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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 2/8

Risonanze erranti

一度めの脱線:漂泊者と連続性

よい連続性とわるい連続性。それを海の連続性と陸の連続性と呼ぶこともできるだろう。

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二枚の絵がある。左側は陸上の光景だ。道と、そうではない領域との截然たる区別。あらかじめ定められた遠くの目的地に向かって続いていく、固定された一本道。迷うことはなにひとつない、ここには「進むべき道がある」。この種の連続性はしかしまったく耐え難いものだとノーノは言っているのである。

 

いっぽう右は海上の光景である。目印となる島影すら見当たらない渺茫たる海原に、固定されたものはなにもない。日本語訳では、「進み行く者よ、進むべき道はない、だが進まなくてはならない」という、絶望的なまでに水分の乏しい「陸の言葉」と化してしまっているかの警句、Caminantes, no hay caminos, hay que caminarの意味を問われたときノーノが示したのが、まさにこの図のような、航海のイメージであった。

È il Wanderer di Nietzsche, della continua ricerca, del Prometeo di Cacciari. È il mare sul quale si va inventando, scoprendo la rotta. *1

*

ニーチェの漂泊者、その不断の探究。カッチャーリのプロメテオ。それは、その上で航路がつくり出され、探し出されていく海です。

このたいへん重要なポイントが、どうもいまひとつ浸透していないように見受けられる、つまり、カミナンテス=漂泊者の旅する空間が海の上(のような空間)であるということが。メルヴィルの海洋小説によく出てくる言葉で言えば、Landsman=陸の人間の発想が勝りすぎているのだと思う。進むべき(決まった)道がある陸地の風景は、既にして可能性の縮減である。陸の人間は往々にして、「進むべき道がない」ということを、それよりもなおいっそう可能性が狭められた閉塞状態――行く手を障害物が遮っているだとか隘路に嵌っただとかいったこととして捉えてしまいがちである。まったく逆であって、「進むべき道がない」空間としてノーノが思い描いているのは、閉塞どころか、海の上のように、無限の可能性infiniti possibiliへと開かれた空間なのである。旅人の進路を阻むような仕切りも境界もなく、すべてが流動しひとつにつながり連続体をなしている海上には、どれだけ歩いても踏破されることのない無数の経路が潜在している。ここにないものとは、進むべきひとつの決まった道、目指すべきひとつの決まった目的地だ。それゆえ道は、進み行く者自らが試行錯誤によって常に探し出さなければいけない。海上の道は、進むべき針路をそのつど迷いながら、不安のうちに(inquietum)選びとる小さな決断の積み重ねが描き出す、揺れる航跡である。歩くことは、ここでは絶えざる微細な変化のうちにある。

 

そしてその行程にはsenza fine、終わりがない。ノーノがとみに強調するのはこの点である。senza fineの語が喚起する寄る辺なさの気分は、ノーノの海と聞いて多くの人がまず連想する群島の海の舟路をいく者には疎遠な感覚だろう。漂泊者の旅の舞台は別の海の相貌を、「私がとても愛する漂泊者camminante che amo molto」だとノーノが呼ぶジョルダーノ・ブルーノの無限空間のモデルにふさわしい、涯知らぬ外洋の相貌を色濃く帯びているようにみえる。

 

ブルーノの詩をテキストとするCaminantes...Ayacuchoについての自註のなかでノーノが看破したとおり、ブルーノの無限の宇宙の本質的特徴は、その「きりのない連続性la sconfinatezza del continuo」にある。

ご存知のようにこの世においては、事物はつねに事物へとつづき、創造主の御手によってそこで二度と帰れぬ無のなかに投げこまれるような最後の深淵は存在しないのだからです。 *2

中心も縁も終わりもないこの真に巨大なものの全貌を、あたかも遠くの富士山でも眺めるかのごとく一望のもとに見渡すすべなどあろうはずがない。われわれ限りある者の前に無限は、おのおのをとってみればささやかで移ろいやすい事物のとめどない連なりとして、まさしく船の上から眺める一面の大海原のようなものとして、姿を現す。なし得ることは、無限なるもののこの海のようにきりのない連続性に、LandsmanではなくSeamanの精神をもって、あたうかぎり寄り添っていくことだけだ。

無限なものは、無限であるために、無限に追求されるのが、適切で自然なのです。 *3

だからこそ漂泊者は、決して汲み尽くされることのない別の可能性を絶えず探して歩く、のではなく歩き続けなければならないし、音は動く、のではなく動きつづけなければならないのである。hay que caminarの語にノーノが読み取っているのも、そういった意味合いの事柄のはずである。

 

ノーノがトレドの修道院の壁に件の文句(Caminantes, ...)を見たのは1985年だとする文献 *4 と86年だとする資料 *5 とが混在しているが、いずれにせよそれはPrometeo初演後のことである。漂泊者とはしかし、もともとPrometeoの中心的概念でもあった。Prometeoには、Prologoの末尾にシューマンの『マンフレッド序曲』冒頭の引用というかたちで登場するマンフレッドにはじまり、イオやヘルダーリンのヒュペーリオン、コロノスのオイディプス、コロンブスらを経てQuinta IsolaのニーチェのDer Wandererへと到る漂泊者の系譜がある。 はやくも1978年のインタビューの時点で、ノーノは「過程Prozeß」というキーワードをさかんに繰り返しながら、緒についたばかりのPrometeoの構想を語っており(「いま私は認識の過程に、諸過程の結果よりもずっと大きな関心を持っています」)、ニーチェの漂泊者を、「つねに新しい道を見つけだし、立ち止まることのない」者だと評してさえいる。 *6 原作にあたるアイスキュロスの神話では海から遠く離れた荒野の涯の岩山に「固定」されているプロメテウスは、ノーノ/カッチャーリのPrometeoにおいては これらの漂泊者を集約するシンボル的存在――なかんずく航海者としての性格を併せ持ったシンボルである。

Questo Prometeo riassume l'immagine di un uomo che non si accontenta mai di nessuna normalità e quotidianità, e ha l'ansia perenne di nuove terre e frontiere. Un Wanderer, con tutta l'inquietudine del secolo romantico, e con un atteggiamento fondamentale, quello della trasgressione, che a me sembra l'elemento decisivo della vita di oggi. *7

*

このプロメテウスは、いかなる規範、日常性にも満足することなく、 新たな大地、フロンティアへの絶えることない渇望を抱いている人間のイメージを集約しています。ロマン主義の世紀のあらゆる不安とともに、今日の生に不可欠な要素であると私にはみえる、あの越境という基本的な精神を具えたWanderer、漂泊者です(1983年4月29日、Corriere della Sera紙のインタビューにおけるノーノの発言)

 

  • 目的ではなく行程、つねに途上にあること
  • あらかじめ定められた道がないこと
  • 決して立ち止まらないこと
  • 海の上の航海のイメージ

といった漂泊者の基本的なモチーフは、したがって、トレドを訪れる久しい以前の、Prometeoの制作段階からノーノのうちに既に宿っていたのだといえるだろう。そこからすれば、Prometeoについて語る作曲者自身の言葉に、ノーノ的漂泊者の旅の心得と言うべき連続性へのまなざしが横溢しているのも当然の成行である。

I nostri punti di riferimento erano Nietzsche e Benjamin, per cui trovavamo un Prometeo-Wanderer continuamente proteso nella ricerca di nuove "leggi" con cui buttare all'aria quelle precedenti, in una parola la continuità prometeica senza fine. *8

*

私とカッチャーリの出発点となったのはニーチェベンヤミンでした。彼らをとおして私たちは、それによって既存のものを転覆させる新たな「法」を常に探し続ける漂泊者としてのプロメテウスを見いだしたのです。言うなれば、終わりなきプロメテウスの連続性です。

 

3

本題に戻ろう。たえず刻々と別の音へと変化していくような、動的なありかたで多種多様である音に対して、いっけんそれとは対極に位置している静的にして純粋な音を、ノーノは当の多様性への導き手となったその同じソノスコープによって見いだしたのだった。具体的な観察事実について、ノーノは楽譜入りでこう説明している。

Fabbriciani nel registro c1-f1 del flauto

Scarponi nel registro d♭-a♭ del clarinetto

Schiaffini nel registro f-f1 della tuba

riescono a produrre suoni vere onde sinusoidali senza armonici (tutto analizzato a Friburgo con il Sonoscop). *9

*

Fabbricianiによるc1-f1の音域のフルート、

Scarponiによるd♭-a♭のクラリネット

Schiaffiniによるf-f1のチューバは、

倍音を伴わないサイン波に実質上等しい音を生成することができる(いずれもソノスコープによってフライブルクで分析された)

 

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Fabbricianiのフルート、Scarponiのクラリネット、Shiaffiniのチューバを、上記の音域の範囲でごく穏やかに演奏すると、多様性の源泉である部分音がほぼ消失し、近似的にサイン波とみなすことのできるきわめて純粋な音が出現することがあるというのだ。この状態でフルートとチューバとクラリネットを交替で演奏しても、もはやどの楽器の発している音なのかさえ判別できなくなる。「細部がない」というこの状態は、音の発現し得る多種多様な細部の非常に特異な一様態である。privi di timbro=「音色を欠いている」というノーノの表現 *10 にならっていえば、さまざまな色彩のなかに、まったく色のついていない無色透明あるいは白色が含まれていることにも喩えられるだろう。

 

ノーノがソノスコープでの観察例として具体的にふれているのは上記三つの管楽器のみであるが、Das atmende Klarsein以降のノーノの音楽のなかで、極端な純粋性へと傾斜していく性向は、とりわけ声に顕著にあらわれる。おそらくソノスコープの体験はノーノに、純音は自然界に存在しないという常識に反して、quasi sinusoidali=ほぼサイン波とみなされる領域までであれば、周波数発生器のような人為的仕組みを用いなくてもアクセス可能である、すなわち純音とは実現可能性をもった理想であるという一般的な見通しを与えたのだろうと思う。

 

生楽器によって得られる近似的な純音に関してノーノが1985年の講演で語っている三つの所見 *11 のなかでも、とくに三番目の指摘は興味深い。純粋な音は即座には発現できないとノーノは言う。フルート、クラリネット、チューバのなかではとくにチューバに顕著にみられる傾向であるが、これらの楽器で純音を出そうと思ったら、まずは風のようなブレス音の勝った、純音とはほど遠い音からはじめなくてはいけない。そこから少しずつ音を探しだしていくことにより、あるていどの時間をかけて、ほぼ純音と呼び得る水準にまで到達するのである。つまり、五線譜に一つ音符を書き、この音は純音ですと指定するような点的な記述は不可能だということである。純音の湖にアクセスするためには、風のざわめきに充ちた噪音の藪野原を漕いでいかねばならない。点ではなく行程なのだ。しかも藪と湖の中間領域は湿地帯のようなグラデーションをなしており、はっきりした境界を定めることは不可能である。昼と夜ほどにも異なる音の二つの様態は、しかしけっして離散的ではなく、昼と夜のように地続きで連続しているというわけだ。ここでもまた浮かび上がってくるのは連続性の意識である。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 72

*2:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、35頁

*3:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、98頁

*4:Erik Esterbaurer (2011). Eine zone des Klangs und der Stille: Luigi Nonos Orchesterstück 2° No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij. Würzburg: Königshausen & Neumann, p. 29-30.

*5:Juan María Solare (2004). Nono: Soñando caminos. Acerca de la trilogía "Caminantes" del compositor Luigi Nono y sus fuentes de inspiración en España y América Latina. Humboldt 141: 24-26.

*6:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 92-93.

*7:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 230.

*8:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 70

*9:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*10:Luigi Nono (1985). Altre possibilità di ascolto.

*11:Ibid.