしばしば時間差が設けられているのが特色である。たとえば上の楽譜の例だと、エレクトロニクスへの入力終了後、四分音符約12個分、ということは、この間のテンポが「四分音符」=30であるからおよそ24秒の時を経て、ようやく音の出力が開始される。こうした芸当が可能なのは、もちろんこの間に電子回路網のなかで、過ぎ去った音がなんらかの形で記憶されているからにほかならない。

 

さて、いまここに顔を覗かせているのは、ノーノにとっての「記憶と水の親和性」という、新しいテーマである。

 

Omaggio a György Kurtágの記憶回路は、音を水のように変質させる液化回路をそのまま転用したものであるから、ここでの記憶の過程はもっぱら流体力学的な現象である。

 

記銘とは、アルトの声もフルートの音も、クラリネットの、チューバの音も、とりあえずいっしょくたにして電子回路網に放り込んでやること。記憶の保持とは、フィードバック・ループの渦巻きで音を攪拌しながら電子の海に滞留させること。記憶は固定された標本ではなく流れとして、動きのなかで保持される。ここでフィードバックのレベルを100%より減じてやれば、記憶につきものの忘却の再現になる。記憶された音の出力=想起の時点で作用するピッチシフトやバンドパスフィルタ、ハラフォンがもたらす音の変容は、水のようになってぐるぐる渦を巻いている記憶を思い出そうとする=渦を掬い取ろうとする際に避けがたく生じる記憶の攪乱を模したものだとみることもできよう。

 

記憶の海

刻み込むだの灼きつけるだの、記銘だ定着だ固定(consolidation)だのと、やけに手触りの固い言葉でもって語られるかと思えば、習慣的に海と名指されもする(Google "記憶の海" の検索結果 約 317,000 件 - 2014年11月現在)、記憶をめぐる語彙の不思議な二面性。いったいこの記憶というやつは海のものか、それとも山のものなのか。

 

かたさとやわらかさの印象が特殊な共存を遂げている記憶の空間にノーノが降り立ったところを想像してみよう。刻み込まれ灼きつけられ記銘され定着され固定された記憶の標本室に立ちこめるホルマリン臭に辟易してたまらず外へ飛び出し、記憶の海の爽やかな汐の香を求めて彷徨していくノーノの姿が眼に浮かぶようだ。

scopro infatti che gli eventi custoditi nella mia memoria perdono sempre più la loro immobilità ed improvvisamente posso intendere con altre orecchie e con altri pensieri quello che ritenevo già fissato e sedimentato. *1

*

じじつ私は、私の記憶のなかに貯えられていたできごとがその不動性を刻々と失っていくのをみいだしました、そして不意に私は、既に固定され、沈殿してしまったと思い込んでいたものを別の耳で、別の思考で聞くことが出来るようになったのです。

固定されたもの(fissato)を疎んじ流動性(mobilità)を渇望するノーノの性向は、音の世界にあっても記憶の世界にあってもなんら変わることはないのである。ノーノが記憶のテーマに対峙するにあたっての基本姿勢はここにある――どこかに刻み込まれて定着し、それっきり動かなくなってしまうような記憶ではなく、「海」と呼ぶことのできるような、動的な記憶のあり方を模索すること。

 

ノーノが蛇蝎のごとく忌み嫌っている「固定」がどういう事態であるかをイメージするには、記憶を例にとって考えるのがいちばん分りやすいかもしれない。わたしたちの身近にある、すぐれて固体的な記憶のしくみをいくつか思い出してみよう。たとえばデジカメに収められているn枚の写真だとかCDのn個のトラックが、水のように混ざり合いだんだんと別の絵や音に変質してしまうなどということは絶対に起こり得ない。人間が発明した不溶性の記憶媒体のなんという頼もしき安定ぶり、そしてなんと途方もなき退屈さ。そう、安定性と引き換えにして、別のなにかに変化することを可能にする力という意味での文字どおりの可変性を喪失してしまうこと、それが唾棄すべき「固定」の意味するところである。記憶というものを、もはや変わりようのない死んだ過去の標本庫にしてしまわないためには、記憶されるべきものをソリッドにする(consolidation)のではなくリキッドにする、可溶化することを心がけなくてはいけない。上に引用したノーノの発言はそのことを訴えている。なんであれ固まっていたものが溶解していく場面で、不断の変化を告げるaltroという水の世界の形容詞が呼び出されてくる(altre orecchie / altri pensieri)のは、ノーノの語法ではいつもながらのことである。水のように溶けるということは、ノーノにとって均質化への過程である以上に可変性の回復を意味するのだということが、ここからもよく理解できる。

*

Omaggio a György Kurtágは、EXPERIMENTALSTUDIOの音響技術を駆使することで可能となった、記憶の海へのかつてない接近の試みであった。いっぽう下に示したのは、Omaggio a György Kurtágの約5年前にノーノが手がけたはじめてのライヴ・エレクトロニクス作品、Con Luigi Dallapiccolaに既に現れている記憶の海の原型である。

 

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■ 海の眺め 6 Con Luigi Dallapiccola (1979)

 

この作品のライヴ・エレクトロニクスの中核は、メタルプレートの振動音に対するリング変調である。ダラピッコラのオペラIl prigionieroに由来するfa mi do#の三音にそれぞれ調律された3枚のメタルプレートにコンタクトマイクが取り付けられ、プレートの振動が空気を介さずして直接電気信号に変換される。それがリングモジュレーターによって周波数発生器の生成するサイン波と掛けあわされ、二つのシグナルの周波数の和と差の波に分解されて、舞台の両端に据えられたスピーカーから出力される。

 

Das atmende Klarsein以降のライヴ・エレクトロニクス作品に導入されるEXPERIMENTALSTUDIOの技術と比べて、この原始的なライヴ・エレクトロニクスに欠けている要素の第一は、記憶のはたらきであるようにみえる。

 

本人の語るところによると、ノーノがEXPERIMENTALSTUDIOへの初訪問(1980年11月)を思い立ったのは、そこに行けば演奏音に数秒、数十秒のディレイをかけることのできる装置があるとの話を伝え聞いたことがそもそものきっかけであったという。 *2 当時のノーノにとって、音をその場で記憶し、時間差をおいて加工再生する技術は目新しいものだったのである。単純なリング変調の回路自体に入力された音を憶えておく機能は含まれていないので、リング変調をかけているあいだは継続してメタルプレートを振動させ、入力を同時供給してやらないといけない。ところがこの記憶装置としては根本的な欠陥にもかかわらず、ノーノはCon Luigi Dallapiccolaのライヴ・エレクトロニクスの産物を、「記憶のシグナル」の名で呼ぶ。

...e applicandosi alle lastre di metallo, che riproducono le tre note del Fratello ne Il prigioniero, questo procedimento genera una ondulazione dinamizzata nello spazio. Per cui tu senti lo spettro semplice del suono originale che diventa, attraverso il modulatore ad anello, un suono complesso e si tratta, a mio avviso, non solo di un'amplificazione acustica ma di qualcosa di simile ad un segnale della memoria che si propaga nello spazio amplificandosi. *3

*

Il prigionieroのFratelloの三音を発するメタルプレートに適用されることによって、この音響処理は、空間に活性化された波のうねりをつくりだします。原音の単純なスペクトラムが、リングモジュレーターをとおして複雑な音響になるのが感じられます、思うに、それはたんなる音響の増幅ではなく、増幅しつつ空間を伝播していく、なにか記憶のシグナルのごときものなのです。

ノーノが言わんとするところを知るためには、「記憶するとはなにかをソリッドにするのではなくリキッドにすることである」という先の論点を思い出してみればよい。EXPERIMENTALSTUDIOの擁する高度な音響処理機構ほど劇的ではないにせよ、リング変調の回路にも、そこをくぐり抜けた音を「水っぽく」変える作用がある。もともとかなり噪音的なメタルプレートの音がリング変調によっていっそう噪音に近づき、形状がいよいよ曖昧化して、水のように不断に移ろう流動体(ondulazione)の印象を帯びてくる、その質感の変化にノーノは、いま目の前にある揺るぎない現実の陸地に対するところの、記憶の海の仄暗いゆらめきへとつうじる気配を感じとっているのだ。

 

そしてその水のごとき記憶のシグナルは「空間を伝播する」、とノーノは言う。そういえば同様のことを、ノーノは前に引用したベッリーニのオペラ『ノルマ』についての寸評のなかでも口にしていた(「altri suoni sgorganti dalla memoria=記憶から流れ出した別の音」)。ただこれだけでは断片的すぎて意味がよく分らないので、上の言葉に仄めかされているノーノの考えがより具体的に表明されている別の発言も聞いてみよう。 

私自身は全く空っぽで、私の空間も空虚です。砂漠のようなものといいましょうか。砂漠というのは孤独のモメントではなくて思惟のモメントです。(……)私は空っぽで、私の精神や思考はどこかに在って、それが戻って来るときに何か違ったものを持ってくる。 (……) 何だかはまだわからないが、何かが響いて来るのを待つ。自分の記憶、自身の中のこだま、知識。意識しているといないとにかかわらず……。 *4

 

ここで示唆されているのは、記憶も含めたわたしの心的世界の現象がわたしの体のうちそとを行き来するという、いま風に言えばクラウドを彷彿とさせるような心のモデルである。ノーノの記憶が神経系のしかじかの部位に牡蠣のごとくはりついて固着してしまうような静的な記憶でないのは自明のことである。だがそれを、「外から隔絶された自身の内面(intimo proprio che differisce dall'esterno)」 *5 で波打つ「内なる海」だというだけではどうやらまだ不十分なようだ。記憶の海の水は、汗や涙や尿や唾液といった他の体液と同様に体の外に流れ出し、空間を拡散すらしていくのである。Con Luigi Dallapiccolaではこの内→外の動きが、メタルプレートのそのままではよく聞き取れない「内的な」波動が最終的にスピーカーから外界に放出され、ホール全体に波及していくという、まだハラフォンなんてものには接していなかった当時なりのシンプルな方式で再現されている。

これは奇抜な発想というべきだろうか。いやむしろ逆で、記憶が水のように流動するものならば、それが決まった枠のなかに大人しく収まっていると信じることのほうがおかしなことなのである。だがそれにしても、ノーノはこの「さすらう記憶」のイメージを果たしてどこから得たのだろうかと考えたとき、またしてもありうべきルーツとして浮かび上がってくるのは、ヴェネツィアの音響体験である。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 46

*2:Ibid., p. 63

*3:Ibid., p. 59

*4:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*5:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

断ち切られない歌 中篇の上 6/9

リフレクション

そう、結局はこの場所に戻ってくるのだ。ジュデッカ運河――ノーノが抱いているあらゆる空間的イメージの源泉となる「母空間」である。

 

その空間は、

  • 内部空間(spazio interno)と、それを取り巻く外部空間(spazio esterno)とからなる。
  • 内部空間は島と呼ばれる。
  • 外部空間は海と呼ばれる。
  • 内部空間=島からは外部空間に向けてなにか(音)が流れ出している。
  • 外部空間=海とはすなわち「面」の存在である。われわれ陸の住人がそのなかで10分と生きられない向こう側の世界(水圏)と、こちら側の世界(気圏)とを厳然と分かつ境界面。
  • 島から外部空間へと流れ出したなにか(音)は、そこに横たわる面=海面にぶつかり、はねかえされる――反射の発生。

島と海の空間モデルを記憶のモデルへとつなげる糸口とは、その「反射」である。

 

ヴェネツィアの音景を語るノーノの発言集をここでもう一度掲げておこう。改めて確認したいのは、ノーノがヴェネツィアの水のほとりで聞く音を、さかんにリバーブ、エコーの語で表現していることである。

1 ... sofferte onde serene ... に寄せた文章より

ヴェネツィアのジュデッカにある私の家には、様々に打ち鳴らされ、いろいろなことを告げる、種々の鐘の音が、昼となく夜となく、あるいは霧の中を通って、あるいは日の光と共に、絶え間なく聞こえてくる。それらはラグーナの上の、海の上の、生のシグナルである。 *1

 

2 カッチャーリとの対話より

鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います。 *2

 

3 ベルリンとヴェネツィアの音環境を比較して

ヴェネツィアでは)もっと高い音のスペクトラムを感じます――リバーブによって、鐘同士のエコーによって、別の音によって、またそれらの音が水の上を伝播していくことによって。 *3

 

4 フライブルクの黒い森の音響空間やベッリーニの歌曲について語るなかで

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、リバーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。 *4

 

5 1985年の講演より

ヴェネツィアの、ジュデッカの一角で、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島で、サン・マルコの船着場の水の鏡面specchio d'acquaで、金曜の7時ごろに聞こえてくるのはこのうえなく美しい音風景です。それはまさしく魔術です。鐘楼から何かの古い宗教的なシグナル(晩課やお告げの祈り)が打ち鳴らされる、するとそれらの音にリバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面superficie riflettente dell'acquaの上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。 *5

 

リバーブ/エコーと呼ばれる物理現象に対するノーノの愛着のほどは、ライヴ・エレクトロニクスにおいてしばしばリバーブを音響効果として用いること、さらにはスピーカーの設置に際しても、わざわざスピーカーを外向きにして、いったん音が壁に当たってはね返ってから届くようなしかけを好むといったところによく表れている。「私は(直接的に届く音に対して)間接的な音の方がずっと良いのです」 *6 という、まことにストレートなリバーブ礼賛の弁をとある対談のなかで吐露したこともある。

 

リバーブやエコーが成立するためには、言うまでもなく次の二つの要素が必須である。第一に音が空間を動くこと、動きつづけること、そして第二に、動いていった音がなんらかの反射面に出会うこと。反射面は石畳の路面でも建物の壁でもなんでもかまわないが、水の都ヴェネツィアではもちろん、島々を取り巻く海面がその代表格となる。

 

なんにせよ、反射面はぶつかった音を反射=リフレクトする。英語(reflect, reflection)でもイタリア語(riflettere, riflessione)でも、リフレクトは物理現象と心的現象を同時に表す言葉だ。「リフレクトする」をその二重の意味にそくして訳すなら、音は反射し、反響し、かつ思案され、沈思され、反省され、振り返られ、思い起こされるのである。音が拡散し→なにかにぶつかり→はね返されるという、ありふれた空間的行程に、はなはだ素朴な在り方ながら記憶の過程の雛形のようなものが、より広く言えばかすかな精神性のようなものが兆しているようにみえる。

 

たとえ話をつかっていえば、こういうことである。

確かに肉体という点からすれば僕と兄貴は正反対だった。兄貴は心の中までも肉体でぎっしり埋まっているのではないかと思わせるほど、思いを反芻したり屈折したりすることがなく、逞しい肉体が外の世界を表面できらきらとはね返していた。 (……) しかし、僕は違っていた。僕は肉体に恵まれていなかった。僕は子供のころから小さくて痩せていて、"骨" とあだなされるほどだった。しかし僕は "骨" であるがゆえに、心のなかの空洞は青の屏風から吹き付けてくるすべての風を入れることができるほどに広く、かつ自分でもよく分らない微妙なところがあった。そこはいろいろな思いが反芻され、光と影を作りながら屈折し、あるところは水のように暗く淀んでいた。 *7

この寓話のなかで海に相当するのが「兄貴」であり、島に相当するのが「僕」である。

 

いま注目すべきことは、「僕」という島の内側と外側で生起しているふたつの現象――

  • 島の横腹に開いた大きな海蝕洞のような「僕」の心の中の空洞で生じている屈折
  • きらめく海面のごとき「兄貴」の肉体の表面で外の世界がはね返されて生じている屈折

――これらがまったく同質のものだということである。そこでもしも、「僕」の心の空洞から潮が引くように外の世界に流れ出していったものが、あらゆるものの侵入を拒む「兄貴」の肉体ではね返されて再び「僕」のなかの空洞へと押し寄せてきたとしたら、空洞の内部で幾重にも生じている屈折とまったく同様に、「兄貴」の肉体の表面で生じた遠い屈折をも、「僕」の思いとして感受し得るのではないか――そんな推察をとおして、「僕」の体をはみ出しそのまわりに地球を取り巻く大気のようにひろがる、いわば「屈折圏」とでも呼ぶべき、拡張された記憶の海、想念の海が幻視されてくるようになる。反射という物理現象に宿る精神性を介して、ノーノがベッリーニの音楽について語った言葉を借りれば「どこが肉体で、どこが非肉体なのか、どこが物理の世界でどこが思考の世界なのか」 *8 の境が判然としなくなるconfusioneが生じるのである。

*1:イタリア語原文はFondazione Archivio Luigi Nonoの作品リスト中に掲載されている。Deutsche Grammophon日本盤CD解説中の日本語訳(庄野進訳)を一部改変。

*2:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*3:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 70

*4:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono [pdf]

*5:Luigi Nono (1985) Altre possibilità di ascolto.

*6:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*7:桑原徹 「風の駅」、『御神体(鳥影社)』所収

*8:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 16

断ち切られない歌 中篇の上 7/9

時間の海

反射という現象がもついくつかの側面をこれまでとりあげてきた。

  • やって来た音をはねかえす作用
  • やって来た音をまぜかえす作用
  • リフレクション=記憶の過程との親和性

だが結局これらすべては、反射の本質を射抜くたったひとつの単語によって要約することができる。すなわち、反射はまっすぐなものを「曲げる」ということである。この点を掘り下げていくために、まずは音の反射のない世界とある世界をビフォーアフター的に見比べてみることにしよう。

 

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上図のAは、音というものがもともと漂泊者としての素質にさほど恵まれているほうではない、という由々しき事実を端的に物語る絵である。たしかに空気中でも緩やかに進路が屈折することはあるし、障害物の後ろ側に回りこんでいく回折というこじゃれたふるまいもみせるとはいえ、Aのようにどこをどのように通ることもできる広大な空間を旅する自由が与えられたとき音がすることはといえば、おおむね直線的な経路をとってただ前へ前へと猪突猛進するという、およそ遊び心を欠いた通勤通学的な移動でしかない。

 

Bにおいて空間の底部を占めている海は、気圏を伝播する音にとっては立入禁止区域と同義であるから、本来なら自由の制約を意味するはずである。ところが空間に描き出される音の軌跡は、無制限な行動の自由を享受していた頃の画一的な動きに比べてずっと豊かなものになる。ひたすら前進することしか知らなかったあの単純なる輩が、いまや進む方向を大きく変えるということを覚えたのだから。直線性の呪縛から逃れるための方途としての反射という一般的図式がここにくっきりと浮かび上がってくる。

 

反射を介した間接的な音を好むというノーノの嗜好は、音源からまっすぐ直接的に届く音を好まないということと表裏一体の関係にある。直線的なもの全般に対する倦厭の情は、万事にわたるノーノの美学の基調をなしているといっても過言ではない。1987年のNo hay caminos, hay que caminar初演に合わせて初来日したノーノは、ユーラシア大陸をシベリア鉄道に乗ってはるばる横断するという尋常でないルートを辿って日本にやって来た。その旅のことを武満徹との対談でこんな風に話している。

武満 今お話を伺っていて、ふと思ったのですが、ノーノさんの時間の認識というのは、ヨーロッパにおける極めて直線的な時間――もちろん、そんなに簡単に図式的に言えることではないけれど――そういう時間認識とはだいぶ違うような気がしますね。むしろ私たち日本人、東洋人の時間認識に近いんじゃないでしょうか。

NONO そうかもしれません。ここにふたつの点があるとして、その両者をつなぐ線というのは、何も直線だけではないわけです。僕はそういう杓子定規な考え方が嫌いで、ですから今回の旅で、イタリアから日本への直線コースをとらなかったというのにも、そんな動機もあったのかもしれません。トリノの時間、モスクワの時間、イルクーツクの時間、ハバロフスクの時間という四つの時間を通り抜けて、日本の時間にたどりついたわけですが、そうやって、紆余曲折してたどりついた日本というのは、最初に思っていた日本とは違う日本だったという気がします。 *1

ここで注目したいのは、ヴェネツィアから東京へと到る紆余曲折の旅を、ノーノが時間の経験として捉えている点である。イタリアから日本まで飛行機でひとっ飛びした場合と、シベリア鉄道にがたごと揺られて陸地を移動した場合、それぞれが空間に描き出す軌跡を単純に比較してみれば、実際のところそう大きな違いがあるわけはない。どうやらノーノが言う「直線コース」とは、空間に引かれた線のことを指しての言葉ではないように思われる。飛行機に対してシベリア鉄道を選ぶということは、空間というよりもむしろ、まっすぐすぎる時間を紆余曲折させるための手段なのである。

 

同様のことがリバーブやエコーという、もともと時間と密接に関わる現象についても考えられよう。上の図を時間的イメージとして眺めた場合、Aに示した直線的な軌跡がクロノロジカルな時間の直線性、均質性に対応していることは明白である。ではBはなにを表しているか。

 

過去を置き去りにし、現在を素通りして、ひたすら未来へと脇目もふらず無表情に歩みを進めていくクロノス。なんだかすましたヤロウだな。どれ、この辺に海のマットを敷いておいてやろう。

 

狙いどおり仕掛けにひっかかるクロノス。海面にぶつかって蹴躓いたクロノスは、「あっ」とか「うっ」とかいう柄にも無い狼狽の声を発して、それまでは一顧だにしなかった後ろの方を振り返るような素振りをみせる。よろめいた方向のいかんによっては、あのクロノスが元来た道を引き返すという僥倖さえ起こり得る、そうなれば、過ぎ去った時が回帰してくるのを「待つ」ことも可能になる。躓きの海を利用したクロノスの攪乱による、新しい時間の創出である。

 

クロノスとは別の時間を探究すること、それはPrometeoを中心とする後期ノーノ5作品のためにカッチャーリが編纂したテキストに込められた通しテーマでもあった。だがそのためにカッチャーリがとった方法とノーノがとった方法とのあいだの隔たりは小さくない。上図のAとBを時の変容として見比べたとき、

  • 時間に穴を穿ち、その連続を引き裂く亀裂を生み出す *2
  • 「瞬間をその個的な一回性のなかに置」き、「瞬間を一連の継続から解放する」 *3
  • 流れる時を止めて継続を断ち切る *4
  • 「空虚な継続である一様な時間からほとばしり、流れを止めて時を再生させ」る *5
  • 継続を切り取る *6
  • 空虚な持続の形式を(直線的なものであれ円環的なものであれ)覆す *7
  • 時間を無数の単独的な瞬間へと粉砕する *8

といった言葉で示されるカッチャーリの処方箋に直接対応する要素をそのなかに認めることは困難である。AからBへの遷移のあとでも、相変わらず時間は立ち止まることも断ち切られることもなく、連続的に流れている。ただ変わったのは、流れ方だ。反射の発生によって、時の流れは断ち切られることはないが屈曲する。上の図では単純化のため、一定方向の鏡面反射の軌跡のみが描かれているが、複雑に波打つ海面はそこにぶつかってはね返るものを、光であれ音であれ時間であれ、もっと様々な方向に散乱させる作用を示すだろう。かくして、一定の方向に「流れ去る」という時間の挙動にsospeso=宙吊られたような、宙に浮かぶような要素が混ざってくる。いまこのsospesoの語を、Il canto sospesoの訳としてよく用いられる「断ち切られた」の意味――これはsospesoが持っている「中止された、中断された、延期された」といった語義を若干拡大解釈して得られたものである――で読むのはまったく不適当だ。sospesoのいまひとつの語義は「不確かな」だとか「不安な」で、反射はその意味でも時を"sospeso"させる。以前とは進む向きが変わってしまうことにより、それがどこからやって来たのかがよく分らなくなる――時間の言葉で言えば、どちらの方向がより古く、どちらの方向がより新しいかの順序が判然としなくなるのだ。

 

先に掲げた発言集のなかでノーノがリバーブやエコーに結びつけていたのも、その不確かさの感覚である。

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、リバーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。

 

それらの音にリバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面の上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。

これらの発言のなかでノーノは、英語のwhereに相当する「どこ dove」の語のもとに、反射によって線形的な空間の位置関係が不分明に陥るさまを語っているわけだが、ノーノが別のところで述べている、リバーブによって得られる音響は「時間なき共鳴risonanza senza tempo」 *9 の様相を呈するといった言葉が示唆するように、それを直線的な時間の前後関係の溶解として読み替えることも十分に可能だろう。

 

要するに反射は、川のように明確な方向性をもって流れ去る線的な時間(tempo lineare)を、海のように方向性の不明瞭な、面的に漂い流れる時間(tempo sospeso)へと近づけるはたらきをもつのである。別の言い方をすれば、起こった出来事が一本の時間軸上に整然と配列されている年代記的な時間から、起こった出来事が海のように漠とした心的空間を雑然と浮遊している、記憶のなかの心理的時間への接近ということでもある。

*1:武満徹対談集『歌の翼、言葉の杖(TBSブリタニカ)』に収録

*2:マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、49頁

*3:同上、48頁

*4:同上、56頁

*5:同上、76頁

*6:同上、78頁

*7:同上、78頁

*8:Massimo Cacciari. Profane Attention.

*9:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 57

断ち切られない歌 中篇の上 8/9

母子の肖像

ところで、ノーノはいつも発言のなかでエコーとリバーブを使い分けているようだが、この両者はそれではどう異なるのかというと、エコーは日本語の反響、リバーブは残響に相当し、どちらも音の反射によって生じる現象で原理は同じであるが、前者は直接音と個々の反射音を区別して聞くことができるケース、後者は反射が連続的に生じており、直接音と一連の反射音の区別がつけられないケースだというのが辞典に書かれている説明である。これらの語、とりわけリバーブの語をつかうときふつう想定されているのは、反射が一度ではなくつづけて何度も起きるような状況である。実際それは、「音源が振動をやめた後もしばらくの間、引き続き音が聞こえる」という、残響の定義どおりの一種の「音の記憶」を実現させるためには必須の条件である。

 

その点からみたとき、ノーノの「母空間」であるジュデッカ運河は、じつのところさほど恵まれた条件にあるわけではない。建物より高いものは存在しない平らな島に挟まれた、幅約400mの開水面は、そこに流れ込んできた音を何度も繰り返し反射させるにしてはいささかひらかれすぎているのである。たしかにここジュデッカ運河では、主として海面による音の反射が広汎に生じているが、サン・マルコ寺院の内部のような屋内の空間や、海面と海底の両側に反射面をもつ海中と比べて、いかんせんその効果は限定的である。反射による時間の攪乱は概して単発的であり、海面で発生したリフレクション=記憶の身振りは、結局その多くが誰のもとにも送り届けられることなく、虚空の何処かで忘れ去られてしまう。

 

オリジナルの空間モデルが抱えるこの弱点を克服するためには、母空間を適宜変形させて改良を加えるというやり方がたいへん有効である。そのようにして母から生まれてきた子供たちをいくつか紹介しよう。

 

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図1 子空間その1 *1

「さすらう反響」もしくは「さすらう共鳴」という意味の表題をもつRisonanze errantiの作曲にあたってノーノは、空間のなかを音が動いていく様子を描いたイメージ図を何枚か書き残している。そのうちの2枚がMarinella Ramazzottiによるノーノについての本に転載されている。これはそのうちの1枚。PICCOLO SPAZIO INTERNO(小さな内部空間)と、それを取り巻くSPAZIO ESTERNO(外部空間)。図の上段は外→内の動き。一部は内部空間を縁取る面にぶつかる。図の下段は内→外の動き。やはり一部は内部空間を縁取る面にぶつかる。

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図2 子空間その2 *2

そしてこれは別の1枚。 中央の音源から外部空間(esterno Raum)へと四散していく音の動き。音は外側の壁にぶつかって反射し、逆に内側へと還流してくる。図の上側にノーノが書き添えたフランドルの作曲家Josquinの名前、これは、「記憶の過程と空間の行程とのあいだにノーノがつながりを見いだしていたことを証しだてるものだ」とRamazzottiは述べている。

 

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図3 子空間その3 *3

Ramazzottiの本ではこのほかに、Io, frammento da Prometeoの作曲に際して書かれたと思しき別のイメージ図についてもふれられている。こちらは言葉による説明のみなので、上の図はRamazzottiの記述に基づき想像で描いた再現図。 外→内の音の動き。内側の壁(parete interna)にぶつかって音が砕け(Rompi !)、その場に漂う(Sospendi !)。

 

図1~3で示されている空間的イメージは、いずれも図0の原イメージの変形操作によって得られるものである。

 

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図0 母空間=ジュデッカ運河モデル

 

3つの子空間に共通するポイントは二点である。 第一に、内と外の二つの要素が意識されていること。 第二に、内と外を隔てる境界は不完全であり、内→外や外→内の音の流れが生じていること。 

 

母空間にまで遡って考えると、内部空間とはすなわち島のことであり、外部空間とは島を取り巻く海(正確に言えば海面に縁取られた海の上の空間)である。したがって内→外の音の流れとは、母空間に置き換えれば島から海への、外→内の音の流れとは同じく海から島への流れを指す。

*

まずは図1の空間、これは一見して1984年9月のPrometeo世界初演時の演奏空間に酷似している。

 

ヴェネツィアのサン・ロレンツォ教会の内部に置かれた、レンゾ・ピアノ設計の巨大な木の箱船。そこに演奏者と聴衆が乗船し、船の四辺を巡る3層のバルコニーのあちこちに散らばった奏者の奏でる音を、聴衆は船底の位置から聞く。図1のPICCOLO SPAZIO INTERNOにあたるのがこの箱船であり、SPAZIO ESTERNOにあたるのが船を取り囲む教会である。

 

「Renzo Piano Prometeo」などのキーワードで検索すれば何枚も出てくる箱船の画像は、どれを見てもまだ作りかけかと見まごうような半端な姿のものばかりだ。しかしこの船は、もともとそういうコンセプトの船なのである。una nave in cantiere――造船所で建造途中の船だとレンゾ・ピアノは言っている。 *4 船の側面はふすまのような着脱可能の木の板を骨組みに何枚もはめ込んでいくつくりになっていて、半端さの印象は主に、その板がきちんと全面に張られていないところからきている。船内で発せられた演奏音は、一部が船の側板で反射し、一部が船の横腹のあちこちにあいた穴(および船の上部)から船外に流れ出す。外側に流れ出た音は、教会の堅牢な石の壁に反射して内向きに方向転換し、ここでもまた一部が船の側板で反射し、一部が穴をくぐり抜けて再び船内に流れ込んでくる――というわけで、まさしく図1の描くとおりの音の流れが生じることになる。

 

このサン・ロレンツォの空間は、図0の母空間を下図のように変形したものと考えることができる。

 

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母と子の対応関係は、

  • 島  = 木の船     = 内部空間
  • 海面 = 教会の石の壁  = 外部空間の縁
  • 海中 = 教会の外の空間 = 外部空間の外側

である。

 

変形を被っているのは主として海である。もとのイメージでは島を取り巻く平面だった海面が折り畳まれ、海の青い包装紙で内部空間=島/船を包み込むような格好になっている。その結果として、音の流れ方が顕著に変わる。

 

母なるジュデッカ運河の海面で反射した音は、現実にはかなりの割合が、遮るもののなにもない大空へと発散して結局そのまま流れ去ってしまっていただろうと想像される。内→外(島→海)に対してその戻りの、外→内(海→島)の音の流れが非常に脆弱だったのである。いっぽうの子空間ではこの問題が劇的に改善されている。内から外に流れ出した音は、いまや「島」を平らに取り巻くのではなく立体的に包み込むようになった「海面」に反射して、確実にまた内へとかえってくる。こうして「島」と「海面」とのあいだで反射が繰り返され、音が流れ去らずに、減衰するまで空間を何度も行き来するという状況が成立する。まるでクロノロジカルな時間のように直線的かつ不可逆的に流れ去る動きを、sospeso=漂うような動きへと変容させるという、先に述べた反射の作用が子空間では大幅に強化されているのである。

 

またこのことによって、母空間においては甚だあやふやなものでしかなかった記憶の過程との相似性も格段に鮮明になる。記憶されるべきものの流動性と、「流れ去ること=忘却されること」に抗して流れを屈折させるための反射面の二要素を軸とする、ノーノの動的な記憶のモデルでは、刻み込むや灼きつけるなどの常套句で形容される固定された状態に代わり、sospensioneという宙ぶらりんのふわふわした状態をもって記憶が保持される。母空間における「流れ去る」という挙動が子空間で「漂う」へと遷移したということは、つまりそのぶんだけ子は母よりも物憶えがよくなったとみることができるわけだ。

 

図3の子空間では、音のsospensioneが図0の母空間の海面上にあたる場所ではなく、島の内部に相当する場所で発生している。sospensioneが生じる部位=記憶の座という図式にしたがえば、これは通常の記憶と同様、主体の内面に記憶が宿っている状態を示す図である。カッチャーリが島々の「共同の胎内」 *5 だと呼んだ群島を取り巻く海の、そのうえの空間に音がsospensioneしている「クラウド」的状況と比較して、ここでは記憶が誰に帰属するものであるかをより明確に特定できるようになっている。ただしこの内なるsospensioneも、いったん内から外へと流れ出したものが、外部空間を縁取る反射面ではね返って内へと戻ってきた結果生じたものだという点を忘れてはならない。

 

図2も内→外→内の動きである。Risonanze errantiの音の海/記憶の海であるシャンソンのこだまは、実際にまったくこの図のとおりの仕方で空間を流動する。この作品ではこだまの演奏時に限定して用いられる音の空間操舵装置ハラフォンは、大別してふたとおりの音の動きを生み出している。ひとつは、演奏会場をゆっくりと円を描いて回転する動き。そしてもうひとつは、会場の中央から外向きに拡散する速い動き。 *6

 

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1987年9月9日にトリノで行われた再演では、上図のようにホールの中央に舞台が設けられていた。この空間構造は、サン・ロレンツォ教会のPrometeoの演奏空間と基本的に同型である。ハラフォンの音響処理が生み出すのは、中央の舞台=PICCOLO SPAZIO INTERNOの四隅に置かれたスピーカーから、ホール=SPAZIO ESTERNOの四隅に置かれたスピーカーに向かって音が四散していく感覚である。Con Luigi Dallapiccolaの原始的なライヴ・エレクトロニクスにおける内→外の音の海の流動は、音響処理のフローチャートを辿ることではじめて理解される半ば机上の理屈でしかなかったが、それがRisonanze errantiになると、 音の海が内側の空間から溢れ出し、外部空間を蒼く染め上げながら拡散していくもようを、その場ではっきりと体感することができるまでになっている。内から外へと遠ざかっていく音(記憶)は、もちろんそのまま流れ去ってしまう(忘却されてしまう)ことはなく、ホールの壁――これは母空間の海面に相当する――で反射して再び外から内へと戻ってくる(想起される)。ホール四隅に内側へ向けて設置されたスピーカーから届けられる音は、この逆向きの潮流の具現化である。

*1:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 203.

*2:Ibid., p. 209.

*3:Ibid., p. 208.

*4:Renzo Piano (1984). Prometeo: uno spazio per la musica.

*5:マッシモ・カッチャーリ「群島としてのヨーロッパ」、『現代思想』2002年8月号

*6:Reinhold Schinwald (2008). Analytische Studien zum späten Schaffen Luigi Nonos anhand Risonanze erranti. [pdf]

断ち切られない歌 中篇の上 9/9

流れ去るもの、固定されたもの、漂うもの

sospesoやsospensioneの語を、ここまでに特に断りなく「浮かぶ」だとか「漂う」の意味で読んできた。「音が漂う」とはしかしどういうことだろうか?御存知のとおり、音は標準的な大気中を秒速約340m、時速にすれば1200km以上の、人間的尺度からすればとんでもない高速で伝播していく波である。その速度自体を顕著に遅くさせるなどということは不可能事であって、その点からみれば音は決して漂うことがない。可能なのは、ジェット機を上回るほどのいきおいで音が疾駆しているにも拘わらず、あたかもそれがクラゲのようにふわふわ空間を浮遊しているかのような錯覚を起こさせることだけである。反射の性質を利用して、音が休むことなく動き回りつつも同じ空間にとどまる状況をつくりだしてやった時に、その錯覚が生まれる。

 

音を空間に漂わせるためには不可欠である反射を、ではいかにして発生させるか――ノーノの空間はひとえにこの要請にしたがって設計されている。たとえそこに壁や囲いのようにみえる物体があったからといって、何かを捕まえて閉じ込めるための構造物だと勘違いしてはいけない。制約がないかぎり一方向に流れ去ろうとする強い性向を宿している音を漂うものに変えるための大前提である、多数回にわたる複雑な反射をひき起こす反射面として、それらのものはそこに存在しているのだからである。

 

Prometeoの船のことを思い出してみよう。たしかに人はそれをarca=箱船だと呼んでいるし、おおまかな外形だけみれば箱船風ではあるが、この穴ボコだらけの船に、選ばれし者を外なる脅威から安全に隔離する密室としての機能はまったく具わっていない。もともとそういう目的のためにデザインされていないからである。この船の側面が、着脱可能の小さな板を何枚もはめ込むつくりになっているのは、板をはめる位置をいろいろに変更したり、場合によっては、音を反射せず吸収する布を板に代わって張ることにより、空間を伝わる音の屈折の度合いを可塑的に調節するためである。車の形をした消しゴムが乗り物ではなく、書いたものを消すための道具だというのと同じ意味で、レンゾ・ピアノの船は「箱船の形をした反響板」なのである。

 

高橋悠治との対談のなかでノーノが語った、「私は空間を所有するのではなく響かせたいのだ」 *1 という言葉も、この観点からみればよく理解できる。ノーノが言おうとしていることはつまりこういうことである――「私は流れ去るものをfisso=固定されたものにはしたくない、ただそれを、sospeso=漂うものにしたいのだ」。

 

わたしのもとから不可逆的に流れ去っていこうとするものにどう対峙するかという、音だけでなく、時間に、記憶に、あらゆることにつきまとう普遍的テーマがある。この問題に対するもっとも直接的で分りやすい対処法は、流れを止めて固定してしまえ、という考え方だろう。人間の発明した人工的な記憶媒体は、基本的にみなこの思想に沿ってつくられていると言ってよい。たとえば音楽のCDは、ある時ある場所に流れていた、本来なら一回限りで過ぎ去ってしまうはずの音を捕まえて、いつでもどこでも何度でも、同じように取り出すことのできる「わたしの所有物」に変える、音の、時間の、記憶の固定装置である。しかしノーノにとってこの種の固定化の作業は、生きていた過去を二度と変化することのないホルマリン漬けの標本にしてしまうことと同義であり、流れ去るものをただなすすべなく見送るよりもむしろいっそう性質の悪いやり方なのである。

 

それに代わってノーノが採ったのが、流れ去るものを漂うものに変えるという方法であった。流れを止めるのではなく、別の流れ方へと変えるということである。単に動きが一方向的ではなくなったというだけで、漂うものは相変わらず動いている、動いている以上はかたちもだんだんと変わっていくし、他のものと混ざり合いもする。そうして常に動きと変化のなかにありながら、しかしそれでもなお、過ぎ去ったものの面影がそこになにかしら残存している。その意味でこれも一種の記憶である。こだま(反響)、リバーブ(残響)、あるいは余韻といった言葉はいずれも、この動的な記憶に与えられた呼び名である。こだまや残響という現象の起源はCDや本や石版などより遥かに古いのであるから、ノーノのやり方をさも特殊なことのようにみるのは的外れというものだ。特殊どころかそれは、何十億年も前から洞窟や、谷あいや、世界中のいたるところで続いている由緒正しい記憶のしくみの継承なのである。

 

そもそも生命の記憶の原理はfissoか、それともsospesoだろうか。断然後者だと思う。生命の、などと大上段に構えてみたが、私がその実態をよく知っている生命の記憶といえば私自身の記憶だけなので、これはもっぱら私の個人的体験からくる推測である。私は私の記憶が固定されたものだという印象をもったことが全くない。私の記憶は水のように動き、混ざり合い、時とともに変化する。それが常態である。特定の日時の記憶を脳から抽出してハードディスクに保存するなんて話がよくSFに出てくるが、私のなかの記憶があのように単離可能なかたちで保存されているとは到底信じられない。昔住んだことのあるいくつかの街の情景がcon-fusioneしている、夢の世界の地理がよい反証である。私の記憶のなかの映像は写真のように1枚、2枚と数えることができない。私の記憶のなかで鳴っているなべての音は、揺らめく輪郭のsuono mobileである。これらはいずれも、CDやカメラ、DVD、本、ハードディスクなどの固定装置とはまったく異なる流儀で私がものごとを記憶していることを示す証左である。で、その私的経験を全地球規模にあっさり一般化して言うと、生きているものたちの記憶とは、この地上で他に並び立つもののない卓越した反響体のなかで、あるいはまわりで響きつづける、長い長いこだまのようなものなのだろうと思う。生命の存在するところで、もろもろの流れは、音であれ時間であれ、停止することも断ち切られることもなく、ただ幾重にも屈曲していくのである。地球に生命が誕生する前、この星の時間はたぶん今よりもずっとまっすぐ、さらさらと流れていたのではないだろうか。

 

外側の外側

最後にノーノの空間モデルをジョルダーノ・ブルーノの眼で眺めてみよう。

 

宇宙は広大無辺だ、そしてその宇宙の「なか」には無数の有限物が含まれる、とブルーノは言う。したがって宇宙には、有限物の輪郭をかたどる数々の辺が存在する。広大無辺ということの意味は、それらの種々雑多な辺のなかに、この宇宙そのものを限界づける、その向こう側はもはや無でしかないような究極の辺が存在しない、ということである。

 

ノーノが言う内と外も、だからあくまで相対的な概念である。「外部空間」を囲む縁を、ゆめゆめこの世の果てだなどと思ってはいけない。母空間(ジュデッカ運河)の場合であれば、外部空間のさらに外側には海の中の世界が続いている。レンゾ・ピアノの船を包むサン・ロレンツォ教会の外側は、もちろんヴェネツィアの島と海である。このようにして「事物はつねに事物へとつづき、(…) 無限量の事物をこの世から奪いとり消し去ってしまうような [世界の] 境、終局、縁、壁は存在しない」 *2 のである。

 

Prometeoの制作が大詰めを迎えた頃にとり行われたカッチャーリとの対談を、ノーノはこんな言葉でしめくくっている。 *3

San Lorenzo ha porte e finestre nette e aperte.

サン・ロレンツォは、澄んだ、ひらかれた扉と窓をもっています。

これは単なる比喩的表現ではない、というのも、Prometeoの演奏のあいだ、サン・ロレンツォ教会の正面玄関は実際に開けっ放しになっていたからである。 *4

 

Prometeo世界初演当日の1984年9月25日、ヴェネツィアはアックア・アルタに見舞われていた。その日の午後9時という遅い時間にPrometeoの演奏が開始されたまさにその時、高潮警報のけたたましいサイレンが街中に響きわたり、その音は、開け放たれた玄関をとおって教会のなかに流れ込み、さらに箱船の上部や側面の穴をとおって船のなかに流れ込み、pppppppppppppppp とつづく冒頭の静謐な弦のパッセージをほとんどかき消さんばかりだったという。けれどもノーノは、それを不都合な事態として、演奏をやり直させるようなことはしなかった。「あの判断は素晴らしかった」と、Hans Peter Hallerは振り返っている。 *5

 

ノーノが生み出した個々の作品世界については、個々の地理的特徴をあれこれと云々することもできる。たとえばPrometeoは5つの大きな島を鏤めた多島海だとか、Fragmente - Stille, an Diotimaは、音の島の形がはっきりしていてとりわけ群島的だとか、それがHay que caminarになると海洋化が顕著に進行しているだとか、あるいはNo hay caminos, hay que caminarの7群のオーケストラはこれこれこういう具合にホールに配置されているだとか。それらもろもろの個別的風土のすべてに先立つ、ノーノの全作品に共通の空間構造がある。ノーノの音楽は、常になにかのなかにある、ということである。

 

各々の音楽作品を――たとえそれがPrometeoのような「畢竟の超大作」であろうとも――それ自体で完結した一個の閉じた宇宙にしようなどという考えをノーノは全く抱いていなかった(この論点は、Prometeoの冒頭に(おそらくTre voci aにも)引用されているマーラーの『交響曲第一番』第一楽章の導入部や、Prometeoの結尾にもしかしたら引用されているのかもしれないワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』第三幕についてのノーノの考えを聞けばいっそうはっきりする)。ノーノにとって一曲の音楽とは、その作品世界を丸ごとすっぽりと包み込んでしまう遥かに広大な空間(と時間)の只中に投げ込まれた、文字どおりのささやかなる一片=a piece なのである。島を取り巻く海のざわめきが島のなかにいても聞こえるように、個々の音楽がつくる小さな世界には、外の大きな世界から音が流れ込んでくることがあり得る、いや、そうであるべきである。

 

CDなどの録音媒体で音楽を聞いていると、夏であればセミの声が、秋であればコオロギの声が、風の強い日は風の音が、雨の日には雨音が、海辺であれば潮騒が音楽に混ざりこんでくる。ノーノの音楽が鳴り響く空間が具えていてほしい一番の基本的要素を、CDによる聴取はごく自然に具現化してくれる。いっぽうで、現行のコンサートホールのほとんどが該当する、あのおよそ非ブルーノ的な、決められた枠の外にある空間の全否定によって成り立つ密閉空間は、もっとも根幹の部分において、ノーノの思想と相容れないつくりになっていると言わざるを得ない。サン・ロレンツォ教会を決して通常のコンサートホールのような神経質さで密室化しようとしなかったノーノの選択のうちに込められているのは、「音楽は単独で存在するものではなく、必ずなにかに包まれて存在するものであるはずだ」という強いメッセージである。教会の正面に敢えて残された戸外への開口部は、「ラグーナの、海のうえの、生のシグナル」だとノーノが語った、ヴェネツィアのなかぞらを日々行き交う音の海原にPrometeoの船を浮かべるための、必要不可欠な湾口だったのである。

*

この先の航海は、一個の音楽作品を取り巻く外側の世界を意識することでその存在が仄めかされてくるより広大な海原へと舵を取り進められていくことになる。すなわち、「音楽のなかにひろがる海」から、「個々の作品の枠を超えて横たわるひとつづきの大洋」へ向けて。ただその前に、Risonanze erranti論と銘打ちながらも総論的内容にばかり走って、これまでたまに立ち寄る程度の言及しかしてこなかったRisonanze errantiの海=シャンソンのこだまを、一度正面からじっくり吟味しておくべきだろう。

*1:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*2:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、35頁

*3:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*4:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 181.

*5:Hans Peter Haller. Luigi Nono „Prometeo“, die letzten sechs Wochen vor der Uraufführung in Venedig. [link]