アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 12/16

陸から海へ:scomposizioneによる島ルート、つづき

 

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■ 群島の眺め: Fragmente - Stille, An Diotima (1980) - スコア第1頁

 

Fragmenteの譜面はいわば二ヶ国語で書かれている。音に固体のような確たる形を与える効果をもつ陸の言語と、音に液体のような絶えざる揺らぎを与える効果を暗にもつ海の言語と。音符と休符が断片=島の輪郭を描き出し、書き添えられたもろもろの注釈が島の描線に動揺を加える。Fragmenteの弦の島のための注釈は、Guai ai gelidi mostriやPrometeoの弦の海を本物の海らしく波立たせるために用いられている各種の語彙と同種のものである。島を記述する言語のなかに、水の語法が混入しているのだ。島で聞こえるなべての音は、個々の島に内在する音ではなく、陸と海の接触によって生じる音である。

 

要するにノーノにとって、島をつくることは渚をつくることと同義なのである。海に抗する陸ではなく、海に面する陸。島の辺は端的に「海辺」であり、島の輪郭をかたどり規定するために引かれたものではない。重要なのは辺が海に接していることで、描線が閉じているかどうかは二の次である。海に面するようになった陸は、船の出入りする港にもなれば、以前の稿で「ジュデッカ運河モデル」の名のもとに示した、陸から海へと流れていく音の変容のドラマが繰り広げられる場にもなる。島はこうして常に海との関わりのもとにあり、水のざわめきと無縁な乾いた内陸の地は存在しないも同然である。そんなノーノの島には、「海に生きるひとびとにとって、島とは背後地域のある沿岸でしかない」 *1 という、カール・シュミット『陸と海と』の所見がよく似合う。

 

日本での講演からさかのぼること18年前の1969年に、ノーノは講演で話していたのとほとんど変わらぬ論旨を、自作のIl canto sospesoについての註釈というかたちで披露している。 *2

私は決して点描風には書きませんでした。それは批評家が見つけ出したことです。音の点がそれぞれ自分自身の中に閉じこもって密閉されているというような音楽観は私には全く無縁なものです。日常に置き換えると、それはひとりひとりの人間が自分自身だけで充足していて、なすべきはただ自己実現に邁進することのみであるといったことを意味します。ですが私にとって、人は他の人間や社会との関係においてのみ自らを実現できるものだということはいつでも明白です。初期の私の作品においては音の点は決してそんなに重要ではありません。重要なのは例えば音の高さではなく、むしろ音程であって、音の回りを取り囲んでいる諸音型への関係です。そしてこれらの関係は、音楽のいわゆる垂直的、水平的な面だけで展開し尽くされることのないものであって、あらゆる方向にひろがっていく網のように、作曲することの全ての面をとらえているものなのです。セリエルであるというレッテルについても、ただ条件付きでのみ承服するものであるとはっきり言えます。当時すでに私は新聞や雑誌が徹底的に組織された音楽だと呼んでいたものは書かなかったのです。(……)批評家や演奏家は点描的な作曲なるものにすっかり馴染んでいたので、かれらは(Il canto sospesoでの)私のテキストの扱い方も、音響的な出来事の隔離のさらなる一例だとみたのです。ケルンでの初演や、それについて後に書かれたことにその影響が表れていました。人は私がテキストを恣意的に破壊していると、そしてそれを当たり障りのないものにしようとしていると、あるいは引け目を覚えてそれを取り下げようとしているなどと言ったのでした。私の関心はしかしまったく別のところにありました。私は一つの旋律的、水平的な構成を音域の全体にわたってやってみようとしたのです。一音から一音へ、一シラブルから一シラブルへのゆれ動き、すなわち、ある時には個々の音や個々の音高の連続から生じる一つの線、ある時には響きにまで厚くなる一つの線という構想です。

※ 上の引用の七割程度は黒住彰博『ノーノ作品への視点』 *3 に訳出されているので、該当箇所については訳文をそのまま拝借している

 

ノーノが群島の眺望にみているのがばらばらな点の現実ではなく、点と点を結ぶさまざまな線の可能性であることが改めて確認できよう。ノーノにとって群島とは文字どおり、相互作用する「島の群れ」である。

 

島々をつなぐ際限のない関係性のネットワークが、ここでは全体として「eine Linie ひとつの線」と呼ばれている。呼び方は同じ線であっても、この線は定旋律の旋律線とはまったく異質なものだ。一つの線があるのなら二つの線もあるのか。これはそういう量的な概念としての一ではない。その上に無数の航跡が引かれていく場である海がひとつづきの地をなしていることの反映としての、質的な一である。その線の挙動をノーノは「ゆれ動き」の語で要約していた。「ゆれ動き」と訳されている言葉は、ドイツ語原文ではein Schwebenである。Schwebenとは、Il canto sospesoのsospesoにあたる言葉にほかならない。

※ Il canto sospesoの独訳はSchwebender Gesang

 

というわけで、ノーノが講演で描いた3枚つづきの図に、今ならこう見出しをつけることができる――canto fermoからcanto sospesoへ。全声部で模倣されるcanto fermoの4本の線からcanto sospesoの「ひとつの線」への、旋律線の質的変容。canto fermoの変貌した姿であるcanto sospesoは、canto fermoの堅固な旋律線が切断された成れの果てのバラバラな点が歌う、「断ち切られた歌」ではない。それらの断ち切られた点のあいだに横たわるひとつの連続した空間を漂いつづける、始まりも終わりもない海の歌である。

*

よく教科書に付いているような、章末の演習問題をひとつ。

 

§ 以下のノーノの発言を絵で描き表しなさい。

Dal Canto sospeso in poi questo è un sentimento che continua ad assillarmi, la sospensione da, per, o attraverso qualcosa, un classico Augenblick rilkiano che deriva, anticipa, sogna. *4

*

Il canto sospesoからこのかた、これは私につきまとい続けている感覚です。なにかから、なにかのほうへ、あるいはなにかを横切って宙に漂っている状態、流れていき、待ち受け、夢をみる、お手本のようなリルケの「瞬間」です。

§ 前置詞と動詞の3とおりの対応関係に着目しよう。

  • sospensione da --- deriva
  • sospensione per --- anticipa
  • sospensione attraverso --- sogna

日本語に訳すと、

  • から放れて漂うこと / 流れていく
  • に向かって漂うこと / 待ち受ける
  • を横切って漂うこと / 夢をみる

これらは、「なにか(qualcosa)」と呼ばれる、なにか島のようなもののあいだにひろがる水域を漂う(sospensione)船の三様態を表している。この点を踏まえて絵を描くと、ノーノの故郷の海であるジュデッカ運河を彷彿とさせる水の上を、三艘の船が航行している図になる。

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canto sospesoの旋律線はまさしく、これらの船が海の上に引く航跡である。この歌をそれでもなお「断ち切られた歌」と呼び得るとすれば、船がその上に浮かんでいるqualcosaの島々のあいだの海域が、ひとつづきの大きな大陸を断ち切って小さな島々にすることによって生じた空隙であるかもしれないという間接的な理由からである。

*1:カール・シュミット『陸と海と』、生松敬三・前野光弘訳、福村出版、1971年、91~92頁

*2:Gespräch mit Hansjörg Pauli (1969).

*3:黒住彰博『ノーノ作品への視点』、広島文化女子短期大学紀要 22: 53-65、1989年 [link]

*4:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 61.