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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ジュデッカ運河 2/2

ジュデッカ運河の空隙を充たすライヴ・エレクトロニクスの音響は、一般的に次のような機序をとおして発現される。

 

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記銘

まず第一に注目すべき点として、この作品では四人の奏者の演奏音が5つのマイクロフォンで捕捉されるが(フルートのみは歌口と管の末端付近の二箇所にマイクが設置される)、それらはただちに一つに合流し、そのうえでその後の処理に回されるようになっている。必ずしもすべてのマイクロフォンが常時ONになっているわけではないが、いずれにせよ、捕捉された音響はつねにひとつのまとまりとして、一律に音響加工に供されるのである。もったいないという印象を受けるかもしれない。せっかく5つものマイクを使っているのだから、それぞれ別の回路で処理してやれば、産み出される音の可能性もずっとひろがるはずなのに。実際に、ノーノのほかのライヴ・エレクトロニクス作品ではそのようなしくみになっている場合もある。だがOmaggio a György Kurtágの場合は、こうした一括処理こそがふさわしいものと私は考える。

 

Omaggio a György Kurtágにおいてライヴ・エレクトロニクスはふた通りに使われている。ひとつは、特定の音にリバーブをかけるという、より単純なもので、作中に10回現れる。リバーブのかけられる音符にはフェルマータがついており、また音符の後ろには休符もしくはコンマ記号をしたがえている。したがってこれは、島の内部を走る小運河に音を谺させるしくみだと言うことができる。いっぽう、島と島のあいだに横たわる海=ジュデッカ運河に鳴り響く音を生成しているのが、上に模式図を示した、より複雑な音響処理機構である(なお、11あるジュデッカ運河のうち、3番目に現れる約8小節の総休止のみは、直前の演奏音にリバーブをかけるという単純な方法で音をつくっている)。<<海は共同の「胎内」といっていいもので、みなのものであり、かつ誰一人のものでもない>>――群島を取り巻く海についてそう語ったのはカッチャーリであった。 *1 ノーノも言っているように、島と島のあいだの空間は、そこで陸からのさまざまなシグナルが重なりあい、交錯し、融けあっていく場である。陸地では自明のことのように通用している、人声とフルート、クラリネット、チューバの截然とした区別は、水の力に侵されたとき、不可避的に消失へと向うはずだ。海に注ぎ込んだ4つの川が、海の中でなおも独立した流れを保ち続けるというのは非現実的だろう。だからこそ、5つのマイクロフォンが捕捉した「陸」の演奏音は、水の原理にしたがって一つにまじわり、渾然一体となって、「共同の胎内」であるところの昏いelectric oceanへと送り込まれていくのである。

 

保持

さてこの電子の海では、あらゆるものを捉えて離さぬ恐るべき大渦巻が流入してくる音を待ち構えている。それこそが、ライヴ・エレクトロニクスの記憶機構の心臓部である。入力された演奏音には3秒のディレイがかけられ、ディレイのかかった信号が再び入力側に送り返されて、その時点で新たに入力されてきた演奏音と合流し、その音にまた3秒のディレイがかけられ、入力側に送り返され………以下同様の繰り返し。時の線的な継起を渦状の旋回運動に変換する、3秒周期のフィードバック・ループからなる「回転式」の記憶保持装置である。この記憶は一面において、シグナル(音)を圧縮する。上の楽譜の例でいえば、エレクトロニクスへの入力時間がおよそ12秒であるから、たとえば入力開始時の演奏音と、3秒後、6秒後、9秒後、12秒後の音は、環状をなす記憶の同一部位に堆積した状態で記銘されることになる。したがってこれは圧縮であると同時にシグナルの混淆でもある。こうした様態をとる記憶のなかでは、もとの演奏音の有する輪郭も、脈絡も、少なからず不明瞭になり、結果として音がいくぶんか水に似た性質を帯びてくることは避けられない。

 

想起

機器の内奥で渦を巻き滞留していた音響は、やがて時が来れば想起=出力されるが、その際に、あたかも想起の過程そのものが記憶の変容を不可避的に招くのだとでもいうかのように、さらなる音響加工が加えられる。4とおりのプログラムがあり、うち2つはピッチシフト(1オクターブ下もしくは三全音下へのシフト)、一つはバンドパスフィルタ、残る一つがハラフォンである。

 

このうちバンドパスフィルタとピッチシフトは、3秒周期のフィードバック・ループへの圧縮/混合の段階ですでにある程度生じていた音の非人称化(聞こえてくる音がもともとなんの楽器に由来するのかが判然としなくなる事態)をいっそう進行させる効果をもたらすものである。ピッチシフトは、それ自体としては音の高さを変える操作であるが、波形データを大胆にいじることになるので、副産物としての音質の変化を必然的に招いてしまう。Omaggio a György Kurtágで最初に現れるジュデッカ運河のためのライヴ・エレクトロニクスは1オクターブ下へのピッチシフトを行うタイプであるが、アルトの歌う付点二分音符の<<U->>という持続音のみを入力源としている。テンポは「四分音符」=60なので、付点二分音符の長さはちょうど3秒。したがって、フィードバックによる音の重なり合いは生じていない。ただループ状につなげた音に対し1オクターブピッチを下げる処理を施しているだけである。にも拘わらず、出力された音を予備知識なしで人の声だと見抜くのは既にかなり難しい(どちらかというとクラリネットの音のように聞こえる)。単純なピッチシフトだけでも、音の素性は相当に怪しくなってしまうものなのだ。

 

通常これはピッチシフトの抱える悩ましい問題であるが、おそらくOmaggio a György Kurtágの場合はむしろ逆にそれが狙いなのだろうと思う。「みなのものであり、かつ誰一人のものでもない」海にふさわしい音――所属の定かでない、どこの馬の骨とも知れぬような匿名の音をつくりだすためのひとつの方途として、ピッチシフトの「副作用」を敢えて逆手に取ろうということである。ノーノがOmaggio a György Kurtágの楽譜の五線譜の各段の左端に楽器名ではなく奏者の名前を書き込んでいることを考えると、この場合の匿名化とは比喩ではなく本当のことであって、Susanne Otto、Roberto Fabbriciani、Ciro Scarponi、Giancarlo Schiaffiniの4人の奏者の名前がライヴ・エレクトロニクスの音響操作をへてしだいに消えていくのである。この作品が初演されてから既に30年近い月日が流れ、ピッチシフトの技術も長足の進歩を遂げたに違いないが、「音質の劣化をもたらすことなく、自然なピッチシフトを実現できます」とうたっているような、あまり性能のよいピッチシフターはかえってここでは使わぬほうがよいのだろう。

 

いっぽうハラフォンは、音に(水のような)流動性を与える装置である。ハラフォンによって音が空間を動くとは具体的にどういう原理かというと、演奏会場に複数設置されたスピーカー(Omaggio a György Kurtágの場合は6個)から音が再生される、その時空間的パターンを制御することで、擬似的に音がうごいているような感覚をつくりだすということである。単純な例として、部屋の四隅に置かれたスピーカーから順に音を出力すれば、部屋を音が旋回しているかのように聞こえる。ここでスピーカー間の音の受け渡しをさらに細かく調整して円滑なものとし、より自然な運動感を再現するのがハラフォンである。Omaggio a György Kurtágのハラフォンの特徴は、1つのシグナル(音)が同時に3つの異なる運動へと分化する点である。2つは時計回りの運動、1つは反時計回りで、回転速度もそれぞれに異なる。結果として、なにか音が空間を動いているようだけれども、具体的にどう動いているのかがよく掴めないという不分明の感覚を聴衆は味わうことになる。ここに端的に顕れている、「単一の音」からひきだされる多様性の問題は、このあとに続くUn unico SuonoおよびCon Luigi Dallapiccolaの項でさらに詳しく議論することにしよう。

 

健忘症

Omaggio a György Kurtágのジュデッカ運河のリズムは最終盤になって変調を来たすようになる。138小節から140小節にかけての10番目のジュデッカ運河(3小節の総休止)にはライヴ・エレクトロニクスがつけられていない。したがってこの総休止は、楽譜でみたとおりの、本当に音のない沈黙である。いままで海のざわめきの下に隠されていた沈黙の層が、ここに来て不意に露になる。MONTAIGNE盤のCDでは15m36s-49s、NEOS盤では15m42s-55sにかけてのできごとである。そのすぐ後の、141小節から145小節にかけて現れる11番目のジュデッカ運河に対しては、通常どおりライヴ・エレクトロニクスが作動する。ところがこのライヴ・エレクトロニクスは、フィードバックがオフになっている。フィードバックはライヴ・エレクトロニクスの記憶回路のまさしく心臓部であって、これがはたらいていないと、音の記憶の保持ができなくなる。フィードバックが切れているということは、いうなれば記憶障害をおこしていることと同義なわけだ。この場合、演奏音が鳴り止めば、出力されるライヴ・エレクトロニクスの音も速やかに途絶えてしまうため、ふたたび沈黙の露出を許すことになる。それがMONTAIGNE盤の15m59s-16m09s、NEOS盤の16m04s-18sで聞かれる無音状態の持続である。

 

外縁

11番目のジュデッカ運河を渉り終えると、残るはあと5小節。148小節と最終149小節の演奏音に対して、最後にもう一度ライヴ・エレクトロニクスが、こんどはちゃんとフィードバックも伴った完全な状態でかけられる。このライヴ・エレクトロニクスは、いままでのような運河の空隙にではなく、五線譜の最後の二重線を越えたさらにその向こう側のひらけた空間に、ゆっくりとフェードアウトしていく茫洋たる響きの海原/ラグーナをひろげてみせることになる。音楽のおしまいになにか海のようなものが横たわっているという構図は、遡れば1962/63年のCanciones a Guiomarの結尾に出現する合唱の海にまで行き着くものであり、ライヴ・エレクトロニクス作品の先例としては、Guai ai gelidi mostriやPrometeoのTre voci aにおいて、五線譜の大地の突端から電子音響の海のうねりを望むことができる。

*1:マッシモ・カッチャーリ「群島としてのヨーロッパ」、『現代思想』2002年8月号、八十田博人訳

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