アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの後篇の前篇 1/5

これはPost-prae-ludium per Donauの演奏開始後7分53秒から演奏終了までに起きた出来事についてのノートの後篇の、前篇である。予想外に長くなったので後篇はさらに前―後篇に分かれることになった。

 

0753-1000 それでも鼓動はまた動きだす

Post-prae-ludium per Donauの音の断片は、ときには溶媒に溶け込んで姿を晦ましてしまうこともある可溶性の断片である。演奏開始直後からあらわれる雑多な断片群は、3つの段階を経て07m00sにいったん消失する。そのあとひらけてくるC1音のきれめのない持続が 07m53sをもって尽きたあと、再び出現する別の断片群は、こんどは11m12sに消失状態を迎えることになる。この第二の消滅過程においては、個々の断片の性格も、それらが消失へと行き着くまでの経緯も、前半部で観察されたものとは大きく異なっている。 そこに到るまでの過程がまったく異なるということからも予想されるように、11m12sに現前する無窮の拡がりは、輪郭をもつものの不在という点で 07m00s-07m53sの茫漠たる空間と共通こそすれ、その実体は海と空ほどにも異質なものである。

 

ノートの前篇では蝉の声になぞらえたので、ここでは海洋動物にたとえることにすると、前半部の断片は、演奏音、および5、7、10、15秒の4つのディレイの、合計5つの断片が緩やかに連鎖することによって、あたかもサルパ(遊泳性の群体ホヤ)のように、時間のなかでは鎖状の、そして空間のなかでは輪状の――という意味は 4つのディレイが会場の四隅に置かれたスピーカーから順に出力されるため――群体をつくる性質をもっている。このサルパの連鎖個虫群の集団を消失へ導く引き金となるのが、04m30sからはたらきだすディレイのフィードバックであった。個虫の際限ない連結により異常伸長をはじめたサルパの群体は急速に錯雑化の度合いを増してゾル状の不分明へと没していき、07m00sの時点でC1の持続音の深淵に呑み込まれ、闇の底に消える。

 

07m53s以降に析出してくる新たな断片は、c1-f1の音域に現れ、大きさに関しては3通りのタイプがあり、微分音の滑らかな膚を具えている。07m53sから10m00sまでのあいだに施される音響加工はローパスフィルタとリバーブのみ。これらの断片は、群体をつくることもなければ渦を描いて空間を旋回することもなく、遊泳力の劣る浮遊動物のように単独でゆらゆらと漂う、おとなしい性質の断片である。 それが消失への途をたどりはじめるのは、c1-f1の音域が、10m00sを境に最上層のf1へと収束したときからである。

 

1000-1112 きれっぱしのみる夢

10m00sの ppppp から、72秒をかけて11m12sの fffff にまで昇りつめていく、息の長いクレシェンドにおいて、チューバ奏者が発する音はf1のみである。音高が一点に固定されている代わりに、音の長さに関しては、個々の断片の持続時間においても、断片と断片のあいだの間隔においても、なるべく不揃いとなるよう演奏せよとの指示がスコアに書かれている。

 

この間に稼動するライヴ・エレクトロニクスは、演奏開始後5m20sまでと同じく、プログラム1である。同一のプログラムであるにも拘わらず、その音響効果は、一回目の稼動時とまったく様相を異にしている。演奏音と、これに対する4つのディレイがチャンクとして認識されることで浮上してくる、時の矢のような、ツクツクボウシの鳴き声のような、あるいはサルパの連鎖個虫群のような組織体、こうしたものが、ここ10m00s-11m12sの局面において知覚されることはまったくない。この間にチューバの発する音がf1のみであるため、ディレイがどの演奏音に由来するかを判別するには音の長さを手がかりとするほかないが、長さの情報のみによるディレイの心理的なグルーピングは、実質的にほぼ不可能なためである。10m00s以降、ディレイの出力レベルがピーク値(約90%)に向けて漸増していくのと同時に、ディレイのフィードバックもかかりだし、こちらも90%にまで徐々にレベルが引き上げられる。さらに、10m00s以降はチューバの音量の電気的な増幅もはたらきはじめる。(Scott Edward Tignorの論文にエレクトロニクスの入力レベルについてのはっきりした記述はないが、11m12s時点まで一定のレベルを保っているようだ) 結局、ここで作動している複数の音響処理はすべて同一の効果――f1音の断片と断片のあいだにひらいている時間と空間の空隙を、少しづつf1で充填していくという効果をもたらす。スコアの説明によると、このプロセスは、11m12sにおいて 以下のようなかたちでクライマックスを迎えることになる。

The crescendo (10'00'' - 11'12'') must reach a final (powerful) volume that literally fills the space, up to the Larsen effect, but naturally without distortion. *1

 

入出力を具えた電気音響系列を徐々に大きくなる音に曝したとき、ある時点で不可避的に発生するのが、ここでラーセン効果と称んでいるもの、すなわち、スピーカーからの出力をマイクロフォンが再び拾う正のフィードバック・ループの成立によって、いわゆるハウリングが起こってしまうという事態である。このラーセン効果が生じる崩壊点の寸前において、文字通り、空間がf1音で漲る瞬間の訪れることが期待される。11m12sのクライマックスが目指しているのは、この充溢状態への到達である。元をただせば限られたものでしかないf1音の不揃いな断片群が、ディレイとフィードバックによって分身をいくつも産み出し、電気的な増幅の助けも借りてしだいに強まりながら、また、ディレイに先立ってかけられているリバーブによって四囲にしみ拡がりながら、 f1音の平面上にいっせいに蝟集する。その極限の、11m12sの一点において、ついには空間を全面のf1で灼き切るまでに到るというわけである。太陽の南中のごときその眩い一瞬に、なべての断片は一つの全体に融合して視界から消え去るのだ。

 

このような刻が存在しうるということを、頭の中でイメージすることはできる。しかし、ただ想像するだけでなく、実際の演奏会場でこの状態を具現化するのはたやすいことではない。思いのほか早い段階から音の歪みが発生することもあるし、フィードバックのレベルが上がってきた後半以降にブレス音のようなノイズがいったん混入してしまえば、フィードバック・ループに捕捉された不純物を濾過する手立てを講じることはもはや不可能である。こうしたもろもろの現実的な障害に妨げられて、 たしかにliterally fills the spaceと言い得るような刹那に実演で接する機会はあまりない、というか、実質的にほぼないと言うべきかもしれない。空間が文字どおりf1音でみち満ちる比類なき瞬間を期待して待ち構えていても、往々にしていつのまにか11m12sを通り過ぎてしまって、どこがクライマックスだったか分からずじまいに終わるというのが本当のところなのだ。卑小な断片の集積によっていつか全天をf1の翼で蔽い尽そうなどという企ては、限りあるものの抱く限りなきものの夢のなかのできごとである。聞き手が現実に耳にするのは、良くてこの夢の近似的な成就、悪くいえばこの夢の挫折の軌跡である。前半に訪れた断片消失の状態が、07m00sから53秒間にもわたる持続をもち、音符の傍らに書き込まれた註釈で言及されているような細部すら孕んでいたことと比べると、第二の消失状態は、11m12sのただ一点に局限されることによってこうした現実感のいっさいを奪われている、はなはだ抽象的な、観念としての極域なのである。

 

1112a 二つの次元

赤道から極地へ向かうには南極と北極の二通りの方角があるように、さまざまな音の断片が島嶼のごとく散在するPost-prae-ludiumの星のうえでは、断片の消失した空漠たる領域が二つの方角にひらけている。ひとつは07m00sから07m53sにかけての領域。もうひとつは11m12sに現前する、というよりは、10m00sから11m12sに向かって伸びていく線の延長上にひろがっているとされる伝説の地だとでも言ったほうがより適切だろう。この星のもっとも古い文書によると、そこでは空間がただ一つの音に文字通り充たされて、いっさいの形は消えているのだというが、これまでのところ、その地の真っ只中にまで足を踏み入れた者はいない。とはいえ11m12sの近辺では、物の形がごく不明瞭になり、近似的には断片が消失したと言い得る状態をみることもたしかである。

 

島影一つない大海原のような領域が二箇所にひらけているということ。これはPost-prae-ludium per Donauだけの特殊事情ではない。後期ノーノの実質的な出発点であるDas atmende Klarsein (1980/83) 、これは明快に識別できる二つの次元で構成された音楽である。この基本構造はその後も継承されていくので、一般的にいってノーノの後期作品のなかでは、磁石の両極に砂鉄が吸い寄せられるように、一方の次元に傾斜していく音と、もう一方の次元へと傾いていく音の、二つの音の系列が認められる。Post-prae-ludium per Donauに現れる、07m00s-07m53sと11m12sの空虚(この両者は、前者がC1音の、後者がf1音の充溢であるという見方もできるが、形の欠如、一様さという意味において、ここではそれを空虚と呼ぶことにする)は、この二つの次元のそれぞれに呼応しているのである。

 

第一の次元は、既にノートの前篇で詳述した「細部性/ユニークさ」の領域である。フライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOで音の倍音構成や強弱の時間的変化を可視化する装置を使ってさまざまな楽器音の形態を細部にわたり観察したノーノは、たとえ楽譜上ではただ一つの音符で書き表されるような単一音であっても、微視的レベルでは、発せられるたび木の葉や指紋のように千差万別の個性を表し、二つとして同じものはなくユニークであることを改めて認識した。後期のノーノを深く魅了した、この無尽蔵な音の多様性のことを、ノーノ自身はしばしば「無限の可能性」という言葉で形容している。

 

ユニークさとは、まさに名前もあれば形もあることなのだから、その圏域で、形も名前も定かでない空虚なものが生じるのはじつに奇妙なことに思える。これについてもノートの前篇でみたとおりで、それはこの領域で発生する溢水(漏水)によるものである。海原を遊弋する鯨が捕鯨船によって仕止められ、船上で解体されていくと、その過程で、なにかはっきりしない液状のものが鯨の体から必ず滲み出してくる、それと同様の現象がノーノの作曲過程でも起こっているのだ。

 

この溢水は、解体という作業に伴って生じる不可避的な所産である。もしも船上から鯨を観察しているだけであれば溢水は起こり得ない。 ユニークなものにふれるということ。そのためには、ただ観察するだけでは足りないのだろうか。鯨を仕止めて解体するようなことを必ずせねばならないのだろうか。一人ひとりの指紋が異なるように、 音がそれぞれにユニークであるということは、それ自体なにも特別なことではなく、ありふれた事実である。ユニークさをしるには、その事実をありのままに観察することさえできればそれで十分なのだとも考えられる。つまり溢水の発生は、「無限の可能性」なるものに対峙するノーノの流儀に深く依存しているということである。この点についてはノートの後篇の後篇で詳しく検討することにしたい。

 

さて、第二の次元は「純粋性」の次元である。フライブルクで音の千差万別な形姿を観察したそれと同じ装置で、ノーノはまったく対照的な音の様相をも知ることになった。FabbricianiのフルートやSchiaffiniのチューバ、Scarponiのクラリネットをある音域で、アタックが目立たぬよう穏やかに演奏すると、音に多種多様の個性を与えていた部分音がほぼ消失し、近似的にサイン波とみなし得るような純粋な音が出現する場合があるのだ。Prometeo制作の過程でノーノが書き留めた日記風の断章のなかにも、この観察結果にふれた次のような記述がある。

Fabbriciani nel registro c1-f1 del flauto Scarponi nel registro d♭-a♭ del clarinetto Schiaffini nel registro f-f1 della tuba riescono a produrre suoni vere onde sinusoidali senza armonici (tutto analizzato a Friburgo con il Sonoscop). *2

*

Fabbricianiによるc1-f1の音域のフルート、Scarponiによるd♭-a♭のクラリネット、 chiaffiniによるf-f1のチューバは、倍音を伴わないサイン波に実質上等しい音を生成することができる(いずれも「ソノスコープ」によってフライブルクで分析された)。

※原文だと音域は五線譜で示されている 。「ソノスコープ」というのが音の可視化装置の名前である

 

多彩なざわめきの森のふところに神秘的な湖のごとくひそんでいるこの純粋な音の領域にノーノが大きな関心を寄せていたということは、EXPERIMENTALSTUDIOの技術を用いた最初のライヴ・エレクトロニクス作品であるDas atmende Klarseinにおいて、細部性の次元と純粋性の次元が、音楽を構成する二大要素としてきれいに分離したかたちで提示されていることからも明らかである。Das atmende Klarseinはアカペラの混声合唱とバスフルート独奏が交互に現れる構造になっている。このうちバスフルート独奏部ではFabbricianiとともに研究した多様な奏法を駆使してさまざまな音の可能性が模索されるのに対し、アカペラ合唱では、みかけ上ごくシンプルな書法を用いつつ、各パートができうるかぎりの完全なユニゾンにより、部分音を含まないサイン波への合一を理想として、極限まで澄み切った歌を歌うことが求められているのだ。

 

Prometeo (1984/85) の場合は、作曲者自身だけではなくAndré RichardもHans Peter HallerもJürg Stenzlも、皆が口を揃えて全篇の要だと言っているInterludio primoで、純粋性の次元への顕著な収斂がみられる。独唱アルト、クラリネット、フルート、チューバのわずか四人の編成からなるInterludio primoでは、すべての音が pppppで、抑揚を伴わずきわめて平坦に奏される。そのねらいはAndré Richardがあるインタビューのなかで語っているとおりである。

Interludio primoのように、極端なピアニシモにまで音を減ずると、部分音をほぼ取り除くことができます、これによって音色の差異を小さくすることができます。ここでは、私たちが聞いている音が声なのかクラリネットなのかフルートなのか、それともチューバなのかを判別することができなくなります。 *3

 

演奏時間10分にも満たないInterludio primoは、あらゆる喧騒がその須臾には歇んで、純音の澄みきった静謐さだけが四囲を領する、Prometeoのまさに台風の眼なのである。作品全体をとおしてみると、Prometeoのなかでは、細部性と純粋性の二つの系列が 混ざりあったり、だんだん離れていったり、完全に分離したり、一方が他方を圧倒したりと、さまざまな距離感と関係性をもってあらわれ、Das atmende Klarseinと比してはるかに複雑な動態をみせている。その遍歴の果ての最終章Stasimo secondoにおいて、この二つの要素はついに重なりあう――といっても、融合するのではなく差異を保ったままで重なりあって、 ともに同じ音を奏でるに到るのだ。

*1:Scott Edward Tignor (2009). A performance guide to Luigi Nono's Post-Prae-Ludium NO.1 "Per Donau". [pdf]

*2:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*3:Entretien avec André Richard. [pdf]