断ち切られない歌 中篇の下 9/16
マンフレッドの152
「私の音楽は空間とともに書かれるものである」 *1 と言うノーノは、その言葉のとおり、1984年ヴェネツィア、サン・ロレンツォ教会でのPrometeo初演につづく翌85年のミラノでの再演にあたって、ミラノの演奏会場(Ansaldoという重機製造会社の廃工場)の音響特性に合わせたスコアの大幅な改訂を行っている。その際新たに付け加えられた要素の一つが、シューマンの『マンフレッド序曲』冒頭の一小節の引用であった。 *2
それがVersione 1985のPrometeoに初めて出現するのは、210小節 *3 からなる序章Prologoの終わり近くの第202小節である。
ノーノがマンフレッド序曲第1小節からPrometeoへと移植したのは、リズム、ダイナミクス、テンポの3つの要素である。原曲の和音構成は継承されていない。リズムとはすなわち、シューマンが八分音符を2つずつタイでつなぐ書き方で表現しているシンコペーションのことである。ダイナミクスとはクレッシェンド(原曲ではフォルテからの)のことである。そしてテンポとは、Rasch (急速に)の横にシューマンが書き添えたメトロノーム記号の「四分音符=152」である。
シューマンの譜面
Lydia Jeschkeは、Prometeoのなかにマンフレッドの引用箇所を計10箇所(9+1箇所)特定している。 *4 Prologoで1箇所、Isola Seconda a) Io - Prometeo で5箇所、Stasimo Primo で3+1箇所。シューマンの原曲では dah-dah-dah という激しい三連打がなんといっても印象的だが、この特徴は初回と最後の引用でしか再現されていない(他は単発のdah、もしくはdah-dah)。和音も異なれば三連打でもないものを、ではなにをもってマンフレッド序曲からの引用だと同定することができるのか。決め手となるのは、メトロノーム記号の数の一致である。
番号 | テンポ | 所在 | 開始時刻(col legno盤 / EMI盤) |
---|---|---|---|
I | 152 | Prologo 202小節 | 19:16 / 19:10 |
II | 152 | Isola Seconda a 26小節 | 02:47 / 02:38 |
III | 152 | Isola Seconda a 66小節 | 06:25 / 06:08 |
IV | 152 | Isola Seconda a 104小節 | 10:08 / 09:34 |
V | 152 | Isola Seconda a 107小節 | 10:31 / 09:53 |
VI | 152 | Isola Seconda a 110小節 | 11:00 / 10:17 |
VII | 152 | Stasimo Primo 29小節 | 03:26 / 03:05 |
VIII | 152 | Stasimo Primo 35小節 | 03:59 / 03:34 |
IX' | 63 | Stasimo Primo 38小節 | 04:31 / 04:02 |
IX | 152/63/152 | Stasimo Primo 41~43小節 | 05:05 / 04:29 |
みてのとおり、10箇所すべてのテンポが出典元と同じMM = 152である、と思いきや、2箇所に63という別の数が混ざっているが、これはマンフレッド序曲2小節め以降のLangsamにシューマンが付したメトロノーム記号に由来する数である。Prometeoの全体を見渡してみても、この二つの数は以上の10例しか出てこない。Prologo、Isola Seconda a) 、 Terza/Quarta/Quinta Isola では、混同を防ぐためだろうか、63を1だけずらした MM = 64 のテンポが用いられている。つまりPrometeoの譜面上で152および63という数は、速度を表示する量的側面と、マンフレッドのために割り当てられたIDとしての質的側面の両方の性格を兼ね備えているのだ。
1985年のミラノ版において後から付け足されたものだとはとても信じられないほどに、マンフレッドはPrometeoの劇的構成のなかにごく自然に組み込まれている。
Non sperderla=「それ(かすかなメシア的力)を失ってはいけない」という台詞とのあいだにマンフレッドが取り結んでいる裏表の関係が大きな鍵である。Prologoの末尾、マンフレッドの dah-dah-dah が初めて鳴りわたり、直後にNon sperderlaという言葉が初めて歌われる。Stasimo Primo(全64小節)の終盤の41~43小節をもってマンフレッドは打ち止めとなり、続くInterludio primoの冒頭で、Prologoの末尾以来ずっと沈黙していたNon sperderlaが再び歌われる。
Manfred - Non sperderla ―― Manfred - Non sperederla
マンフレッド初登場の経緯をさらに詳しくみてみよう。Prologoは、ソロ歌手がソプラノ、アルト、テノールの三人体制をとっている前半部と、ソプラノ二人の後半部とに二分される。「ガイア」の歌声とともに始まる前半が原初の混沌の相だとすれば、後半部のテーマはカッチャーリが『必要なる天使』で書いていたような原初の分離divisio primaevaである。
あの瞬間において、宇宙の対極が切り離されるだけではなく(絶対の悪と完全な愛)、より深く神秘的なもうひとつの切断が起こる。すなわち人間の決断の時間、生成し変容する時間と、あらゆる天使の永遠の現在とが分離するのである。まるで共に連れ立って罪の探求に向かった天使と人間が、互いに理解しあえないほど異なる時間的次元のなかで最後の日を待つかのように。 *5
分離の相は、声と器楽の対比というかたちで具現化される。ソプラノ、アルト、テノールからソプラノ2人への移行によってさらに浮力と透明感を増した「天使的な」歌唱と、重力のくびきに繋ぎとめられたような重苦しい響きの「人間的な」器楽、これら二つの要素が交互に現れる構成。マンフレッドは器楽の系列の終端に現れ、それに対する呼びかけの声――いわば天使が別れ際に残した最後のメッセージ――がNon sperderlaである。
マンフレッドの終わりはInterludio Primoの始まりである。Interludio PrimoがPrometeo全篇の要だということは、ノーノ本人だけでなく、André Richardが、Hans Peter Hallerが、Jürg Stenzlが、皆が口を揃えて言っていることだ。その意味は、ノーノがPrometeo制作の初期に書いた全体構成のラフスケッチを見ればよく理解できる。
※ 文献 *6 に転載されているノーノの図を簡略化したもの
この段階では、古代ギリシャ悲劇の筋立てとの類似性が一瞥してみてとれると同時に、ノーノがつとに好む対称性のかたちが明瞭に表れている。鏡像をなす前半部(序章PROLOGO+3章)と後半部(3章+終章ESODO)のあいだ、全体のちょうど中央の位置に置かれるのが間奏曲(Interludio)である。 FINE DRAMMA INIZIOというノーノの添え書きは、ここで終わりを迎えるドラマがあり、なおかつ、ここから新たに始まるドラマがあるということを表しているのだろう。
Prometeoの構成はその後各章が「島」になって群島化し、大幅な変貌を遂げたが、基本的な骨格は初期構想のまま維持されているとみてよい。完成形においてもInterludio Primoはやはり、Prometeo全曲の対称軸なのである。
- Prologo, Isola 1, Isola 2a, Isola 2b, Isola 2c (= Stasimo 1)
- Interludio 1
- 3 voci a, Isola 3-4-5, 3 voci b, Interludio 2, Stasimo 2
上の図式に照らし合わせてみれば明らかなように、マンフレッドの登場場面はPrometeoの前半部を正確に縁取る格好になる。Non sperderlaとNon sperderlaのあいだに挟まれてもいる前半部の内容をごくごく大雑把に要約すれば、かすかなメシア的力を喪って地上をさまよう者たちの群像劇、といったところだろう。マンフレッドとは、この「苦悩に満ちた」Prometeo第一部のイメージ・キャラクターのような存在だと言えるかもしれない。
ここで再びメトロノーム記号に目を向けてみよう。Interludio PrimoにおけるFINE DRAMMA INIZIOの劇的展開に対して、これに呼応する劇的な数の変化が五線譜の余白で生じている。Stasimo Primoの終盤で鳴り止むマンフレッドのMM = 152から、Interludio Primoの冒頭に回帰してくるNon sperderlaのMM = 30(Interludio Primoは全篇がMM = 30)への、152→30の推移である。このことを念頭に置きつつ、マンフレッドの小節の後のテンポの遷移の一覧を眺めてみると、
番号 | テンポ | 次小節のテンポ | 所在 |
---|---|---|---|
I | 152 | 30 | Prologo 202小節 |
II | 152 | 30 | Isola Seconda a 26小節 |
III | 152 | 72→30 *7 | Isola Seconda a 66小節 |
IV | 152 | 44 | Isola Seconda a 104小節 |
V | 152 | 30 | Isola Seconda a 107小節 |
VI | 152 | 64 | Isola Seconda a 110小節 |
VII | 152 | 44 | Stasimo Primo 29小節 |
VIII | 152 | 30 | Stasimo Primo 35小節 |
IX' | 63 | 30 | Stasimo Primo 38小節 |
IX | 152/63/152 | 56 | Stasimo Primo 41~43小節 |
4/9ないし5/9の割合で、152の次に来る数は30になっている。先ほどの152→30がドラマをなぞる動きだとすれば、これらの152→30はドラマを先取りする動きである。この長大なるTragediaの中間点で決定的な潮目の変化が訪れることは、音符の通り道の傍らに佇むメトロノーム記号の寡黙な数が演じるパントマイムによって、既に前半部の早い段階から予告されていたのである。
マンフレッドの152の相手役を務めている30とは、それでは一体何者だろうか。マンフレッドとの絡みに限らず、Prometeo全篇のあちこちにいかにも意味ありげな仕方で登場し、Prometeo後のほとんどの作品の基準テンポの座に収まっている、この30という数。 多くの機械式メトロノームの最低値である40よりもなお遅いテンポを使おうというときに、たしかに30はごく自然な選択肢のひとつであるし、あるいはまた、こういうキリのいい数のほうがライヴ・エレクトロニクスとの同期をとりやすいといった現実的な理由ももしかしたら背景にあるのかもしれないが、とはいえ、その程度の説明で済ませるにしては、ノーノの30推しはあまりにも徹底している。振り返ってみると、1980年初演のFragmente - Stille, An Diotimaでは、序盤にMM = 36とMM = 72の二つのテンポの交替によって曲が進行していくような局面もあった。あの頃はまだ、30より大きく40よりも小さい別の数の出る幕も残されていたのである。Prometeo後にはもはやそういうことも全くなくなり、30の完全なる寡占状態が出来する。万事においてものごとの固定を嫌うノーノが、こうも判で押したように同じテンポを使いつづけるのはまさに異例のことで、30という数がノーノにとって単なる量でないことを強く示唆する証拠だとみることができる。ノーノにそこまでの思いいれを抱かせるに足る30の象徴性とはなにかと考えると――ジョルダーノ・ブルーノの30しか思い当たるふしがない。
丘の上の漂泊者
30と152という、二つの質的に異なる象徴数を介して、ジョルダーノ・ブルーノとマンフレッドという二人の人物がPrometeoの作品世界に参入してくる。かれらはひとことで言えばともに「漂泊者」であるから、Prometeoに何人も登場する漂泊者の系譜のどこかに位置づけられることになる。カッチャーリが編纂したリブレットに直接引用されている人物に絞って登場順に並べると、
この骨格に肉付けしていくことによって、Prometeoの作品世界を俯瞰する一葉の地図ができあがる。
※岸由二『いのちあつまれ小網代(木魂社)』巻頭の地図への落書きによる
上の地図の全般にわたる解読は来たるべきPrometeo論の日にとっておくとして、いまここでの本題に関わる要点にだけふれておこう。第5島のニーチェのDer Wandererが歩いている高台から見下ろすと、東西の両方向に海がひろがっている。西はムージル『特性のない男』のウルリヒとアガーテの「愛の海」、東はジョルダーノ・ブルーノの「無限の海」である。
西の海は、Prometeoのリブレットの一角をなすIl maestro del giocoという詩――これは基本的にヴァルター・ベンヤミンのテキストを下敷きにしている――の第X連末尾に、「愛の海」を語るウルリヒの台詞の要約的抜粋をさりげなく忍び込ませることによってカッチャーリが、東の海は、30というメトロノーム記号のこれまたさりげない象徴的使用によってノーノが、それぞれの思惑にしたがいこの世界に導きいれた海である。
眼下に横たわる東西の海は遠目には互いによく似た大海原であるが、ひとつここからでもはっきりと分かる相違点がある――そう、船影のあるなしだ。幾筋もの航跡が交錯する東のブルーノ=ノーノの海とは打って変わって、西のムージル=カッチャーリの海の洋上には、五時代説話の黄金時代の海のように、船らしきものの姿がただの一艘も見当たらない。これは二つの海のしきたりの違いによるものである。
海岸ではたいてい何かしらの立て札を見かけるものだ、遊泳禁止だとかくらげに注意だとか、この海であわびやとこぶしを採取することは禁じられていますだとか。西の海の海岸にもやはり立て札があって、そこにはこう書かれている――「おお愛の海よ、それを知るのは溺れるものだけで、その海上を船でゆく者ではない!」。 *8 この静かなる大洋に船を繰り出し、海面に航跡の傷をつけてまわるような輩は、帰航した途端必ずや懇々とお説教をされる羽目になるだろう、意欲的すぎる意志があなたの邪魔になっているのです、云々と。
東の海の海岸の立て札には全く別の文句が書かれている。
Caminantes no hay caminos hay que caminar
端的に言ってこれは航海者のための心得である。この波立ち騒ぐ大海のほとりで、何をするでもなくただボーと瞑想に耽っているような輩はたちまちケツを引っぱたかれ、熱い一喝を浴びせかけられることになる、平和な原理からは何一つ生じることはありませんよ、云々と。
カッチャーリが描いたPrometeoのシナリオにブルーノ的な要素を持ち込むノーノの翻案によって生じた、西と東の対照的な世界観のせめぎあい、これは、カッチャーリとノーノという二人の個性がそこにおいて交差する共作ならではの、Prometeoの大きなみどころである。だがそのへんの話をするのはまだだいぶ先のことだ。今のペースでいくといったいいつのことになるやら、来年か、それとも再来年か……などと行く先をブツブツと案じつつ、ニーチェの高台を後にして、東の海へとつうじる斜面の小径を、下草をガサガサとかき分け進んでいく。径を降りきった先の海岸で出迎えてくれるのは例の立て札である。
Caminantes no hay caminos hay que caminar
さてどうしようか。東の海の来訪者にここでの作法を教えてくれる親切な立て札の文句に神社の由緒書きみたいな説明文をつけることで、ブルーノ=ノーノの海の自然誌の第1章とすることにしようか。
*1:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.
*2:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 143-155.
*3:先ほど述べたように、Prologoではオーケストラ・声と独奏奏者群の2種類のテンポが並走している。テンポが独立ということは必然的に小節数も異なる。210はオーケストラと声の場合で、独奏奏者のほうの総小節数は153。
*4:Lydia Jeschke (1997), p. 150.
*5:マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、93頁
*6:Lydia Jeschke (1997), p. 94.