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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 7/8

Risonanze erranti

うわべ

寡黙な音楽――それがRisonanze errantiの第一印象である。

Time and again the sharp strokes of the bongos, the gentle sounds of the crotales and the mysterious Sardinian bells seem to vanish into broad expanses and long pauses between fragmentary islands of sound.

――Jürg StenzlによるNEOS盤CDの解説より

Jürg Stenzlが定石どおり島に喩えた疎らな音を、カッチャーリがthe perfect silence of the last few Lieder *1 と評した、ときには10秒にもわたる空隙が隔てている。沈黙の海に浮かぶ音の島という見立てが、「断片と静寂」の名を冠したかの弦楽四重奏曲以上によく似合うのがRisonanze errantiである。この多島海の眺望が、ひとつながりの長いモノディを徹底的に解体/断片化することによってもたらされたものであるということは、先にみてきたとおりである。

 

音から言葉へと眼を転じても、初見の印象に変わりはない。テキストの三つの要素であるメルヴィル、バッハマンの詩、そしてシャンソンのこだまは、下に示したように、それぞれ11、6、13の短いセクションにこまぎれとなって現れる。

 

1 1 1 2 2 3 3 4 4 5 2 5 6 6 7 7 8 8 9 9 3 10 10 11 4 12 5 13 6

■ Melville

■ Bachmann

■ Eco

 

個々のセクションを拡大したときみえてくるのも、やはり同様の光景だ。たとえば冒頭のメルヴィルのセクションであれば、

...tempest bursting...

waste...Time

...behind...we feel...

...my country's ills...

hope fairest...Sweep storming...

といった具合で、歌われるのは連続した詩行ではなく、もとの詩の脈絡から抜き取られたいくつかの断片的な語句のみである。オリジナルの詩を「Lyriktrümmer詩句の残骸」へと完膚なきまでに粉砕してしまう、いつもながらの「まさに破壊的な」テキストの扱い方だとJürg Stenzlは述べている。*2

 

だが気をつけなくてはいけない、これらの断片化の諸相が示しているのは、Risonanze errantiのあくまで一面である。ノーノの音楽の基本モデルとしての<<Il canto sospeso>>、すなわち、断片性と連続性を同時に体現している歌を、「断ち切られた歌」と言うだけでは十分ではないのだ。「断ち切られた歌」は、視点次第で「宙に漂う歌」にもなれば「包み込む歌」にもなる。ベッリーニの音楽にさえ大海原のようなひとつの広大な連続性une vaste continuité *3 を幻視する、あの並外れた連続性への直感は、ノーノのあらゆる作品に滲みわたっているものと心得ておかねばならない。Risonanze errantiのことをノーノはなんと呼んでいただろうか。Liederzyklus(連作歌曲)である。この副題はもちろん伊達につけられているわけではない。Liederzyklusの意味するところは、まったく字義どおりに受け取って然るべきだろう――脈絡を奪われた音と言葉が散在しているかにみえるこの「断ち切られた歌」に、季節がゆるやかに推移していくかのような、zyklusの名にふさわしい連続性の要素が伏在していることを告げる標として。

 

したがき

沈黙の海に浮かぶ音の島、などといった決まり文句には収まらないRisonanze errantiの別の姿とは、結局のところどういうものなのか。とりあえず一枚の絵に描いてみることにしよう。

f:id:dubius0129:20160512002619p:plain

 

まるでよくできたチャーハンのように諸要素がパラパラと分離した状態があるとして、そこになんらかの連続性を導き入れる方途はふたとおり考えられる。流れを喚び起こすか、あるいは硬直化を進行させるか。言い方を変えると、群島をいっそう海洋化するか、もしくは陸化するかの選択である。

 

連続性 ← 流動化(海洋化) ← 断片性(群島) → 硬直化(陸化) → 連続性

 

たとえばベッリーニに対するノーノのアプローチは、左向きの流動化/海洋化の系列の典型的な例に属している。要するにノーノはベッリーニの歌を、呼吸という途切れることのないひとつの流れとして捉えたのだった。それによって音と沈黙をひとしく流動の相のもとにおき、「あらゆる可能な海のうちで最も倹ましい海」とリルケが呼んだ呼吸の波の絶えざるうねりへと、ベッリーニの歌を「海洋化」させたのである。

 

いっぽう、定まった形と体積をもつ固形物の扱いに長けている陸の人間は、まったく正反対の陸の方角に、連続性へと通じるルートを見つけだす。ばらばらの断片を繋ぎ止めて整序し、一筋の確固たる脈絡をとおすというやり方である。先のケースとは逆に、ここでは流れを抑制すること、あるいは流れを制御し秩序づけることが、連続性を生起させるうえで欠かせない前提条件になる。

 

じつはRisonanze errantiは、この二つのタイプの連続性をどちらも蔵している、二重の意味でのLiederzyklusである。群島から遠ざかろうとする力が左方向にも右方向にもはたらくおかげで、島影はしだいに霞んでいき、

 

流動化(海洋化) ← 断片性(群島) → 硬直化(陸化)

 

そしてそれに換わって浮かび上がってくるのが、上に掲げた絵のような光景というわけだ。

 

Risonanze errantiのこうした構造を把握するにあたって大きな手助けとなってくれるのは、歌詞である。その全貌は別稿に示したとおりだが、さて、この断片的な語句の羅列をどう読めばいいのだろう?Il canto sospeso (1955-56) をめぐるノーノとシュトックハウゼンの論争の頃から言われているように、ノーノの音楽において歌詞が果たす役割は、一篇のテキストとして文意をどう掴むかだとか、個々の単語が聞き取れるかといった次元ではかれるようなものではない。断片化という操作は、さまざまな新しい関係、関連を生み出すための一種の「結合術」だと、かねてからノーノは強調している。歌詞の三つの素材――メルヴィルの詩、バッハマンの詩、シャンソンのこだまは、ただ無秩序にこまぎれにされ紙上にばら撒かれているのではなく、歌詞において再構成され、新しき星座をかたちづくっているとみるべきなのだ。歌詞に関して本当に読まなければいけないことは、ノーノがさまざまな出典から引用してきたいっけん雑多な断片が、一つの舞台の上で相互にどのような関係を取り結んでいるかという点にある。ひとたびそのような視座にたってみると、Risonanze errantiの歌詞が具えている明快な構造を看取することは容易である。

 

配役:

  1. シャンソンのこだま=海
  2. メルヴィルの詩句=船
  3. バッハマンの詩句=鯨

 

A

シャンソンのこだまは、端的に言ってRisonanze errantiの海であり、音楽に対しては、先に掲げた図式の左側、流動化/海洋化へ向かう傾向を発現に導く媒体として機能している。

 

流動化(海洋化) ← 断片性(群島) → 硬直化(陸化)

 

こだまについて知っておくべきもっとも大切なことは、歌詞のなかでは断続的に出現するこだまが、見かけとは裏腹に、ひとつの大海原を、ノーノがベッリーニの歌にみいだしたような、une vaste continuitéをなしている点である。上の絵に書き込んでおいた「四分音符」=30のテンポは、こだまの連続性を証しだてる有力な手がかりの一つである。

 

B

こだまの海原に対して、その上を渉っていく船にあたるのが、メルヴィルの詩句である。それがいくつもの島ではなく一艘の船だとみなされるのは、メルヴィルからの引用語群が、群島のように海の上に散在しているのではなく、海の上を伸びていく一本の線で結ばれているという事情によっている。deathの語を終端とする明確な方向性を有し、陽に曝された甲板や帆柱のように堅く乾いた手触りを湛えた、堅牢な線。シャンソンのこだまとは逆に、メルヴィルの船は、右方向の、硬直化/陸化へと向かうベクトルが発生する座である。(メルヴィルは『白鯨』のなかで、船とは(海に浮かぶ)「陸の断片」だと言っていた)

 

流動化(海洋化) ← 断片性(群島) → 硬直化(陸化)

 

なお、歌詞のなかにはただ一箇所だけ、上記の線=船に属していないメルヴィルの詩句片が混入している。上の絵では上空から差し込む一条の光として描き表している(全然そう見えないかもしれないが、黄色い矢印は一応光芒のつもりで描いている)この例外的な語句、but look...harkが出現する特異点は、Risonanze errantiの全篇をとおしてもっとも劇的な瞬間である。

 

C

バッハマンの詩句はさしあたり、海に浮かぶもう一艘の船の趣を呈しているようにみえる。そこでメルヴィルとバッハマンの二艘の船の関係を整理してみると、次の二点に要約される。その1、歌詞の、ひいては音楽の主軸をなしているメルヴィルの船は、終盤に現れるdeathの語を最後として、洋上で難破してしまう。その2、バッハマンの「船」は、中間部においても何度か片鱗を覗かせはするものの、本格的に視界に浮上してくるのは、メルヴィルの船が消滅したあとの、death死とVerzweiflung(絶望:これはdeathの直後のバッハマンの最初の詩句)を踏み越えたその先にひろがる終結部においてである。この両者の出現パターンは、二艘の船というよりは、メルヴィルの『白鯨』における、ピークォド号とモービィ・ディックの関係にごく近い。

*

要するに歌詞は、それぞれ材質の異なる三通りの歌を喚び起こすのである。シャンソンのこだまは、水気を孕み不定形で流動的な海の歌。メルヴィルの詩は、堅く乾いてエッジの立った船の歌。そしてバッハマンの詩は、前二者の中間に位置する、滑りを帯びた鯨の歌。

 

Risonanze errantiは独唱のための音楽なので、これら三つの歌は、ライヴ・エレクトロニクスの助けを部分的に借りつつも、一人の女声歌手によって引き受けられる。彼女の歌う歌はどんな姿をしているだろうか。海と船と鯨の三つの様態の遷移を繰り返す、379小節のモノディである。振り返ってみれば、作曲の最も初期の段階でノーノが作っていた、三つの異なるシャンソンの旋律断片のモザイクからなるなんとも奇妙なモノディが、このLiederzyklusの最終形態を先取りする予型だったのかもしれない。

 

フローチャート

//but look...hark//→→<<death/Verzweiflung>>(これ以降コーダ)→

*

さて、今から行うのは、以上のごくごく簡単で舌足らずなポンチ絵の、こだま→メルヴィル→バッハマンの順序に沿った詳細な肉付けの作業である。これはつまり、海の歌→船の歌→鯨の歌の順番ということになる。

 

こだま、海の歌

こだまにまつわる三つのキーワードの提示からはじめよう。

 

その1、水。

こだまという言葉は、ノーノの語彙集のなかでは一般に、水の世界と密接に結びついた言葉である。ノーノはいつも、ヴェネツィアの大きな運河の水の上で、つまりは島と島とのあいだの空隙で鳴り響く音のことを話している。そこで必ずと言っていいほど出てくる言葉がこだまやリバーブだ。まったく何もない空虚に対するところの、底に水を湛えた空虚の本質を、ノーノは大半の音が水を透過せず水面で反射する、すなわちこだまするという点におくのである。

 

こだまの語の用例をひとつ挙げておこう。これは、まだ活字化されていないある講演のなかでノーノが語った言葉を、Laurent Feneyrouが仏語版のノーノ・テキスト集成Écrits (1993年版)の巻頭解説のなかで引用したものである。 *4

Échos très raffinés: différences minimes de l'écho.

Espaces sonores non-fixes.

Mobilité.

Problème réalité/irréalité:

Problème de Venice.

L'eau n'est pas un miroir, mais une continuité.

Échos très raffinés...

*

きわめて繊細なこだま。こだまの極微の変異

固定されていない音響空間

動的であること

現実/非現実の問題

ヴェネツィアの問題

水は鏡ではでなく連続性である

きわめて繊細なこだま

ちなみにこのくだりは、ノーノが「水=連続性」の認識をはっきりと口にしているという点においても興味深い一節である。

 

その2、情動。

改めて、こだまとして歌われる語句の一覧を眺めてみると、まず

  • ah u uh eh ahimé(深い悲しみや哀れみ、苦痛、不安などを表す間投詞)

――これらは言葉というよりは吐息や嘆息のようなもの。そして、下記のごく限られた語彙。

  • adieu(別れのあいさつ)
  • mes amours (わが恋人)
  • pleure(泣く)
  • malheur(不幸)
  • me bat(私を襲い)

総じて言えることとして、意味の次元では陳述的なものに対する情動的なものの優勢が明らかである。

 

その3、母音。

いっぽうこだまの音韻的特徴という点では、子音に対する母音の優位が一目瞭然である。

*

水、情動、母音。これらのキーワードをひとつに結びつけてくれるマイスターを召喚しよう。エルンスト・ユンガーである。

*1:Massimo Cacciari and Marco Biraghi (1987). In conversation with Massimo Cacciari.

*2:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 119.

*3:Luigi Nono (1987). Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes.

*4:Laurent Feneyrou (1993). Introuction. In: Feneyrou, L. (réunis, présentés et annotés) Luigi Nono, Écrits. Paris: Christian Bourgois éditeur: 7-20, p.16.