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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 6/8

Risonanze erranti

Risonanze erranti. Liederzyklus a Massimo Cacciari

1985年9月のPrometeo決定版初演をもって、カッチャーリとのほぼ10年にわたる共同制作の関係――これは端的に言えば、カッチャーリがテキストを編纂し、それをノーノが音楽化するという関係である――に区切りをつけたノーノが、ソロ復帰後の最初の大きなプロジェクトとして、Caminantes...Ayacuchoとほぼ同時並行で取り組んだ「歌モノ」が、Risonanze erranti. Liederzyklus a Massimo Cacciariであった。1986年3月15日ケルンで初演された後、1986年6月6日トリノ、1987年5月12日東ベルリンと再演を重ねるたびにかなり大きな改訂がなされていき、一般的には1987年10月8日、パリで演奏されたものが決定版だとされているが、このあとさらに1988年5月16日フライブルク、そしてノーノの死後の1991年2月6日、西ベルリンでの演奏会に到るまで、細部の変更が続いていたとしている論文もある。 *1

 

編成は、

  • メゾソプラノ独唱
  • チューバとピッコロ(持ち替えのバスフルート)の、ソロ管楽器
  • 打楽器群(ボンゴ、クロタル、サルデーニャ島の羊や山羊が首に付ける牧用の鈴)

 

編成に関する三つの注記:

  • アルト独唱と表記される場合もあるが、要するに歌手Susanne Ottoのための、ということである。
  • 公式には「バスフルートと持ち替えのピッコロ」だが、個人的こだわりにより順序を逆にしている。ピッコロの冷たく冴え冴えとした響きの印象があまりにも鮮烈であるのと、ピッコロとチューバのコンビをどうしても前面に押し出したかったので。ピッコロ×チューバの組み合わせは、ひとつにはPrometeoのQuinta Isola――ピッコロ、チューバ、そしてソプラノクラリネットの三つの楽器のみで演奏される――への、そしてもうひとつはウストヴォリスカヤへの、目くばせである。
  • 打楽器群のなかでなんといっても目を引くのは、サルデーニャ島の牧用の鈴。カッチャーリの談話によるとサルデーニャ島は、1976年8月のノーノとの滞在時にPrometeoの構想が具体化した、Prometeo誕生の地でもある。 *2

 

Liederzyklusの軌道

Risonanze errantiは、Prometeoの完成前からノーノがあたためていたLiederzyklusのプランが紆余曲折の末に実を結んだ成果である。Fondazione Archivio Luigi Nonoが保管しているノーノの草稿を手がかりに、Risonanze errantiへと到るLiederzyklusの変遷の過程を辿っていくと、そのルーツは次の4曲からなる4 Lieder(仮称)の構想にまでさかのぼる。 *3

  1. アルト独唱、チューバのためのAtmendes
  2. アルト独唱、チューバ、フルートのためのDasein
  3. アルト独唱、チューバ、フルート、吊るし木のためのL'infranto
  4. アルト独唱、チューバ、フルート、吊るし木、クロタルのためのInquietum

表題のAtmendesとDaseinはDas atmende Klarseinのテキストに関わる言葉、L'infrantoとInquietumはPrometeoのリブレットに含まれる言葉である。1曲めと2曲めには、Quando stanno morendoの第一楽章やPrometeoのPrologoで用いられたモノディ(David Ogbornの論文 *4 の前半で分析されているもの)を素材として再使用することが検討されていた。 *5 こうしたごく限られた情報によるかぎり、この作品は、Prometeoを中心とするノーノ=カッチャーリの太陽系の引力圏にいまだがっちりと捕捉された状態にあるように見受けられる。

 

4 Liederの計画はしかし、これ以降発展をみせることなく立ち消えとなり、1984年10月の時点でノーノは別の歌曲集のスケッチに取り組んでいる。最初期には3 cicli di LiederもしくはItalienische Lieder - senza sole *6 とかりそめの名で呼ばれていたこのLiederzyklusが、Risonanze errantiの直接の原型である。ここでも当初はDas atmende Klaeseinのテキストを転用する案 *7 が考えられていたようだが、最終的にはノーノが所有する次の2冊の詩集、

  • ハーマン・メルヴィルのPoesie di guerra e di mare(戦争と海の詩)と題されたアンソロジー
  • インゲボルク・バッハマンのSämtliche Gedichte(全詩集)

に含まれるメルヴィルの詩7篇とバッハマンの詩1篇の引用を組み合わせたノーノ独自編集のテキストが、歌詞に据えられることになる。ちなみにメルヴィルの詩集には「VE 15-2-85」 *8 バッハマンの詩集には「Freiburg 8-7-83」 *9 の書き込みが入っている。

 

フランドルの流儀

先行する4 Liederと比較したときのRisonanze errantiの際立った音楽的特徴は、作曲の原素材として、中世~ルネサンス期の3つのシャンソン、

  •  Guillaume de Machaut (c. 1300-1377)のLe Lay de Plour. Malgre Fortune et son tour
  • Johannes Ockeghem (c.1410-1497)のMalheur me bat
  • Josquin Desprez (c.1450-1521)のAdieu mes amours

がつかわれている点である。

 

OckeghemとJosquinといえば、フランドル楽派の代表的な作曲家。Machautはそのひとつ前の世代のアルス・ノヴァの旗手である。われわれは、OckeghemのMalheur me batが弦楽四重奏曲Fragmente - Stille, An Diotima終盤のヴィオラ・パートにも引用されていることを知っているし、1987年のノーノの来日時に行われた講演(『現代音楽のポリティックス(水声社)』に収録)が、フランドル楽派の作曲技法の話から説き起こされていることも知っている。うんと遡れば、そもそもノーノのメジャー・デビュー作であるVariazioni canoniche sulla serie dell'op. 41 di Arnold Schönberg (1950) の canoniche=カノン風という標題は、「謎のカノン」を意識して付けられたものである。 *10 ノーノの終生変わらぬ特質であった、古楽へのひとかたならぬ思い入れは、若き日の三人の師、マリピエロ、ブルーノ・マデルナ、指揮者のヘルマン・シェルヘン、なかでもとりわけマデルナの薫陶によるところが大きい。

 

ところでノーノは、フランドル楽派をはじめとするフランドルの芸術についてこんなことを言っている。「特筆すべきこととして、私はフランドルの音楽、絵画、文学におけるさまざまな技法、さまざまな概念的展望が、ユダヤの思想と密接に関連していることを発見したのです」 *11 なんであれよいものをユダヤ的なものと結びつけようとするノーノの癖をよく知っている人にとっては、フランドル楽派に対するノーノの評価の高さを実感するには、この一言だけでも十分だろう。

 

閑話休題。件の三つのシャンソンの変形操作によるRisonanze errantiの特異な作曲のプロセスを、Stefan Dreesが1999年の論文 *12 のなかで、残されたノーノのスケッチをもとに楽譜付きで再現してくれている。それによると、まずはじめにノーノは、

  1. Le Lay de Plourの最初のスタンザ
  2. Malheur me batのテノールの旋律
  3. Adieu mes amoursのテノールの旋律(休符を除去したもの)

を書き写し、そのおののを、4~8音からなる23個の短い旋律断片に分解している。下に掲げたのはこのうちAdieu mes amoursを写した楽譜の一部である。

 

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次に、こうして得られた23×3=69個の断片

  • Machaut:M1 - M23
  • Ockeghem:O1 - 23
  • Josquin:J1 - J23

を、Fondazione Archivio Luigi Nonoの資料カタログの説明文 *13 の表現にしたがえば a sorte=無作為に抽出して順につなぎ合わせることにより、3つのシャンソンの旋律のきれっぱしが継ぎはぎ細工となって一体化した、127小節からなる一種異様なモノディがつくられる。抽出の具体的な方法についてDreesは述べていないが、それぞれのシャンソンの23個の断片がほぼすべて選ばれており、一部の断片は2回重複して出現している。また、ところどころでオリジナルに対する音型の微小な変異が認められる。下の楽譜はモノディの冒頭部分で、このあと

M18 O18 J10 J17 O1 O8 M7 --- O6 J19 M17 O3 O4 O10 J12 O12 O17 O15 J20 M6 J21 O16 O14 M20 M19 J2 J16 M23 M14 J4 M8 M2 M9 J23 J3 O19 O13 M21 O9 O22 M1 M18 O23 O15 J7 J6 O17 M13 M12 M1 O7 J9 M16 J8 O20 M3 J1 M22 J11 J22 O21 M5 J13 O2 J8 J18 M6 J5 J10

の順に伸びていく(---は、対応する断片が不明であることを意味する)。

 

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つづくステップでは、この127小節のモノディが、音符を部分的に休符へと置換する操作と器楽パートの追加(フルート、チューバ、クラリネット)によって大幅につくり変えられ、4人の奏者のための、曲がりなりにも楽曲の体裁を具えた楽譜へと変貌を遂げる。Risonanze erranti (vaganti?) と仮題の付されたこのスケッチは、Prometeo決定版の初演を数ヵ月後に控えた1985年5月の時点ですでに成立していた。 *14 その抜粋は、Reinhold Schinwaldの論文 *15 のp. 7でもみることができるが、ここではJürg Stenzlの、「Luigi Nono」という直球のタイトルが付いている本 *16 に転載されているものを一部掲げておこう。

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この楽譜のみどころの一つは五線譜の左端で、後期ノーノの譜面の通例どおり、そこには楽器名の代わりに奏者の名前が記されている。上から順に、SusがSusanne Otto、RoがRoberto Fabbriciani、CiがCiro Scarponi、GCがGiancarlo Schiaffini。いっぽう五線譜の上方に眼を向けると、M. OCK. J. の字が認められる。該当箇所がそれぞれMachaut、Ockeghem、Josquinの旋律断片に由来することを示す出自証明である。

 

一応作品の形をなしているとはいえ、Risonanze erranti (vaganti?) と1986年3月に初演されたRisonanze errantiとのあいだの隔たりはなお相当に大きい。そもそもこの両者は楽器編成からして異なっている。これ以降どのように作曲が進められていったかはDreesの論文の守備範囲外であるため、代わりにFondazione Archivio Luigi Nonoの所蔵資料カタログに付された注記を参照すると、せっかくつくられたRisonanze erranti (vaganti?) の楽譜はこのあと再び44個の断片に分解され、そのうちの少なくとも一部がRisonanze errantiの完成型に取り込まれていると考えられる *17 とのことであるから、Risonanze errantiの原曲が古いシャンソンの旋律だったという出生の秘密を知らせる手掛かりは、変形に次ぐ変形の涯に、最終的にはほとんど失われていると言ってもよいだろう。だが翻って言えばこうした作曲法自体が、誰もが知っている既存の歌のメロディを定旋律に取り込み、ついでこれを大胆に変形していくことでまったく別の音楽につくりかえていくというフランドル楽派のお家芸の、現代的な継承になっているのである。ちなみに完成された音楽のなかには一箇所だけ、文化財保護区のようなものが事後的に設けられていて、そこでだけは、Adieu mes amoursのsol-sib-la-sol-reの旋律をほぼ原曲どおりの無傷の姿で聴くことができる。

 

ところで、Risonanze erranti (vaganti?) の楽譜の声のパートには、まだテキストが割り当てられていない。歌に歌詞をのせていく作業は、したがってもっと後の段階で行われるわけだが、その際に、音ではなく言葉のレベルで、作曲の素材となったシャンソンとの新たな関連づけが図られることになる。メルヴィルとバッハマンの詩に加わるところのテキストの第三の要素である、シャンソンのEchi(こだま:EchiはEcoの複数形なり)なるものがそれである。この「こだま」とは、件の3つのシャンソンの「歌詞の断片」であるという表現を私はこれまで何度か用いてきたが、そう言いつつもどうも腑に落ちないことがあった。作品全体に散在しているこだまの「歌詞」――抜き出して列挙すると

 

adieu mes amours pleure malheur ah u uh eh ahimé

 

――のうち、adieuやpleureやmalheurはよいとして、ahとかuとかuhとかehといった言葉以前の吐息のごときものは、果たして歌詞の一部なのだろうか。それとahimé、これはMachautのこだまということになっているが、Le Lay de Plour. Malgre Fortune et son tourのもとの歌詞をみても該当する語句は見当たらない。そもそもahiméとは、「ああなんたることか」といったような意味合いの、イタリア語の間投詞のはずである。シャンソンの歌詞にどうしてイタリア語が出てくるのだろう?このへんの事情が理解できるようになったのは、Dreesの論文の解説を読んでからである。下に掲げたのはMarinella Ramazzottiの、「Luigi Nono」という直球のタイトルが付いている本 *18 に転載されているRisonanze errantiの自筆譜の一部分であるが、ここにみられるAHというこだまがJosquinに帰属するものであるのは、作曲者がJosquinの名をそこに明示的に書き添えているという、いたってシンプルかつ直截的な理由によっているのである。

 

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なお、3つのシャンソンのテープを用意して、演奏中に再生するというプランも一時期検討されていたようだが、結局採用されることはなかった。 *19

*1:Stefan Drees (1999) やReinhold Schinwald (2008) に引用されているPierangelo Conteのヴェネツィア大学卒業論文

*2:Nils Roller (1995). Vorwort. In: Edmond Jabès, Luigi Nono, and Massimo Cacciari. Migranten, edited by Nils Röller. Berlin: Merve.

*3:http://www.luiginono.it/en/node/20509

*4:David Ogborn (2005). "When they are dying, men sing...": Nono's Diario Polacco n. 2. EMS: Electroacoustic Music Studies Network - Montréal 2005. [pdf]

*5:http://www.luiginono.it/en/node/20509

*6:http://www.luiginono.it/en/node/20513

*7:http://www.luiginono.it/en/node/20512

*8:http://www.luiginono.it/en/node/20497

*9:http://www.luiginono.it/en/node/20498

*10:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 13

*11:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 12

*12:Stefan Drees (1999). Die Integration des Historischen in Luigi Nonos Komponieren. In: Thomas Schäfer (ed.) Luigi Nono - Aufbruch in Grenzbereiche. Saarbrücken: Pfau: 77-95.

*13:http://www.luiginono.it/en/node/20503

*14:http://www.luiginono.it/en/node/20506

*15:Reinhold Schinwald (2008). Analytische Studien zum späten Schaffen Luigi Nonos anhand Risonanze erranti. [pdf]

*16:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 121.

*17:http://www.luiginono.it/en/node/20506

*18:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 184.

*19:http://www.luiginono.it/en/node/20516