アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 15/16

阿呆船

ムージルについてやや詳しく述べてきたのは、ノーノの世界観をムージルの世界観と比較するためである。

 

例によって、1987年春ベルリンの、Enzo Restagnoロング・インタビューのひとこま。「貴方が憎んでいるものはなんですか?貴方にとって抑圧とは、暴力とは、不正とは?」というRestagnoの問いを受けて、ノーノはこう話を切り出す。貴方が言っているのは、私の感じているもっとも悲惨な事柄は何なのかということなのかもしれないが、ここではそれよりもっと地味な、日常の相貌について考えてみたいと思う。私にとってこの日常questo quotidianoはいくぶんゲームの――それもしばしば邪悪な種類の――ような様相を呈している。

枠(caselle)――まったく恣意的な秩序のために馬鹿げた権威によって規定され、神話や市場や仕分けによって既に形式化された枠――にはめ込もうとする手練手管に私たちは日々直面し、圧倒されている。歴史はあらかじめ定められた囲壁gironi prefissatiに、秩序の確立を告げるおぞましいリトルネロに満ちている。「プラハでは秩序が支配している」「ワルシャワでは秩序が支配している」「○○では秩序が支配している」……。その一方で、孤立や疎外を恐れることなく、ゲームのルールだとされているものを打ち破ろうとする試みも歴史の過程で日々繰り返されてきた。日常がわれわれに振るう強制力に私もまた、もっとも深い奥底からの抵抗の本能を駆り立てられる。新たな別の知性、新たな別の知識、新たな別の未知、新たな別の生の質への攻撃や暴力に対して、私はあらゆる危険を冒してでもたたかい続けるだろう。

 

中世以来、いや明らかにそれ以前もそして他の地域でも、「別様に考える人々quelli che la pensavano in altro modo」を厄介払いするもっとも古典的なやり方は、異端だの魔女だの狂人だのといった烙印を押して社会から排斥することだった。15世紀にドイツで書かれた諷刺文学を思い出そう――Das Narrenschiff、阿呆船。あらゆる港から拒絶された人々を乗せて、阿呆船は水域を放浪していく。さまざまな形に姿を変えて、阿呆船は現在に到るまで命脈を保ち続けている。その船になんと多くのポントルモが、シューマンが、ヘルダーリンが、グラムシが、ジョルダーノ・ブルーノが、ローザ・ルクセンブルクが、ルディ・ドゥチュケが、ウルリケ・マインホフが、アントナン・アルトーが、アンドレイ・タルコフスキーが、乗船を余儀なくされていることか! *1

Restagnoの質問の意図を少しばかりずらすことで、「私は日々どのような世界を生きているか」とでも言うべきなおいっそう普遍的なテーマにノーノは答えているわけだが、そこで示される世界像は、内実はともかくとして構造的にはムージルのそれとまったく同型といって過言ではない。

 

結局ノーノが述べているのも、「人類の全歴史にわたって、ある二分法が貫き通っている」ということである。ムージルの「通常の状態」に相当するものをノーノは「この日常questo quotidiano」と呼び、日常の裏面に潜在するもうひとつの世界をムージルと同じ「別のaltro」の語で呼び表す。

 

「この日常」の耐え難い堅さについてノーノは語っている。あまりにも多くの堅い枠caselle。あまりにも多くの堅い壁gironi。ノーノが最も嫌うもの、固定されたもので満ち溢れた、いや、水気を孕んださんずいへんの言葉はふさわしくない、固定されたものが林立する世界。いっぽう、日常を領する堅固な地盤が問いに付される別の世界には船が、阿呆船が浮かぶ。どうして別の世界の移動手段は船なのだろうか。「別の」世界だからである。上に掲げたノーノの発言は、じつは原典で36行に跨る滔々たる長台詞をかなり端折って意訳したものである。その長い原文の前半23行を、逐語訳するのでなく音楽的に鑑賞してみよう。

Quello che tu dici, e mi chiedi, può essere una delle cose più tragiche che io sento. Hai regione, lasciamo per un momento da parte tragedie immani che sono sotto gli occhi di tutti per considerare il volto quotidiano e dimesso del tragico. Per me questo "quotidiano" (caro, tragico Hölderlin, nella sua ribellione al "quotidiano") ha un po' l'apparenza di un gioco, spesso perverso: ti trovi davanti, o travolto, al tentativo di venir incastrato in caselle già sistematizzate da mitologie, mercati, classifiche, determinate da alcuni poteri pressoché di assurdo autoritarismo per un ordine totalmente arbitrario presupponente. La storia è piena di giorni prefissati, di appelli all'ordine, che risuonano come perversi ritornelli: "L'ordie regna a Praga", "L'ordine regna a Varsavia", "L'ordine regna a...", o "Attento ai rischi che corri", o allora "Peggio per te, non vuoi capire". Ma la storia è anche piena di tentativi per forzare, per rompere le cosiddette regole del gioco, fino a ribellioni, a rivolte, a nuovi cammini, anche di solitudine "quotidiana", malgrado possibili quotidiane emarginazioni, accuse che sono affannate autodifese di privilegi o di altrettanti ordini precostituiti, furbeschi travisamenti fino all alibi concesso e accettato da succube complice. Istintivo mi si scatena l'esser contro a questo quotidiano, con tutti i rischi possibili, contro chi (e quanti!) manipola i mass-media giornali e istituzioni varie, per una falsa cultura di massa (Ždanov ne sarebbe felice!), livellatrice di valori anche morali, totale offesa e violenza inquinante alla nuova altra intelligenza, a nuove altre conoscenze, a nuovi altri ignoti, a nuova altra qualità di vita.

 

二種類のリトルネロが歌声を競い合っている。ノーノが「おぞましい」と形容した第一の歌は、あらゆるものを石や氷のようにカチンコチンに固めてしまう、冷たい怪物メドゥーサの歌うテリトリーソングである。

L'ordine regna a Praga プラハでは秩序が支配している!

L'ordine regna a Varsavia ワルシャワでは秩序が支配している!

L'ordine regna a... ○○では秩序が支配している!

第二の歌を歌うのは、逆に万物を水のように流動化させるアンチ・メドゥーサである。彼女の歌のなかで何度も繰り返される特徴的なフレーズが altro(別の)だ。

alla nuova altra intelligenza 新たな別の知性への

a nuove altre conoscenze 新たな別の知識への

a nuovi altri ignoti 新たな別の未知への

a nuova altra qualità di vita 新たな別の生の質への

これは、メドゥーサの歌声が常に潮騒とともに送り届けられるのと同じことである。

 

ノーノの語彙のなかでaltro(altri / altra / altre)という言葉は、『ノーノ語辞典』 *2 巻末付録の「ノーノ基本単語10選」にも含まれるほどの、まさに特別な位置を占める一語である。... sofferte onde serene ... 以降のノーノの譜面にフェルマータが急激に増加するように、ノーノの文書や談話には70年代末ごろからこのaltroという形容詞が目にみえて頻出するようになる。アンチ・メドゥーサが歌っている、表現としてはややぎこちない印象すら受けるaltroの執拗な連呼は、80年代ならではの典型的なノーノ節だ。

 

『ノーノ語辞典』のaltroの項の説明によると、ノーノのaltroは基本的に水の世界の語彙だとされる。忌まわしい「固定」の対義語であり、愛すべき「動的」の類義語であり、可変性を表す言葉。ノーノにとってこれらの三要素は総じて水の属性である。ヴェネツィア本島南岸ザッテレの岸辺の、玄関先にまで波の打ち寄せてくる家で産まれた本物の海の作曲家であるノーノは、水(液体)の高度な流動性がもたらすものは均質化ではなく不断の変容であると、当然のごとく心得ていた。あらゆる海面が奏でる尽きることのない波のしらべが、ノーノの耳にはこう聞こえるのだ。

...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...

絶えず別様に変化してやむことのない、水のリトルネロ。altroの語がこだまする場にはどこでも必ず喚び起こされる水のイメージの上に、船が浮かぶ。ムージルが「昼と夜ほど違っている」 *3 と形容した二つの世界の対比をノーノ流に翻案するとしたら、「陸と海ほど違っている二つの世界」とするのが最もふさわしいだろう。

 

ノーノと同じく本物の海の作家であるハーマン・メルヴィルは『マーディ』のなかで、「any future cast away or sail away 将来の棄てられし者 、それとも海に去りし者」 *4 のために航海の秘訣を授けていた。海は一面において逐われし者の、一面において逃れし者の赴くところだ。たとえば『白鯨』第112章の鍛冶屋のパースのような。

果てしなくひろがる無限の太平洋の無数の芯から、人魚らが歌い掛けてくる。「ここへお出でなさい、心ずたずたにされた人よ、死ぬという罪の仲介なしに新しい生に出会うことができる場所はここ、ここは死ぬことなしに、世界を越え、驚異に出会うことができるところ。ここへお出でなさい!ここに来て、自分を新しい生に埋めなさい。憎悪し、憎悪されて過ぎ去る陸の生を忘れさせること、死よりはるかにまされるこの新たな生に埋まりなさい。さあ、早くお出でなさい、教会の墓地に自分の墓石を立てて、そちらでは死んでしまったことにして、こちらにいらっしゃい。結婚しましょう、このわたしたちと!」海からの声が、東からも西からも、夜明けにも夕暮れにも、耳もとに寄せてくる。鍛冶屋の魂は応えた、ああ、行くとも! (千石英世訳)

あるいは、「陸上には何ひとつ興味をひくものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった(阿部知二訳)」イシュメイル。かれら海の人間が、かれらにとっての阿呆船であるピークォド号に乗り組むべく目指したナンタケットのような港町は、ノーノが見つけた舗石の下の「別の海」には構造的に存在し得ない。

 

着想から初演まで約10年に及ぶ、Prometeoへの紆余曲折の道のりの途中では、聴衆を船に乗せてヴェネツィアの海へ漕ぎ出そうという、おそろしく壮大な「水上の音楽」が一時期検討されたこともあったらしい。

塔を、鐘楼だけを音源として用いる ということも考えていました。中世にあるのと同じ楽器を使うわけですが、ただしここではスピーカーが加わります。サン・マルコの船着場一帯――つまりサン・マルコとサン・ジョルジョのあいだの大運河ですね――に音が鳴り響くことになります、水を巨大な共鳴体として。まあ突拍子もないアイディアです。聴衆は船に乗って、さまざまな地点から音を聞くのです。 *5

このイカれたアイディアは、結局のところ半分までは実現した。聴衆および奏者を収容する木製の巨大な船はレンゾ・ピアノの設計で実際に造られたが、船が浮かべられたのは海の上ではなく、1984年ヴェネツィアでの初演の際は教会の、翌年のミラノでの再演では廃工場の中であった。

 

その船は、ほぼ立方体の外形がいかにも箱船然としているとともに、素朴な木のつくりは遠い神話の時代の海の英雄(オデュッセウスやアルゴナウタイ)の船を彷彿とさせるところもあるが、レンゾ・ピアノの設計計画のスケッチにはもうひとつ、それらとは別の船の名が記されている。nave dei folli the crazy ship すなわち、阿呆船である。 *6

 

だから、誤解してはいけない、Prometeoの船は、本来海に浮かべられるべきだったものが、現実的な諸事情のために進水式も執り行われないまま陸地に据え置かれていたのではなくて、そこが現実に陸であるか海であるかに拘わらずどこにでも存在するあの「別の海」の洋上に航跡を引きつつ、始まりも終わりもない象徴的な大航海をつづけていた(る)のである。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 42.

*2:出村新『ノーノ語辞典(増補改訂版)』、民明書房、2258年

*3:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「ウルリヒと二つの感情の世界」

*4:メルヴィル『マーディ』第14章、坂下昇訳

*5:Albrecht Dümlingとの対話のなかでの発言。Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226, p.212

*6:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 206.