アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 5/16

穴、つづき

知覚的補完は視覚だけでなく聴覚においても生じる現象で、その代表例が連続聴効果(continuity illusion)と呼ばれるものである。百見は一聞にしかずで、アレコレ説明するより実際に聞いてみたほうがはやい。

 

http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/a/continuityIllusion/ja/index.html

 

↑の「イリュージョンフォーラム」のサイトをひらいてCのボタンを押すと再生される、断線しかかったヘッドホンで聞いているような『エリーゼのために』は、 旋律の随所で音を削除して短い無音に変える加工を施したものである。ところがここで、無音の箇所を大きめの雑音に置換すると、途端に旋律が滑らかにつながって聞こえるようになる(D)。

 

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原理は「ルビンの壺」とまったく同じ、図地反転である。上図は、エリーゼの旋律を沈黙の断片でマスキングしたものだと説明することもできそうにみえるが、あいにくと沈黙はなにかの上に乗せることができるような性質のものではない。まさにその字のごとく、沈黙は「沈む」のだ。水がそうであるように、沈黙は自然に下方へ引き寄せられていき、その上に個々の旋律断片を島のように浮かべたひとつづきの海になる。この透明な沈黙の層のさらに背後になんらかの音が隠されていると想像することは非常に難しい。

 

下図では、旋律の途中に挿入された沈黙が雑音に置き換えられる。「ノイズが乗る」という慣用表現のとおり、雑音は旋律の上に場所を占める。沈黙との関係において図の位置にあった旋律断片が、雑音との関係において地の位置に移る。人間の脳はこの布置を、エリーゼの旋律線の上に雑音が覆いかぶさって旋律を遮蔽している状態だと解釈するため、雑音の濁りの下にあって聞こえないが存在しているはずの音が脳内で自動的に補完され、かくしてバラバラの旋律断片がひとつにつながりあうのである。

 

下図を横方向から眺めると、それが実際には三つの層の堆積からなっていることが分かる。上から順に、雑音の島、旋律の川、沈黙の海。これは、知覚の階層を図から地に向かって下りていくにつれて、固体的なものがだんだんと液化していく遷移の系列である。旋律は雑音と沈黙の中間の層にあって、上方の雑音に対しては地として振舞い、雑音との境界線によって断ち切られることなく流れつづける、と同時に、下方の沈黙に対しては図として振舞い、沈黙との境界線により流路の規定を受ける。旋律が描く一筋の川の流れは、雑音との関係において発現された地の液体的性格(連続性、流動性)と、沈黙との関係において発現された図の固体的性格(固有の輪郭)の両性具有によって産まれた、液体と固体の中間的な一形態である。

 

階層を下りきった知覚世界のいちばん遠いところに「海」と呼ぶべきものがひらけてくるのは、視覚でも聴覚でも変わらない。人が知覚する音響空間の最底面に遍く存在する沈黙の大洋のことを、近藤譲は「あらゆる <聴こえる音> の背後に永遠に流れているドローン」 *1 と呼んでいた。旋律の川が流れる面よりも低く、沈黙の海面よりもほんの少し高い位置に、沈黙をそのまま可聴化したような持続音の海が横たわっているということもあり得るだろう。

*

Tristanの評においてノーノは、断片性を連続性に接続するための、おなじみの「島モデル」に代わる第二の方法を提案したのだと言える。音の断片を島としてではなく穴として、沈黙と測りあえるほどの深い穴として聞く。言い換えると、断片を図ではなく地で鳴らすということ。

 

島(図)としての断片は、四囲を連続性すなわち海に取り巻かれている。断片は、連続性を望見するための足場である(渚へ降りよ)。穴(地)としての断片は それ自身が連続性(海)の一部分をなしている。穴の縁に立って見下ろすちっぽけな水たまりのようなものは、下層遠くに連なる海の広大な拡がりの、ほんの一角である。穴は音と無音の境ではなく、suoni=聞こえる音と、ultrasuoni=聞こえないけれども存在している音の境をかたどっている。断片は、連続性を復元するための素材である(補完せよ)。

 

Tristanの海が、作品のところどころに空けられた穴をとおして下方に僅かに垣間見えるultrasuoniの大洋なのだとすれば、その海が楽劇の終結によってなお断ち切られることなくつづいていく理由もたやすく説明がつけられよう。海の水は一個の作品の縁を乗り越えて溢れ出すのではなく、地の性質にしたがって作品の下側を無抵抗にすり抜けていくと言うべきだったのだ。

 

特別な数字

ではこれも穴だろうか。シャンソンのこだま。Risonanze errantiの全篇にわたって散在する13個、細かく分ければ18個の断片。

 

「連続性 穴からみれば 回帰性」の標語のとおり、一面の広大な海の存在は、穴の個数だけ回帰してくる青色の欠片によって暗示される。Tristan und Isoldeの場合は、その青色に相当するものがB♭マイナーの和音の響きであった。シャンソンのこだまの青さがもっとも顕著に表れるのは時間である。時間とはつまり、譜面上でのこだまのテンポ設定のことである。ノーノの後期作品の楽譜を見慣れた人であれば見当がつくはずだ、こだまの時間は「四分音符=30」ではないだろうか。

 

この稿の前半で掲げたこだまの目録にテンポの項目を付け加えると、次のようになる。

ID小節再生時間テンポ残響時間 (s)
01A 36-40 3:54-4:38 30 10
02A 60-65 6:30-7:20 30 20 / 4
02B 66-68 7:25-7:36 72 4
03A 83-85 9:02-9:27 30 4
04A 103-111 11:12-12:25 30 20
05A 133-137 14:37-15:16 30 4
05B 137-138 15:17-15:46 30 70 / 4
06A 188-194 19:38-20:28 30 60
06B 196-196 20:32-20:35 88 4
07A 214-218 22:29-23:06 30 4
08A 242-245 24:57-25:09 64 4
08B 245-247 25:10-25:43 30 20
09A 256-261 26:15-27:15 30 30 / 4
09B 262-265 27:16-27:54 30 30
10A 288-293 29:54-30:40 30 10
11A 319-320 33:02-33:32 30 50 / 4
12A 357-366 37:26-38:36 30 80
13A 369-371 38:48-39:03 54 4

※ 小節数の後に示した時間は、Risonanze errantiの現時点で唯一の録音であるSACD (NEOS 11119) の再生時間である。

 

全18箇所のこだまのうち、

  • 四分音符=72(02B)
  • 四分音符=88(06B)
  • 四分音符=64(08A)
  • 四分音符=54(13A)

が各1箇所ずつ。これ以外の14箇所は予想どおり

  • 四分音符=30

である。以前少しふれたように、06B、07A、08Aの3つのこだまはもともと特殊な性格のこだまである(これらのこだまは言わば「干上がった海」である)ことを考慮すると、明らかなはずれ値とみなされるのは02Bと13Aのみである。

 

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ところで、Risonanze errantiの楽譜上でこだまの起点は上の譜例のようにそのつど明記されており、終点も複縦線で区切られて、すべてのこだまの所在が正確に特定できるようになっている。02B、06B、08Aの3つのこだまは、NEOS盤SACD(NEOS 11119)のブックレットや、Nathalie Ruget、Reinhold Schinwaldの論文 *2 *3 に付いている歌詞のなかではジョスカンもしくはマショーのこだまに分類されているが、譜面上ではこだまの位置を示す枠の外側に置かれていて、どうやらこだまの範疇に数えられていないようなのである。そこでこれらを「もぐりのこだま」として正規のこだまから除外すると、15箇所のこだまのうち、四分音符=30から外れる例外はただ1箇所だけ(13A)ということになる。

 

Risonanze errantiの楽譜は終始一貫して4/4拍子で書かれている。いまここで、横軸を小節数、縦軸をテンポとしてグラフを描いてやれば、例によって随所に差し挟まれるフェルマータの効果が加わる前のRisonanze errantiの時間の形状を、眼前の空間に可視化することができる。

 

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Melville メルヴィルの歌詞断片
Bachmann バッハマンの歌詞断片
Eco シャンソンのこだま
Eco 2 譜面上でこだま扱いされていない02B、06B、08A

 

四分音符=30は全篇をとおしてもっとも遅いテンポであるから(厳密に言うと、372小節から最終379小節までのテンポの表記は、四分音符=30 ca., o meno(およそ30、もしくはより遅く)となる)、空間に変換すると、海抜ゼロメートルのもっとも低い位置にくる。グラフのなかで濃い青色で表示した正規のこだまは、1箇所を除いてすべて四分音符=30の海面上に点在している。いや、「海面上に点在している」というよりは、海面そのものなのだろう。わたしたちは「こだま」と呼ばれる12個の小さな穴(目録では05Aと05B、09Aと09Bを分けているが、これらは時間的には連続しているので穴の数が二つ減る)をとおして、同じひとつの海を垣間見ているのである。いっぽう、メルヴィルとバッハマンの時間は、四分音符=30の広大な海の上に、島ないしは船のような、ゴツゴツと起伏に富んだ構造物の外形を描き出している。

 

歌詞の音声的特徴に基づき、

  • シャンソンのこだま=母音優位のLautsprache(音韻)の海
  • メルヴィル、バッハマンの詩句断片=子音優位のWortsprache(語詞)の陸

に分類されていたRisonanze errantiの構成要素は、時の地形図に基づいて、いままた同様に海と陸へと二分される。

  • シャンソンのこだま=「四分音符=30」の海(に向かってひらいた小さな覗き穴)
  • メルヴィル、バッハマンの詩句断片=その海に浮かぶ大きな島、もしくはその海を渉っていく船

*1:近藤譲『線の音楽』、朝日出版社、1979年、262頁

*2:Nathalie Ruget. « JE, TU, NOUS, VOUS », LUIGI NONO ET INGEBORG BACHMANN : Pensée, guerre et écriture. [pdf]

*3:Reinhold Schinwald (2008). Analytische Studien zum späten Schaffen Luigi Nonos anhand Risonanze erranti. [pdf]

断ち切られない歌 中篇の下 6/16

海の時間のまま

時の流速を有耶無耶にさせるフェルマータをこれだけ大量に挿入しておきながら、一方でノーノはずいぶん細かくメトロノーム記号を書き込んでもいるものなんだなと感心しつつ、1976年の... sofferte onde serene ... から1989年のHay que caminar" soñando まで、譜面上の速度指定の数字をひととおり追跡していく。後期ノーノの楽譜はこれだけでも結構楽しく鑑賞できる。ジグソーパズルのように、ピース(=作品)を繋ぎ合わせることではじめて見えてくる大地形というものがあるからである。

注記:以下のまとめでMM =としているのは、断りのないかぎり「四分音符=」である。また、ノーノの譜面上ではメトロノーム記号の数字のあとに「ca.」(およそ)と付けられていることがよくあるが、この表記は省略している。

 

後期第1期の3作品
  • ... sofferte onde serene ... (1976)
  • Con Luigi Dallapiccola (1979)
  • Fragmente - Stille, An Diotima (1980)

 

... sofferte onde serene ... のテンポを遅い順に並べると

MM = 35, 40, 44, 46, 50, 54, 58, 60, 63, 66, 72

*

Con Luigi Dallapiccola のテンポを遅い順に並べると

MM = 32, 36, 44, 46, 54, 56, 60, 66, 72

*

Fragmente のテンポを遅い順に並べると

MM = 30, 36, 44, 46, 52, 60, 66, 72, 88, 92, 112, 132 (このほかに二分音符=120)

この時点ではじめて、時の階梯の底に30の青色が顔を覗かせる。

Fragmenteは演奏開始後しばらくの間MM = 36とMM = 72の交替を軸に曲が進行していき、MM = 30の出番は全200小節のうち45小節が経過するまで回ってこないが、その後は出遅れを取り戻して、終わってみれば200小節中約46小節を占める大所帯をなすまでに到る。

※ MM = 30初登場の場面はArditti盤だと11分46秒から。高音域の微かな持続音がほどなくしてキュッキュッキュッキュキュキュキュといった感じの不規則な痙攣へと変容していく、Fragmente全篇をとおして私がもっとも好きな箇所だ。

Fragmenteの楽譜を精読したDoris Döpkeは、「音のレベルで似かよった断片にはいつでも、同じかもしくは近い値のテンポが割り当てられている」 *1 と指摘している。MM = 30のテンポは、あまりFragmente(断片)らしくない平坦な持続音――島というよりはむしろ、島を取り巻く海を連想させる音――に対して適用される傾向があり、また強弱で言えば総じて弱音である。特筆すべきこととして、Prometeo以降の作品で顕著になる、30の倍、倍のテンポ(30・60・120)をセットで用いる手法を、ノーノはFragmenteの段階で既に実践に移している(Fragmenteがのちの作品と一点だけ異なるのは、最も速いテンポが四分音符ではなく二分音符=120になっているところ)。後述するように、ノーノはこれら3種類のテンポとダイナミクスの関連づけを図っている――30、60、120とテンポが速くなるにつれて音が大きくなる――のだが、その特徴もFragmenteの譜面の各所に表れている。

 

後期第2期: Verso Prometeo(カッチャーリとの共同制作による5作品+α)
  • Das atmende Klarsein (1981)
  • Io, frammento da Prometeo (1981)
  • Quando stanno morendo (1982)
  • Guai ai gelidi mostri (1983)
  • Prometeo (1984/85)
  • ¿Donde estás hermano? (1982)

 

Das atmende Klarseinは当初、Prometeoの最終章および序章に置くことを念頭に制作されていた。アカペラ合唱(C1~C4)とバスフルート独奏(F1~F4)が4度ずつ交互に現れる構成をとる。MM = 30は合唱の部のもっとも遅い、とともに基準となるテンポである。

C1 7小節すべてがMM = 30
C2 46小節中約4小節がMM = 30
C3 MM = 30で始まりMM = 30で終わり23小節中約10小節がMM = 30
C4 15小節中1小節め(MM = 44)と4小節め(MM = 52)を除く13小節がMM = 30

フルート独奏の時間は合唱に比べて明らかに速い(空間的に言えば高い)。

F1 MM = 60、92、および72
F2 MM = 88
F3 MM = 72
F4 テープとのかけあいによる即興演奏のためテンポ設定なし

例外は、最初のフルート独奏部に1小節ずつ計4箇所挿入されている甘美なハーモニクスに対する、メトロノーム記号なしのLentissimo。Roerto Fabbricianiはこれらの挿入句を、フルートの相へと差し込んできた遠い「合唱の記憶」 *2 と呼んでいる。

*

Io, frammento da Prometeoは大雑把に言うと、PrometeoのIsola Seconda(第2島)の音楽を、編成は大幅に縮小しつつ(3人のソプラノ独唱、小合唱、バスフルート、コントラバスクラリネット)、内容を大幅に拡張させた(PrometeoのIsola Secondaの2倍を上回る70分強の演奏時間)作品である。全9章に現れるテンポを遅い順に並べると、

MM = 30, 36, 40, 44, 46, 50, 54, 60, 66, 72

このうちMM = 30, 44, 60, 72の4種類のテンポが特に頻出する。30と60は隣接していることが多いが、音の強弱との連関はさほど明確でない。

*

Guai ai gelidi mostriはPrometeoのIsola Primaと密接なつながりをもつ作品。私はこの曲のなかにはMM = 30が広汎に分布しているだろうと予想しているが、残念ながらスコアを見たこともなく資料も乏しいため、いまのところ実態不明。Ricordiから新版のスコアが刊行される時を待つことにしよう。

*

Quando stanno morendoは、他の3作品に比べるとPrometeoとの直接的なつながりはやや薄い。PARTE I-IIIの3章がそれぞれA、B、Cの3つの節に分かれ、節ごとに一定のテンポがあてられている。

 ABC
PARTE I 40~46 46~56 30~36
PARTE II 40~44 44~54 54~60
PARTE III 45 35 45

御覧のとおり、30の存在はさほど目立たない。

なおQuando stanno morendoには、¿Donde estás hermano? というスピンオフ作品がある。Quando stanno morendoのPARTE IIICをほぼそのまま転用し、歌詞をフレーブニコフの詩から¿Donde estás hermano?(きょうだいはいずこに?)というスペイン語に置き換え、ライヴ・エレクトロニクスを省いたもの。原曲からのわずかな変更点のひとつがテンポ設定で、MM = 45だったのが本作ではMM = 30~34に改められている。

*

Prometeoに到って、30という数に対するノーノの特別なこだわりは疑いようのないものになる。Prometeo全曲のテンポはMM = 30~152の範囲に収まる。章ごとにみていこう。

 

Prologo:

序章Prologoでは2種類のテンポが同時併存している。独奏奏者群(ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽三重奏・バスフルート・コントラバスクラリネット・チューバ・グラス)が終始変わらず MM = 30を保っているのに対し、4群のオーケストラと声のテンポは可変的である。遅いほうから順に、

MM = 30, 40, 44, 54, 56, 60, 64, 66, 68, 72, 76, 82, 152
冒頭部のみ「二分音符」=46

Isola Prima:

つづくIsola Primaでも、弦楽三重奏のテンポが MM = 30で一定なのに対し、オーケストラのテンポは

MM = 30, 44, 56, 60, 72, 78, 88, 96, 110, 120

の範囲で変動する。Coro lontanissimoと名付けられた2~6小節の合唱が途中で6回差し挟まれ、そのテンポが

MM = 30 2回
MM = 30, 60 1回
MM = 40 1回
MM = 44 2回

オーケストラの譜面の12箇所に、プロメテウスとヘパイストスの台詞が弦楽四重奏曲Fragmenteのヘルダーリンの詩句断片と同じ要領で書き込まれた、2~6小節の挿入句があり、そこではオーケストラの中のトランペット、ホルン、もしくは弦が5度の持続音を静かに奏でている。これら12箇所のテンポの内訳は、

MM = 30 8回
MM = 44 1回
MM = 56 3回

Isola Primaのオーケストラのテンポが30の数字をつけるのは、このほかにもう1箇所、4度めのCoro lontanissimoの直前の1小節のみである。

Isola Seconda a) Io - Prometeo:

この章以降は全声部に共通のテンポが適用される。

MM = 30, 36, 44, 46, 54, 56, 60, 64, 66, 72, 76, 88, 152

Isola Seconda b) Hölderlin:

MM = 84

※スコアの表記はMM = 72 だが、Carola Nielinger-VakilがAndré Richardから伝え聞いたところによるとノーノは後にテンポをMM = 84 に改めたとのこと。 *3

Isola Seconda c) Stasimo Primo:

MM = 30, 34, 44, 54, 56, 60, 63, 72, 76, 152

Interludio Primo:

ノーノがPrometeo全篇の軸をなすと言っているこの短いが非常に重要な章は、 MM = 30 (o meno) すなわち「30もしくはより遅く」のテンポで統一されている。

Tre Voci a:

MM = 30, 44, 46, 54, 56, 66, 76, 82

この章において30が出現するための必要十分条件は、一箇所の例外を除けば「バスフルートとコントラバスクラリネットが同時に鳴っていること」である。

Terza / Quarta / Quinta Isola:

第3島、第4島、第5島の三つの島(この順に楽器編成が簡素になっていく)が2~18小節の多数の断片に分解され、パッチワークのようにつなぎ合わされて出来ている章。音の次元では断片化が顕著に進行しているのとは裏腹に、テンポは第1島や第2島と比べて平坦さ、連続性を増してきている。Isola Prima、Isola Seconda a)、c) ではそれぞれ約2.8小節、2.4小節、2.2小節だった同一テンポの平均持続期間が、Terza / Quarta / Quinta Isolaでは約12.6小節と、格段に長くなる。三つの島のテンポは昇順に、

MM = 30, 44, 56, 60, 64, 72, 94

島々の断片の間隙に6度回帰してくる、Eco lontano (dal Prologo) と呼ばれる合唱のテンポは

a) 56 → rall → 30
b) 56
c) 30
d) 44
e) 64 → rall → 44 → 30 → accel → 60
f) 44

Tre Voci b:

アカペラ合唱の章。テンポはMM = 30, 60, 120の3種類で、テンポとダイナミクスとのあいだに

MM = 30 ppp
MM = 60 p
MM = 120 fff

という明確な対応関係が設けられている。30、60、120という数の並びを単純な30の倍数ではなく、初項30、公比2の等比数列だと解すれば、ノーノは30の言わば1オクターブ上、2オクターブ上のテンポを選んでいることになる。

Interludio Secondo:

低音楽器主体の4群のアンサンブルによる5分ほどの短い章。テンポの推移の系列をそのまま示す。

44 → 72 → 54 → 40 → 56 → 72 → rall → 60 → rall → 30 → 46 → 30

Stasimo Secondo:

ここもテンポの変化をそのまま示そう。

46 → accel → 88 → 46 → 74 → 46 → accel → 88 → 40 → 88 → 46 → 88 → 46 → accel → 66 → 46 → 88 → 46 →66 → 46 → accel →46 → 60 → 88 → 46 → accel → 88 → 46 → 60 → accel →88 → 46 → 30 → 46 → 88 → rall → 46 → rall → 30

この章の基調をなす MM = 88と MM = 46 のあいだを揺れ動いていたテンポが、終結部においてPrometeo全篇の主テンポであるMM = 30へと「解決」する。

*1:Doris Döpke (1987). Fragmente-Stille, an Diotima. In: Restagno, E. (ed,) Nono. Torino: EDT/Musica: 184-205.

*2:Das atmende Klarseinの楽譜(RICORDI 139378)のInstructional DVDより

*3:Carila Nielinger-Vakil (2015). Luigi Nono: A Composer in Context. Cambridge: Cambridge University Press, p. 267.

断ち切られない歌 中篇の下 7/16

海の時間のまま、つづき

後期第3期:Dopo Prometeo
  • A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibili (1984)
  • Omaggio a György Kurtág (1983/86)
  • A Pierre. Dell'azzurro silenzio, inquietum (1985)
  • Risonanze erranti. Liederzyklus a Massimo Cacciari (1986/87)
  • Caminantes.....Ayacucho (1987)
  • Découvrir la subversion. Hommage à Edmond Jabès (1987)
  • Post-prae-ludium n. 1 per Donau (1987)
  • No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij (1987)
  • La lontananza nostalgica utopica futura (1988)
  • Post-prae-ludium n. 3 "BAAB-ARR" (1988)
  • "Hay que caminar" soñando (1989)

 

Prometeoを分水嶺としてそれ以降、30の圏域は一挙に拡大を遂げる。

*

A Pierreは全篇をとおして MM = 30である。

*

Omaggio a György Kurtágの時間は MM = 30と MM = 60の両極をaccel とrall で行ったり来たりしている。

*

A Carlo Scarpaは MM = 30, 60の2種類。

*

Risonanze errantiの、Prometeo後の作品としてはかなり複雑なテンポ推移の全貌は、さきほどグラフで示したとおりである。その時のグラフをもう一度、後ろのほうに注目してよく眺めてみよう。

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おわかりいただけただろうか、

  • シャンソンのこだま:MM = 30の海に向かってひらいた小さな覗き穴
  • メルヴィル、バッハマンの詩句断片:その海に浮かぶ大きな島、もしくはその海を渉っていく船

という構図に、終盤になってある変化の生じていることが。

このLiederzyklusの背骨にあたるメルヴィルの歌は、308~325小節にかけて四たび繰り返されるdeathの語をもって途絶する。そのdeathを歌うくだりのテンポが、MM = 30に設定されている(四度のdeathの合間に挟まっている不整脈的な打楽器の連打のテンポが、MM = 30の「1オクターブ上」のMM = 60)。「死」とは、メルヴィルの島ないし船が、こだまをとおしてチラチラと垣間見えていたMM = 30の海に呑み込まれることなのである。

メルヴィルの歌の死後を引き継ぐのはバッハマンである。332~334小節のVerzweiflung=絶望の叫び(テンポはMM = 92→rall→60→accel→92)を経て、335小節から、Lentissimo, come frammento finale sospeso! と付記されたich? du? er? sie? ... の問いかけのコーダが最終379小節までつづく。そのコーダのテンポがこれまたMM = 30である(この間に現れる別のテンポは、355~356小節の突発的な強音におけるMM = 60と、最後のこだまを含む367~371小節のMM = 54のみ)。メルヴィルの死とバッハマンの絶望を踏み越えたその先にひらけてくるRisonanze erranti終局の光景は、もはや島影も船影も消えた「大いなる海の屍衣」 *1 だったのだ。

*

No hay caminos, hay que caminarはPrometeoのTre Voci bと同じ MM = 30, 60, 120で、Tre Voci bと同様テンポとダイナミクスのあいだに正の相関が認められる。

*

Caminantes.....Ayacuchoのテンポは30系列の3種類(MM = 30, 60, 120)と44系列の2種類(MM = 44, 88)の計5種類からなる。MM = 30の変異型として、meno di 30 (30より遅く)の表記が一部に使われているのが特徴(71~77、141~147、170~174、204~211、268~319小節)。ノーノのスケッチではこれについて、ca. [MM] 25!!! tra 25-30!!! と具体的な数値が示されている。 *2

*

Post-prae-ludium per Donau

 

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NEOS盤SACD (NEOS 11119) のジャケット見開きに刷られている、雑然とした構想スケッチ風のもの。これは歴としたPost-prae-ludium per Donauの出版譜の一枚めである。青い丸で囲った部分に注目しよう。

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4 PERCORSI

MM = 30 = ca 4'16"

 

MM = 60 = ca 1'05"

3 PERCORSI

 

TOTAL = ca 5'20"

と書かれている(PERCORSIとはイタリア語の経路=PERCORSOの複数形)。そもそもこの8小節×4段の楽譜をソロ・チューバ奏者がどうやって演奏するのかというと、五線譜の各段がそれぞれ異なる奏法を示していて、奏者は4種類の選択肢のうちいずれかを選んで音を出す決まりになっている。譜面上を上がり下がりしながら伸びていく色分けされた矢印が具体的な奏法選択の経路である。くだんの書き込みの意味はこういうことである。まずはじめに MM = 30のテンポで、4とおりの経路をたどって演奏せよ。次いで MM = 60のテンポ、3とおりの経路で演奏せよ。

*

Découvrir la subversion. Hommage à Edmond Jabès
Post-prae-ludium n. 3 "BAAB-ARR"

この2作品は、楽曲のごくおおまかな構成を示した見取図と奏者との事前の話し合いに基づく即興演奏によって初演が行われており、テンポまで指定されているようなまともな楽譜は書かれていない。

*

La lontananza nostalgica utopica futura

ヴァイオリン独奏とテープのための作品。Leggio I-VI の6章からなる。スコアに付された別紙の注意書きのなかで、全体的なテンポに関して

テンポは30と40のあいだで変化し 時折り不意に 72 120 144 後者はその場でのみ有効

と書かれている。

Leggio I:

楽譜の冒頭に、

TEMPO BASE ← 30 ⇔ 40 : CIOÈ ANCHE MENO 30 - SEMPRE VARIABILE (基準テンポ ← 30 ⇔ 40 : すなわち、30より遅いこともあり、絶えず変化する)

との但し書きあり。楽譜内のテンポに関する記述を順に抜き出していくと、

RALLENTANDO OLTRE 30(OLTRE=越えて)/ 40 / TEMPO BASE / 30 → 40 → 30 / 40 / 72 / TEMPO BASE / ACCELERANDO / 72 / TEMPO = 30 / 72 / TEMPO / 30 → 40 → 72 / TEMPO BASE 30 / 72 / 30 / RALLENTANDO OLTRE 30

Leggio II:

冒頭の但し書き

TEMPO BASE: 30 → 40 → SEMPRE VARIABILE 72-120-142-144

楽譜内の記述

72 / ACCELERNDO / 120 / 30(フェルマータ付)/ 72 / 30 / 72 / ACCELERANDO / 142 / 72 / 120 / 30 / 120 / 30 / 72 / ACCELERANDO / 144 / 144 / RALLENTANDO / 30

Leggio III:

テンポに関する記述なし

Leggio IV:

冒頭の但し書き

TEMPO 30 → 144 ALLA PUNTA VELOCISSIMO

楽譜内の記述

144 RALLENTANDO / 30 / ACCELERANDO / 144 / 30 / 72 / RALLENT / 30 / 144 / 180 VELOCISSIMO / 180 VELOCISSIMO / 72 / RALLENT / 30 / VELOCISSIMO / VELOCISSIMO / VELOCISSIMO / 30 / VELOCISSIMO / 30 / 144 VELOCISSIMO / VELOCISSIMO / 30 / ACCELER / 72 / ACCELERANDO / 144 / 30 / 72 / ACCEL / 144

Leggio V:

冒頭の但し書きはなし。楽譜内の記述は、

30 / ACCEL / 120 / RALL / 30 / ACCEL / 120 / 30 / 144 / 30

Leggio VI

冒頭の但し書きはなし。楽譜内の記述は、

180 / 30-40 / 180 / 30-40 / 180 / 30-40 / 180 VELOCISSIMO / 30-40 / LENTISSIMO

*

"Hay que caminar" soñando

La lontananzaのヴァイオリン独奏パートを断片化したうえで弦楽二重奏に再構成した、ノーノ最後の作品。Leggio 1~3の三章からなる。

Leggio総小節数テンポ推移
1 46 1小節に満たない MM = 72が7回挿入されるほかは MM = 30
2 66 4箇所の MM = 72(2、0.5、4、2 小節の長さ)を除き、MM = 30
3 48 1小節の範囲で5度もテンポが変わる冒頭部の極端な時間の凹凸が、ほどなくして MM = 30 の平面に収束していく。最終5小節は MM = 72、MM = 54ときて、最後はやはり MM = 30 に着地、いや着水する

**

ノーノがベッリーニワーグナーの音楽にみいだした、一個の作品よりもなお大きな海の、ノーノ自身の作品世界におけるひとつの具体的なあらわれがみえてきた。Prometeo以降のほぼすべての作品をその上に浮かべた、MM = 30の大海原である。Risonanze errantiはこの海の圏内に位置しているので、シャンソンのこだまのテンポもMM = 30だろうと容易に察しがついたのである。

*1:メルヴィル『白鯨』135章、千石英世訳(原文:the great shroud of the sea)

*2:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 308

断ち切られない歌 中篇の下 8/16

ジョルダーノ・ブルーノの30

ノーノが明らかな意図をもって選択している30という数が、ジョルダーノ・ブルーノの符丁を兼ねているというのは本当のことだろうか?

 

「ブルーノは30という数字に取り憑かれている」とフランセス・イエイツは言う。

ブルーノは三十という数字に取り憑かれている。これは『影』における基本的な数字であるばかりでなく、『秘印』には三十の印があり、『像』には三十の像、ダイモンとの結合を成立させる方法に関する著作では、三十の「結合要素」がでてくる。 *1

 ※『影』『秘印』『像』はいずれもブルーノの著作の略称

 

ノーノの蔵書に含まれるジョルダーノ・ブルーノ関連書籍7冊の内訳をみれば、ブルーノにまつわるこの事実をノーノが知っていた可能性はかなり高いとみてよさそうだ。

1 De la causa, principio e uno 『原因・原理・一者について』 *2
著者:Giordano Bruno 出版年:1985 出版社 Mursia
備考:最初のページに Venezia 7-8-85 の書き込みあり *3
2 De magia; De vinculs in genera 『呪術について』『紐帯一般について』 *4
著者:Giordano Bruno 出版年:1986 出版社:Biblioteca dell'immagine
備考:
3 Spaccio de la bestia trionfante 『傲れる野獣の追放』 *5
著者:Giordano Bruno 出版年:1985 出版社:Rizzoli
備考:
4 Giordano Bruno e la tradizione ermetica 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』 *6
著者:Frances Yates 出版年:1961 出版社:Laterza
備考:
5 L'arte della memoria 『記憶術』 *7
著者:Frances Yates 出版年:1972 出版社:Einaudi
備考:
6 Lull and Bruno *8
著者:Frances Yates 出版年:1982 出版社:Routledge & Kegan
備考:London 10-82 の書き込みあり *9
7 Antropologia e civilta nel pensiero di Giordano Bruno *10
著者:Papi Fulvio 出版年:1968 出版社:La Nuova Italia
備考:

ブルーノ自身の著作が3冊、ブルーノの研究書が4冊。後者のうち3冊はイエイツの著書である。イエイツの『記憶術』全17章のうち、ブルーノを主題とする4つの章は、その過半がブルーノの「30を基数とする魔術的な記憶術体系」の解読にあてられている。かの大著『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』のなかでもブルーノの30に関して、脚注も含めて6箇所で記述がある。*11 ノーノがイエイツの本を読んだその時点で、30という数はジョルダーノ・ブルーノの不動の背番号の地位をノーノの意識のなかに確立していただろうと想像できる。

 

ノーノが書いた文章ないしは談話、講演のなかにブルーノの名が出てくるのはかなり遅くなってからのことで、1979年11月のCon Luigi Dallapiccola初演時のプログラムノートでひとことだけ言及しているのが初出である。蔵書リストからもうかがわれるとおり、ノーノはブルーノの古くからの熱心な読者というわけではなかったようだ。

 

「天使すぎるアイドル」といえば、言わずと知れた橋本環奈のキャッチコピーであるが、「自覚なきブルーノ主義者」といえば、ブルーノの生まれ変わりのようなことを、ブルーノのブの字も出さずにしょっちゅう口にしているノーノのために私がつけた、私以外誰も知る人のいないノーノのキャッチコピーである。ブルーノとノーノの思想の類似点をこれまでにいくつか指摘してきたが――

  • 無限なるものの終りなき探究というモットー
  • 感情についての考え方
  • 死生観

――特筆すべきことにそのいずれのケースでも、ノーノはブルーノを参照する素振りをこれっぽっちもみせることなく持論を述べている。たとえば、「相反する複数の感情の同時的な生起」という、ブルーノとの近接いちじるしい論点を、エドモン・ジャベスから受けた啓示だと言って話しているといった具合に。 *12 ノーノの思想との共通性がもっとも色濃く顕れているブルーノの『英雄的狂気』を、ノーノが直接読んだ形跡も見受けられない。ノーノの中に息づいているブルーノ的精神は、本人がまったく意識していないさまざまな場面で、知らず知らずのうちに自然と滲み出てくるような性質のものなのだ。ノーノのブルーノ性はもともとノーノに具わっていた資質だったか、あるいはノーノが本当にブルーノの生まれ変わりだったかのどちらかである。後者であれば、ブルーノの本はノーノが四百年くらい前に自分で書いたものなわけだから、内容はすべて記憶の引き出しに収まっていて、今更改めて本屋で買うまでのこともなかったのかもしれない。

 

Con Luigi Dallapiccolaのプログラムノートでノーノがブルーノについて初めてふれた1979年末頃、自覚なきブルーノ主義者の関心を自覚的にブルーノへと向けさせるなんらかのきっかけがあったようだ。例によってそれはカッチャーリの影響によるものだと仄めかしている資料もある。「…ノーノの作品における新しいテキストの選択、そこでは友人であるマッシモ・カッチャーリの影響が明らかだ。ヘルダーリンリルケムージルユダヤ神秘主義ベンヤミン、ジャベス、ジョルダーノ・ブルーノ、ニーチェギリシャ神話と悲劇の思想」。 *13 いずれにせよほぼ確かなのは、ノーノがブルーノ入門のためにまず目をとおした本が、ブルーノによって書かれた本ではなく、ブルーノについて書かれた、主にイエイツによる本だったということである。ノーノが所有している7冊のブルーノ本のうち、ノーノの書き込みによって本の取得時期を特定できるのはブルーノの『原因・原理・一者について』(1985年8月)とイエイツのLull and Bruno(1982年10月)の2冊だけだが、ブルーノ著の3冊は出版年が1985年もしくは86年であるから、ノーノがこれらの本を手にしたのは当然それ以降ということになる。いっぽう、1981年か82年に書かれたと推定されているノーノの備忘録のなかには、イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』の内容に関する覚え書きが既に含まれている。 *14 イエイツの没後すぐの1982年に刊行された拾遺文集的な本であるLull and Brunoより先に、ノーノがイエイツの代表作をイタリア語訳で読んでいた、というのはごく自然な物の順序である。以上の断片的な情報を繋ぎ合わせると、ノーノがイエイツの本を介して30とブルーノのつながりを知ったとしたらそれがいつ頃のことだったかの見当もおおよそついてくるが、ノーノの譜面上に30のメトロノーム記号が現れはじめる時期は、たしかにそれとほぼ符合している(Frgmente - Stille, An Diotimaの作曲期間――1979年7月から1980年1月と楽譜の最後に記されている――までにノーノがイエイツのブルーノ本を読んでいたかどうかが分かるとよいのだが、今ある資料だけでそこまでの年代推定は難しい)。

*

ブルーノにとって30とは具体的にどういう意味をもつ数だったのだろうか。イエイツはこう言っている。

私の知る限り、彼が自分の著作で「三十」の使用について触れたのは『ルルの術の建築的概要』(De compendiosa architectura artis Lullii) においてであり、この著作は『影』や『キルケ』と同年にパリで出版されている。そこでブルーノは<善>、<偉大>そして <真実> といったルルの <神の品格> を列挙したのち、これらをカバラの <セフィロト> へ融合させていく。

 

これらすべてを [すなわちルルの <神の品格> を] ユダヤカバラ主義者たちは十に減らしたが、われわれは三十に…… 

 

このようにブルーノは、自らの術が基盤としている「三十」がルルの <神の品格> であり、しかも、<セフィロト> としてカバラ主義化されたものであると考えている。彼はこの箇所で、キリスト教的、三位一体論的に <術> を用いるルルを退けているのだ。彼の語るところによれば、<神の品格> は神聖四文字(the Tetragrammaton)にこよなく表されており、この四文字をカバラ主義者は四つの基本方位に融合させ、さらにそれを連続的な増殖によって、宇宙全体へと融合させるのだという。

なぜ彼がこの前提から「三十」にたどりつくのかは定かでないが、この数はとりわけ魔術と深い関連性があったらしい。……(以下、30の魔術的性格を伝える歴史的資料の紹介がつづく) *15

 

 イエイツによるブルーノの引用はえらく半端なところで切れているようにみえてどうにも続きが気になるので、英訳版の該当箇所を参照してみた。Which the Jewish Cabalists reduce to and clothe in ten Sephiroth, and we to thirty, though numbering them is not the same as explaining them. *16 なるほどたしかに省略しても構わないような、ちょっとした補足がくっついているだけであった。

ブルーノ本人がはっきりした説明をしているわけではないが、彼の象徴的な数体系のなかで30という数は、カバラ主義者にとってのセフィロトの10に匹敵する重要な位置を占める数であったらしい。

 

その神的にして魔術的な基数30が、ブルーノとその思想を象徴する数として、ノーノの音楽のメトロノーム記号に取り込まれている――この推論が依拠しているのは、客観的な速度表示の機能を担うべく無菌化された量的な数の群れのなかに、具象的イメージで色づけされた質的な数が混入することがあり得るという一般的な前提である。実際にそういうことが起きていることを示すたしかな証拠がPrometeoの中にある。30の反対の極にあって、Prometeoのなかでもっとも速いテンポを指定している152という数がそれである。

*1:フランセス・イエイツ『記憶術』、玉泉八州男監訳、水声社、247~248頁

*2:http://www.luiginono.it/it/node/13192

*3:http://www.luiginono.it/it/node/20464

*4:http://www.luiginono.it/it/node/11386

*5:http://www.luiginono.it/it/node/12689

*6:http://www.luiginono.it/it/node/9934

*7:http://www.luiginono.it/it/node/9652

*8:http://www.luiginono.it/it/node/8312

*9:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 100.

*10:http://www.luiginono.it/it/node/10050

*11:イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』、前野佳彦訳、工作舎、288、293~294、308、399、451~453、711~712頁

*12:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 52-53.

*13:Angela Ida De Benedictis & Veniero Rizzardi (2007). Introduzione. In: Nono, L., La nostalgia del futuro. Scritti scelti 1948-1986. Milano: il Saggiatore: 9-25, p. 16.

*14:http://www.luiginono.it/it/node/21074

*15:イエイツ『記憶術』、248頁

*16:Giordano Bruno (2015). Four works on Llull (Translation and Introduction by: Scott Gosnell). Huginn, Munnin & Co., p. 49.

断ち切られない歌 中篇の下 9/16

マンフレッドの152

「私の音楽は空間とともに書かれるものである」 *1 と言うノーノは、その言葉のとおり、1984年ヴェネツィア、サン・ロレンツォ教会でのPrometeo初演につづく翌85年のミラノでの再演にあたって、ミラノの演奏会場(Ansaldoという重機製造会社の廃工場)の音響特性に合わせたスコアの大幅な改訂を行っている。その際新たに付け加えられた要素の一つが、シューマンの『マンフレッド序曲』冒頭の一小節の引用であった。 *2

 

それがVersione 1985のPrometeoに初めて出現するのは、210小節 *3 からなる序章Prologoの終わり近くの第202小節である。

 

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ノーノがマンフレッド序曲第1小節からPrometeoへと移植したのは、リズム、ダイナミクス、テンポの3つの要素である。原曲の和音構成は継承されていない。リズムとはすなわち、シューマンが八分音符を2つずつタイでつなぐ書き方で表現しているシンコペーションのことである。ダイナミクスとはクレッシェンド(原曲ではフォルテからの)のことである。そしてテンポとは、Rasch (急速に)の横にシューマンが書き添えたメトロノーム記号の「四分音符=152」である。

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シューマンの譜面

 

Lydia Jeschkeは、Prometeoのなかにマンフレッドの引用箇所を計10箇所(9+1箇所)特定している。 *4 Prologoで1箇所、Isola Seconda a) Io - Prometeo で5箇所、Stasimo Primo で3+1箇所。シューマンの原曲では dah-dah-dah という激しい三連打がなんといっても印象的だが、この特徴は初回と最後の引用でしか再現されていない(他は単発のdah、もしくはdah-dah)。和音も異なれば三連打でもないものを、ではなにをもってマンフレッド序曲からの引用だと同定することができるのか。決め手となるのは、メトロノーム記号の数の一致である。

番号テンポ所在開始時刻(col legno盤 / EMI盤)
I 152 Prologo 202小節 19:16 / 19:10
II 152 Isola Seconda a 26小節 02:47 / 02:38
III 152 Isola Seconda a 66小節 06:25 / 06:08
IV 152 Isola Seconda a 104小節 10:08 / 09:34
V 152 Isola Seconda a 107小節 10:31 / 09:53
VI 152 Isola Seconda a 110小節 11:00 / 10:17
VII 152 Stasimo Primo 29小節 03:26 / 03:05
VIII 152 Stasimo Primo 35小節 03:59 / 03:34
IX' 63 Stasimo Primo 38小節 04:31 / 04:02
IX 152/63/152 Stasimo Primo 41~43小節 05:05 / 04:29

みてのとおり、10箇所すべてのテンポが出典元と同じMM = 152である、と思いきや、2箇所に63という別の数が混ざっているが、これはマンフレッド序曲2小節め以降のLangsamにシューマンが付したメトロノーム記号に由来する数である。Prometeoの全体を見渡してみても、この二つの数は以上の10例しか出てこない。Prologo、Isola Seconda a) 、 Terza/Quarta/Quinta Isola では、混同を防ぐためだろうか、63を1だけずらした MM = 64 のテンポが用いられている。つまりPrometeoの譜面上で152および63という数は、速度を表示する量的側面と、マンフレッドのために割り当てられたIDとしての質的側面の両方の性格を兼ね備えているのだ。

 

1985年のミラノ版において後から付け足されたものだとはとても信じられないほどに、マンフレッドはPrometeoの劇的構成のなかにごく自然に組み込まれている。

 

Non sperderla=「それ(かすかなメシア的力)を失ってはいけない」という台詞とのあいだにマンフレッドが取り結んでいる裏表の関係が大きな鍵である。Prologoの末尾、マンフレッドの dah-dah-dah が初めて鳴りわたり、直後にNon sperderlaという言葉が初めて歌われる。Stasimo Primo(全64小節)の終盤の41~43小節をもってマンフレッドは打ち止めとなり、続くInterludio primoの冒頭で、Prologoの末尾以来ずっと沈黙していたNon sperderlaが再び歌われる。

 

Manfred - Non sperderla ―― Manfred - Non sperederla

 

マンフレッド初登場の経緯をさらに詳しくみてみよう。Prologoは、ソロ歌手がソプラノ、アルト、テノールの三人体制をとっている前半部と、ソプラノ二人の後半部とに二分される。「ガイア」の歌声とともに始まる前半が原初の混沌の相だとすれば、後半部のテーマはカッチャーリが『必要なる天使』で書いていたような原初の分離divisio primaevaである。

あの瞬間において、宇宙の対極が切り離されるだけではなく(絶対の悪と完全な愛)、より深く神秘的なもうひとつの切断が起こる。すなわち人間の決断の時間、生成し変容する時間と、あらゆる天使の永遠の現在とが分離するのである。まるで共に連れ立って罪の探求に向かった天使と人間が、互いに理解しあえないほど異なる時間的次元のなかで最後の日を待つかのように。 *5

分離の相は、声と器楽の対比というかたちで具現化される。ソプラノ、アルト、テノールからソプラノ2人への移行によってさらに浮力と透明感を増した「天使的な」歌唱と、重力のくびきに繋ぎとめられたような重苦しい響きの「人間的な」器楽、これら二つの要素が交互に現れる構成。マンフレッドは器楽の系列の終端に現れ、それに対する呼びかけの声――いわば天使が別れ際に残した最後のメッセージ――がNon sperderlaである。

 

マンフレッドの終わりはInterludio Primoの始まりである。Interludio PrimoがPrometeo全篇の要だということは、ノーノ本人だけでなく、André Richardが、Hans Peter Hallerが、Jürg Stenzlが、皆が口を揃えて言っていることだ。その意味は、ノーノがPrometeo制作の初期に書いた全体構成のラフスケッチを見ればよく理解できる。

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※ 文献 *6 に転載されているノーノの図を簡略化したもの

 

この段階では、古代ギリシャ悲劇の筋立てとの類似性が一瞥してみてとれると同時に、ノーノがつとに好む対称性のかたちが明瞭に表れている。鏡像をなす前半部(序章PROLOGO+3章)と後半部(3章+終章ESODO)のあいだ、全体のちょうど中央の位置に置かれるのが間奏曲(Interludio)である。 FINE DRAMMA INIZIOというノーノの添え書きは、ここで終わりを迎えるドラマがあり、なおかつ、ここから新たに始まるドラマがあるということを表しているのだろう。

 

Prometeoの構成はその後各章が「島」になって群島化し、大幅な変貌を遂げたが、基本的な骨格は初期構想のまま維持されているとみてよい。完成形においてもInterludio Primoはやはり、Prometeo全曲の対称軸なのである。

  • Prologo, Isola 1, Isola 2a, Isola 2b, Isola 2c (= Stasimo 1)
  • Interludio 1
  • 3 voci a, Isola 3-4-5, 3 voci b, Interludio 2, Stasimo 2

上の図式に照らし合わせてみれば明らかなように、マンフレッドの登場場面はPrometeoの前半部を正確に縁取る格好になる。Non sperderlaとNon sperderlaのあいだに挟まれてもいる前半部の内容をごくごく大雑把に要約すれば、かすかなメシア的力を喪って地上をさまよう者たちの群像劇、といったところだろう。マンフレッドとは、この「苦悩に満ちた」Prometeo第一部のイメージ・キャラクターのような存在だと言えるかもしれない。

 

ここで再びメトロノーム記号に目を向けてみよう。Interludio PrimoにおけるFINE DRAMMA INIZIOの劇的展開に対して、これに呼応する劇的な数の変化が五線譜の余白で生じている。Stasimo Primoの終盤で鳴り止むマンフレッドのMM = 152から、Interludio Primoの冒頭に回帰してくるNon sperderlaのMM = 30(Interludio Primoは全篇がMM = 30)への、152→30の推移である。このことを念頭に置きつつ、マンフレッドの小節の後のテンポの遷移の一覧を眺めてみると、

番号テンポ次小節のテンポ所在
I 152 30 Prologo 202小節
II 152 30 Isola Seconda a 26小節
III 152 72→30 *7 Isola Seconda a 66小節
IV 152 44 Isola Seconda a 104小節
V 152 30 Isola Seconda a 107小節
VI 152 64 Isola Seconda a 110小節
VII 152 44 Stasimo Primo 29小節
VIII 152 30 Stasimo Primo 35小節
IX' 63 30 Stasimo Primo 38小節
IX 152/63/152 56 Stasimo Primo 41~43小節

4/9ないし5/9の割合で、152の次に来る数は30になっている。先ほどの152→30がドラマをなぞる動きだとすれば、これらの152→30はドラマを先取りする動きである。この長大なるTragediaの中間点で決定的な潮目の変化が訪れることは、音符の通り道の傍らに佇むメトロノーム記号の寡黙な数が演じるパントマイムによって、既に前半部の早い段階から予告されていたのである。

 

マンフレッドの152の相手役を務めている30とは、それでは一体何者だろうか。マンフレッドとの絡みに限らず、Prometeo全篇のあちこちにいかにも意味ありげな仕方で登場し、Prometeo後のほとんどの作品の基準テンポの座に収まっている、この30という数。 多くの機械式メトロノームの最低値である40よりもなお遅いテンポを使おうというときに、たしかに30はごく自然な選択肢のひとつであるし、あるいはまた、こういうキリのいい数のほうがライヴ・エレクトロニクスとの同期をとりやすいといった現実的な理由ももしかしたら背景にあるのかもしれないが、とはいえ、その程度の説明で済ませるにしては、ノーノの30推しはあまりにも徹底している。振り返ってみると、1980年初演のFragmente - Stille, An Diotimaでは、序盤にMM = 36とMM = 72の二つのテンポの交替によって曲が進行していくような局面もあった。あの頃はまだ、30より大きく40よりも小さい別の数の出る幕も残されていたのである。Prometeo後にはもはやそういうことも全くなくなり、30の完全なる寡占状態が出来する。万事においてものごとの固定を嫌うノーノが、こうも判で押したように同じテンポを使いつづけるのはまさに異例のことで、30という数がノーノにとって単なる量でないことを強く示唆する証拠だとみることができる。ノーノにそこまでの思いいれを抱かせるに足る30の象徴性とはなにかと考えると――ジョルダーノ・ブルーノの30しか思い当たるふしがない。

 

丘の上の漂泊者

30と152という、二つの質的に異なる象徴数を介して、ジョルダーノ・ブルーノとマンフレッドという二人の人物がPrometeoの作品世界に参入してくる。かれらはひとことで言えばともに「漂泊者」であるから、Prometeoに何人も登場する漂泊者の系譜のどこかに位置づけられることになる。カッチャーリが編纂したリブレットに直接引用されている人物に絞って登場順に並べると、

  1. イオ(Isola 2a)
  2. ヒュペーリオン(Isola 2b)
  3. コロノスのオイディプス(Isola 3)
  4. コロンブス(Isola 4)
  5. ニーチェのDer Wanderer(Isola 5)

この骨格に肉付けしていくことによって、Prometeoの作品世界を俯瞰する一葉の地図ができあがる。

 

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※岸由二『いのちあつまれ小網代(木魂社)』巻頭の地図への落書きによる

 

上の地図の全般にわたる解読は来たるべきPrometeo論の日にとっておくとして、いまここでの本題に関わる要点にだけふれておこう。第5島のニーチェのDer Wandererが歩いている高台から見下ろすと、東西の両方向に海がひろがっている。西はムージル『特性のない男』のウルリヒとアガーテの「愛の海」、東はジョルダーノ・ブルーノの「無限の海」である。

 

西の海は、Prometeoのリブレットの一角をなすIl maestro del giocoという詩――これは基本的にヴァルター・ベンヤミンのテキストを下敷きにしている――の第X連末尾に、「愛の海」を語るウルリヒの台詞の要約的抜粋をさりげなく忍び込ませることによってカッチャーリが、東の海は、30というメトロノーム記号のこれまたさりげない象徴的使用によってノーノが、それぞれの思惑にしたがいこの世界に導きいれた海である。

 

眼下に横たわる東西の海は遠目には互いによく似た大海原であるが、ひとつここからでもはっきりと分かる相違点がある――そう、船影のあるなしだ。幾筋もの航跡が交錯する東のブルーノ=ノーノの海とは打って変わって、西のムージル=カッチャーリの海の洋上には、五時代説話の黄金時代の海のように、船らしきものの姿がただの一艘も見当たらない。これは二つの海のしきたりの違いによるものである。

 

海岸ではたいてい何かしらの立て札を見かけるものだ、遊泳禁止だとかくらげに注意だとか、この海であわびやとこぶしを採取することは禁じられていますだとか。西の海の海岸にもやはり立て札があって、そこにはこう書かれている――「おお愛の海よ、それを知るのは溺れるものだけで、その海上を船でゆく者ではない!」。 *8 この静かなる大洋に船を繰り出し、海面に航跡の傷をつけてまわるような輩は、帰航した途端必ずや懇々とお説教をされる羽目になるだろう、意欲的すぎる意志があなたの邪魔になっているのです、云々と。

 

東の海の海岸の立て札には全く別の文句が書かれている。

 

Caminantes no hay caminos hay que caminar

 

端的に言ってこれは航海者のための心得である。この波立ち騒ぐ大海のほとりで、何をするでもなくただボーと瞑想に耽っているような輩はたちまちケツを引っぱたかれ、熱い一喝を浴びせかけられることになる、平和な原理からは何一つ生じることはありませんよ、云々と。

 

カッチャーリが描いたPrometeoのシナリオにブルーノ的な要素を持ち込むノーノの翻案によって生じた、西と東の対照的な世界観のせめぎあい、これは、カッチャーリとノーノという二人の個性がそこにおいて交差する共作ならではの、Prometeoの大きなみどころである。だがそのへんの話をするのはまだだいぶ先のことだ。今のペースでいくといったいいつのことになるやら、来年か、それとも再来年か……などと行く先をブツブツと案じつつ、ニーチェの高台を後にして、東の海へとつうじる斜面の小径を、下草をガサガサとかき分け進んでいく。径を降りきった先の海岸で出迎えてくれるのは例の立て札である。

 

Caminantes no hay caminos hay que caminar

 

さてどうしようか。東の海の来訪者にここでの作法を教えてくれる親切な立て札の文句に神社の由緒書きみたいな説明文をつけることで、ブルーノ=ノーノの海の自然誌の第1章とすることにしようか。

*1:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*2:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 143-155.

*3:先ほど述べたように、Prologoではオーケストラ・声と独奏奏者群の2種類のテンポが並走している。テンポが独立ということは必然的に小節数も異なる。210はオーケストラと声の場合で、独奏奏者のほうの総小節数は153。

*4:Lydia Jeschke (1997), p. 150.

*5:マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、93頁

*6:Lydia Jeschke (1997), p. 94.

*7:MM = 72の休止一小節の後、MM = 30のバスフルートとコントラバスクラリネット一小節が続く。

*8:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「アガーテはウルリヒの日記を見つける」

断ち切られない歌 中篇の下 10/16

「ブルーノ・ノーノの海」縁起

あれはもともと、壁に書かれた落書きであった。1987年3月、Enzo Restagnoを聞き役にとり行われた長いインタビューの中でノーノが約2年前にトレドの修道院の壁に見たその言葉、Caminantes no hay caminos hay que caminarの意味を問われたとき、ノーノはこんな受け答えをしている。

È il Wanderer di Nietzsche, della continua ricerca, del Prometeo di Cacciari. È il mare sul quale si va inventando, scoprendo la rotta. *1

*

ニーチェの漂泊者、その不断の探究。カッチャーリのプロメテウス。それは、その上で航路がつくり出され、探し出されていく海です。

 

上の短いコメントは、これに先立つ約10年の期間をとおしてノーノのなかに堆積していった4層ほどの思考の地層が顔を覗かせている、地質マニアの興味を惹くちょっとした崖のようなものである。下のほう、すなわち古いほうから順に、

  • 第四層 Caminantes no hay caminos hay que caminar
  • 第三層 海
  • 第二層 ブルーノ
  • 第一層 ニーチェ

 

第一層 ニーチェ

Prometeo誕生のきっかけになったのが、ノーノとカッチャーリとのあいだで1975年ごろから続いていた日々の対話だったということは、二人がともに回想のなかで認めていることである。その対話の中身について、ノーノはこう話している。

私とカッチャーリの起点となったのはニーチェベンヤミンでした。彼らをとおして私たちは、それによって既存のものを転覆させる新たな「法」を常に探し続ける漂泊者としてのプロメテウスun Prometeo-Wandererを見いだしたのです。言うなれば、終わりなきプロメテウスの連続性 la continuità prometeica senza fine です。 *2

カッチャーリとノーノの出会いは1960年代の半ば、ベンヤミンに触発されて『新しい天使』という雑誌を発刊したカッチャーリが、「イタリア共産党を代表する知識人のひとり」であったノーノに雑誌についての意見を聞きに行ったときにまで遡る。だがその当時のノーノは、ベンヤミンの思想に対していかなる好意をも示す余地を具えていなかったとカッチャーリは振り返っている(ノーノは「その種の著者をむしろ軽視する<<正統派> >マルクス主義の重しによって <<抑止>> されていたのです」 *3 )。

 

1975年のAl gran sole carico d'amore初演後に訪れた模索期に、ノーノはそれまで食わず嫌いにしていた「非マルクス主義的な」作家や思想家に対する不寛容を、カッチャーリに薦められた本などを読んで少しづつ克服していった。最後まで残っていたノーノの意識の防壁を最終的に崩壊へと導いたのは、ニーチェの読書体験だったという。「ニーチェを読んだことでついにノーノはあらゆる誤解を払拭しました。その時以降、ともに本を読み、議論を交わし、音楽を聞くわれわれの日々のやりとりは非常に濃密なものになり、1976年にはPrometeoの構想の周りを旋回するようになっていったのです」。 *4

 

それから2年後の1978年に、ノーノはニーチェのDer Wandererを「つねに新しい道を見つけだし、立ち止まることのない」者だと評している。 *5 さらに2年後の1980年、Fragmente - Stille, An Diotimaの初演に際して開かれた討論の席で、漂泊者のあるべき姿についてこう語っている(この時はWandererとしてベンヤミンニーチェの二人の名を挙げている)。

漂泊者――固定された瞬間はなく、常になにかを探し求めている。  (……) 常になにかを探し求めている漂泊者であって、単なる型にはまった図式だとか、目標を与える者ではない。人はそうやって、歩いていかなくてはいけないのです。 *6

ノーノがPrometeoに託した不断の探究(continua ricerca)、終わりなき探究(ricerca senza fine)のテーマは、(Prometeoへとつうじるカッチャーリとの対話の直接の引き金になったという意味では)Prometeoの産みの親と言っても過言ではないニーチェの漂泊者像を核として育っていったのである。

 

第二層 ブルーノ

ニーチェ的な漂泊者の探究の過程にはどうして終わりがないのか。その理由を教えてくれるのがブルーノである。

 

80年代のノーノがよく口にするinfiniti possibilii 無限の可能性というキーワードは、ブルーノの「無限」とムージルの「可能性感覚」を組み合わせたものらしい。

......per considerare altre possibilità altre probabilità (Musil), rispetto a quelle abitualmente scelte e date, altri pensari musicali altri spazi infiniti, alla Giordano Bruno. *7

*

習慣的に選ばれたり与えられたものに対して、別の可能性、別の蓋然性をかんがえること(ムージル)、別の音楽的思想、ジョルダーノ・ブルーノのような別の無限の空間を、かんがえること

 

「Il lavoro di ricerca è infinito, infatti 探究の営為はほんとうに限りのないものである」 *8 のは、対象が孕んでいる無限の可能性、要するに対象の無限性が、探究の完遂を原理的にありえないものにしているからである。この考え方は、蔵書リストから判断するにおそらくノーノは読んでいない『英雄的狂気』のなかでブルーノが説いている、「無限なものは、無限であるために、無限に追究されるのが、適切で自然なのです」 *9 という基本的態度とまったく同じものだ。

 

Caminantes...Ayacuchoの歌詞に選んだブルーノの詩を、「それはまさしくla sconfinatezza del continuo 連続的なものの際限のなさです。ジョルダーノ・ブルーノの無限の宇宙の連続性です」 *10 と簡潔に評した時ほど、ノーノの中に宿るブルーノの魂が色濃く滲み出たことはなかっただろう。ブルーノは、そしてノーノも、デカルトのようには考えなかった。デカルトにとってはただ神のみが、無限の呼び名に値する存在であった。宇宙が涯のない広大な拡がりであったとして、それは無限ではなく「単に無際限なものと見なすべきである」 *11デカルトは説く。無限性と連続性をデカルトは厳然と峻別するのだ。

 

ブルーノもまた神と宇宙を区別してはいるが、それは「有限と無限との別ではありません」 *12 と明言している。「神は全世界にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなかで無限かつ全的に存在している」。 *13 それゆえに神は「全的に無限」=totalmente infinito *14 である。「宇宙には縁も終りもないが、宇宙から採り出すことのできるその各部分は有限なものである」。 *15 宇宙のこうしたありかたを、ブルーノは神の「全的な無限」と区別して「全体の無限」=tutto infinito *16 と呼ぶ。そうなのだ、ブルーノにとっては宇宙もまた、神とは様態の異なるある種の無限なのである。宇宙のことを「延長的無限」 *17 とブルーノが呼ぶこともある。要するに「全体の無限」とは、神の「全的な無限」を空間に展開したかたちである。それは具体的には、際限のないひとつの連続性のことである。

 

宇宙の実体である「空間という一つの連続した無限」 *18 のなかには、数えきれない有限な諸事物が散在している。これら無数の(無限個の)諸事物は、「連続した無限ではなく、分散した無限」 *19 だとブルーノは言う。

 

そして最後に、われわれ有限者が、この一なる宇宙のなかに鏤められた諸事物を経巡る行程は、空間の拡がりが無限であり、かつ事物が無数に存在するがため、必然的にきりなくつづく。それは「無限の力」 *20 、「つねに所有すると同時につねに求め続ける無限の熱意」 *21 によって駆動される無限の探究であるとブルーノは言う。一者たる神の無限性が宇宙に反映され、宇宙のなかに存在する諸事物に反映され、最終的に「la sconfinatezza del continuo 連続的なものの際限のなさ」の主観的体験となって、ひとりの有限者の意識に届いてくる。連続性とは、ブルーノやノーノにとって、無限性が有限性の上に落とした翼影である。その連続性を断ち切ることは、無限から目をそむけることと同義だ。無限の可能性を渉猟する漂泊者は、だから、立ち止まることなく「常になにかを探し求めて歩いていかなくてはいけない」。もちろん、ひとりの人間の有限な生の範囲内で、無限の宇宙が蔵するすべての可能性が汲み尽くされることなどあろうはずもないが、「神的な美が、知性に対して、知性の視力の地平線が広がるかぎり、現れるだけでじゅうぶんなのです」。 *22

 

第三層 海

海はノーノにとって、ブルーノ的な無限空間を特徴づけるla sconfinatezza del continuoを体現する象徴的空間である。海は一面の水の世界である、そして水の本質とはノーノによれば「ひとつの連続性」 *23 である。肝腎なのはその連続性の質だ。はっきりとノーノには無いと言えるのは、海を一様で均質な空間として捉えるようなものの見方、連続性をあっさり一様性へと短絡させるような考え方である。「Prometeoへ到る作品群において海は、時間的、空間的な無限の次元の只中で生じる連続的な変容の生き生きとした象徴となる」 *24 、Marinella Ramazzottiはそう指摘している。1984年のとある対話のなかでノーノがヴェネツィアの海について語った、「非対称的で、非周期的で、中心もなければまとまった単位もなく、常に動きのなかにある」 *25 という発言によく示されているように、ノーノが海に感じとっているのはいつでも、単なる連続性(continuità)ではなく、際限のない変化の連続性(trasformazione continua)であった。

 

海は一様だよ派の人々は、もっと長たらしい名称を付けるとすれば連続的なものは必然的に一様になるよ派の人々は、海(水)の均質化作用に抗うために島(陸)による連続性の確固たる切断が必要だと考えているらしいが、海が一様だなんてのは言いがかりだよ派のノーノは逆に、無限の可能性を有限の現実性に貶める不動の陸地の忌まわしき固定化作用に抗するために、海の動的な連続性を必要とする。海の平板さに欠点ではなく美点を見いだすのは、海を愛する人すべてに共通の資質である。平板なものは本当に魅力的だ、「山あり谷あり」の起伏のなかでは埋没してしまう微かな差異を見ること、聞くことを可能にしてくれるから。しかもその差異は、海においては定まった形姿に固定されずに、絶え間なく、尽きることなく、千々に変転していく。海というひとつの連続する空間において、差異は消滅するのではなく繊細かつ動的になるのだ。くだくだと理屈を並べてきたが、要するにこういうことである。

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梶井照陰写真集『NAMI』(リトル・モア)より(これが一様に見える奴ってのはどこに目がついてんだろう?)

 

この素敵な一枚の写真が捉えている海の姿は、液相にある水の動態がもたらしたものだ。陸上で飼い馴らされているあいだは川になってクロノロジカルな時間のごとく一方向に流れ下ってみせたり、器に収まって擬似的に固体化したり複数化したりしていた水が、固有の輪郭をもたず、固有の方向をもたず、固有の名をもたず、切断されることなく、混ざり合い、流動をつづける、液体本来の特性なき特性を十全に発現する場。そういう場としての海を、またそういう様態としての水を、ノーノはニーチェが高地の冷涼な空気を欲するように、生理的レベルで欲している。まさしく渇望している。その思いを、ノーノが創った音の聴き手はノーノと共有しているのでなくてはならない。メルヴィルが『白鯨』のChapter 1で描いた人間の生態が、ノーノの音景を旅する際の良い手本になる。

Let the most absent-minded of men be plunged in his deepest reveries -- stand that man on his legs, set his feet a-going, and he will infallibly lead you to water, if water there be in all that region.

もっとも放心状態になりがちな人間をもっとも深い瞑想状態に置き、そして彼を立たせてその足を動かせてみよ。その地方に水のあるかぎりは、かならず水の辺に歩むだろう。

*

They must get just as nigh the water as they possibly can without falling in.

かれらは溺れぬかぎり、できるだけ水に近づき迫りたいのだ(阿部知二訳)

 

陸から海へ、より流動的でよりしなやかな piú fluida ed elastica *26 もののほうへ。Ascoltaの呼び声は、いつでも海の方角から聞こえてくる。Prometeoの決定的な場面で二度唱えられるNon sperderla(それを失ってはいけない)の「それ la」とは「かすかなメシア的な力」のことであるが、ノーノの作品世界を訪れた者が決して失ってはいけない「それ」とは、ear for the sea-surge/潮騒を聞き取る耳 *27 である。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 72.

*2:Ibid., p. 70.

*3:Entretien Marco Biraghi avec Massimo Cacciari (1987).

*4:Ibid.

*5:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 92-93.

*6:Kay-Uwe Kirchert (2006). Wahrnehmung und Fragmentierung: Luigi Nonos Kompositionen zwischen <<Al gran sole carico d'amore>> und <<Prometeo>>. Saarbrücken: Pfau, p. 207, 209.

*7:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*8:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*9:ジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、98頁

*10:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 73.

*11:アレクサンドル・コイレ『閉じた世界から無限宇宙へ』、横山雅彦訳、みすず書房、85頁

*12:ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』、清水純一訳、岩波文庫、63頁

*13:同上、64頁

*14:同上、64頁

*15:同上、64頁

*16:同上、64頁

*17:同上、63頁

*18:同上、103頁

*19:同上、103頁

*20:ブルーノ『英雄的狂気』、157頁

*21:同上、258頁

*22:同上、83頁

*23:Laurent Feneyrou (1993). Introuction. In: Feneyrou, L. (réunis, présentés et annotés) Luigi Nono, Écrits. Paris: Christian Bourgois éditeur: 7-20, p.16.

*24:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 157.

*25:1984年4月8日、Werner Lindenとの対話のなかでの発言。Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226.

*26:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 13.

*27:エズラ・パウンドのCanto VIIの一節。Guai ai gelidi mostriのプログラムノート にカッチャーリが引用している。

断ち切られない歌 中篇の下 11/16

「ブルーノ=ノーノの海」縁起、つづき

第四層 Caminantes no hay caminos hay que caminar

長女のSilviaさんとともに行ったスペイン旅行の途次に立ち寄ったトレドの修道院 Monasterio de San Juan de los Reyes の壁にノーノが例の言葉、Caminantes no hay caminos hay que caminarをみつけたのは1985年のことだとする文献 *1 *2 と、86年だとする資料 *3 がある。いずれにせよ、84年9月のヴェネツィアでのPrometeo世界初演よりは後のことで、翌年9月のミラノでの再演の少し前か、もしくはちょい後である。

 

Silvia Nono談 *4 によれば壁に書かれたただの落書きだというこの言葉がノーノの心を電撃的に捉えたのは、これに先立つ10年ほどのPrometeo制作の日々をとおして、漂泊者とその旅のありかたについて考えを深めていった、一層から三層までの蓄積があったからこそである。Restagnoのインタビューで語っているとおり、ノーノはそれを航海の心得として受けとった。no hay caminosという前段の文句は、だから少なくともノーノにとっては、道がある(yes)か、もしくはない(no)という固定された二分法が罷り通っている陸上における、「道がない」ほうの絶望的光景を指しているのではなくて、可能な経路(possible)が無限にあってあらかじめ固定された「道がない」海の上の不安な情景を表しているのである。終わりなき探究(ricerca senza fine)のモットーは、だから時にはinquietudine senza fine *5(終わりなき不安)と言い換えられることもある。

 

いっぽう後段のhay que caminarに関しては、ノーノが1980年に話していた言葉をそのまま注解として聞くことができる。「常になにかを探しつづける漂泊者であって、型にはまった図式や目標を与える者ではない。漂泊者はそうやって歩いていかなくてはいけない」――まるで未来のスペイン旅行からタイムワープして帰ってきたノーノがしゃべっているかのような台詞ではないか。これを前半の大海原の情景と組み合わせてみれば、「無限なものは無限に探究すべし」の飽くなき熱意をもって果てしない世界の広がりを渉猟しつづける、能動的なブルーノ主義者の標語が浮かび上がってくる。

 

トレドの壁の言葉におおいに感銘を受けたノーノは、その文言を三つに分解して表題に織り込んだカミナンテス三部作の構想を練り、第一作Caminantes...Ayacuchoの歌詞にブルーノの詩を選ぶ。

 

Caminantes...Ayacuchoは1987年4月25日に初演されたが、この曲のそもそものルーツはじつはずっと古くて、ミュンヘン・フィルから委嘱の手紙が届いたのは1982年(手紙の日付は2月26日)のことである。当初の締め切りは1984年11月末だった。おそらくはPrometeoの制作で手一杯だったため、それが遅れに遅れて1985年の初演予定が86年になり、その刻限も過ぎた87年の4月7日にようやく曲が完成して、同月末の初演に漕ぎ付けたのだった。

 

この作品にブルーノの詩を使おうという考えをノーノはいつごろから抱いていたのだろうか。委嘱を受けてすぐの82年春にノーノが書き留めたごく簡単なメモには、編成に関してvoci e str (umenti) と書かれており、管弦楽団からの委嘱にも拘わらず、ノーノがはじめからなんらかのかたちで声を用いるつもりだったことがみてとれる。ブルーノの名は、1985年に書かれたと推定される4つの作品の構想リストのなかにはじめて現れる。

  1. 3 canti, München, G. Bruno, Blech, coro, Fl, P, N, D, Claudio, 1986, Berlin
  2. 1987 Berlin
  3. Manfred, opere? [oppure?] 1989
  4. canto = Claudio       *6

問題のミュンヘン・フィルからの委嘱作がカミナンテス三部作に組み込まれている様子がまだ見受けられないことから、ひょっとしたらこのメモはノーノのスペイン旅行の前に書かれたものかもしれない。

 

以上のやけに細々とした記述は、Caminantes...Ayacuchoのことならなんでもかんでもグウの音も出ないくらいに詳しく書いてあるChristina Dollingerの本を参考にしたものである。 *7 Dollingerが書き写して付録にまとめているCaminantes...Ayacucho関連のノーノのスケッチをみていくと、例の30という数が、テンポ指定とは別の目的のために呼び出されている箇所に行き当たる。

  • Giordano Bruno- Ayacucho per strumenti, organo, voci a più cori, testi di G.B., U.A. 1987 30'
  • Jabès 40'
  • No hay caminos 30'
  • Hay que caminar 30'    *8

作曲予定の4作品の長さの見積もりを列記していくなかで、カミナンテス三部作の演奏時間をノーノはいずれも30分に設定しているのである。ブルーノの基数30との一致は果たして偶然だろうか。

 

陸から海へ:scomposizioneによる島ルート

地球上のあらゆる生きものの体のなかで遺伝情報がDNA→RNA→タンパク質と流れていくさまになぞらえて、陸から海へと向かう流れをノーノの音楽創造と聴取のセントラルドグマと呼んでもよいだろう(もっとも、ドグマなどという「固い」言葉はノーノの好みではないだろうが)。

 

たま~に逆転写酵素という改造車に乗って逆走してくるへそ曲がりがいるにしても、通り道はとにかく一本だけなのが、生きもののほうのセントラルドグマの特徴である。いっぽうノーノのほうのセントラルドグマでは、あたかも北回り航路と南回り航路のように、陸から海へと向かう経路がもともと二系統存在する。scomposizione(解体/断片化)による島ルートと、subversion(転覆)による穴ルート。名のとおり、それぞれのルートで主要な役割を果たす断片の型が異っている。

 

このうち島ルートに関しては、ノーノ自身によるたいへん明快な道案内がある。1987年12月1日に東大キャンパスで開かれた公開講演(水声社刊『現代音楽のポリティックス』に収録)。その初っ端でノーノは黒板に3つの図を描き、フランドル楽派の作曲技法を紹介していく。実際のところノーノはここで、フランドル楽派の作曲技法というよりは、フランドル楽派に多大な影響を受けた自身の作曲術のエッセンスを語っているのだ。

 

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ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声部からなる合唱で、折れ線が各声部の音型を表す。1図は模倣カノンのもっとも簡単なモデルで、テノールに置かれた定旋律が(歌いだしのタイミングが声部ごとにずれてはいるものの)他の3声部にそっくりそのままコピペされている。ソプラノ、アルト、テノール、バスのどの声部の上に降り立ってみても、決まって目に飛び込んでくるのは、型どおりの一本の旋律線がくっきりとした道筋を引いて前方へとまっすぐに伸びていく、まったくの陸上的光景である。

 

このあと3図に到るまでのあいだになにが進行しているのかは一目瞭然であるようにみえる――断片化。既に2図の段階で、テノールからのれん分けしてきた三本の旋律線は寸断済である。

 

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さらにテノールの元祖・定旋律本舗にも手が加わった結果、3図の群島的状態が出現する。

 

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このありさまを破壊的とみるAさん(仮名)のような人は少なくないだろう。右を向いても左を向いても、目に映るものはバラバラの点だけ、四囲に耳を澄ましても、耳に入るのは「断ち切られた歌」だけ。「進むべき道がないとはまさにこのことだ」、途方に暮れてそう呟きつつも、この無常な解体劇に意味があるとすればそれはなにかについてあれこれと思いを巡らせた結果、Aさんはこんな考えに辿りつくことになる。「たしかに進むべき道は断ち切られてしまったけれども、でもその代わり、かつて道がひとつにつながっていた頃には単なる通過点の一つとしてあっさり素通りしていた個々の音に立ち止まることは出来るようになったんじゃないだろうか。バラバラになったおのおのの断片が、純粋で、固有で、唯一無二の、比類ない、単独的な、反復不可能な、かけがえのない今この瞬間として輝きを帯びてきているのではないか。ノーノは音を線ではなく点で捉えようとしている。ひとつひとつの音を大切にする作曲家なのだ、ノーノは」――巷でよく耳にする類のノーノ評だ。ある人曰く、「ノーノはダルムシュタットで始められた、音楽を <<点>> としてとらえていく考え方を深めていった作曲家だったわけですが……」 *9 、別の人曰く、「彼は点的なものにあくまでもこだわる」 *10 、2年くらい前までの日本版Wikipediaルイジ・ノーノの項を見ると、「この時代(後期)においても点的に音楽を構築する態度はいささかも揺らぐことはない」、云々。

 

3図の光景を前にしてノーノが口にする台詞も、たしかに表向きはAさんと変わりがない――「進むべき道がないとはまさにこのことだ」。もっとも、その言葉が意味するところはAさんとはほとんど正反対と言ってよいほどである。ノーノは3図をこうみているのだ、「Aさんがバラバラだと言っている点と点のあいだに、いまや青々としたひとつの海がうちひらけているではないか」

 

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その海の上を、たとえば上図に書き込んだ細い水色の線のような経路で進むことができる。もちろんこれは、ありうべき可能性のほんの一端の例示に過ぎない。海の上に「進むべき(決まった)道はない」のだから。行く手にひろがる渺茫たる海原を前にして、ひとが不安に戦きながらそのつど選びとった航路が強いて言えば道だとも言えるし、「それはただ海の上の航跡であって道ではない(マチャード)」のだとも言える。

 

ノーノ本人による説明にも耳を傾けてみよう。

ここ(3図)では関係がすべて自律的であって、すべての声部における断片が各々他と多様な関係を、縦横だけでなく斜めの方向においても、結ぶことができます。また次のように言うこともできます。すなわち1図では、関係は二次元的で、つまり水平と垂直の方向に生じますが、時間的な流れには連続性があり、2図では、新しい関係が斜めにも生じますが、なお定旋律は保たれていますから、連続性はあります。それに対して3図では、定旋律すら分断され、単に一つの旋律が歌われることもなく、断片相互が自律的に時間を形作っていきます。b(アルト)はa(テノール)とある関係性を作りますが、そこには新しいものが生じます。と言うのは、aが別の状況において再考され、再現され、再び想起されるからです。 *11

この発言のなかではあくまで断ち切られるべきものとしてノーノが語っているようにみえる「連続性」という言葉には注意が必要である。ノーノがここで言う連続性とはもちろん、全声部で模倣される定旋律の旋律線の直線的な連続性のことを指している。

 

定旋律のa straight and narrow pathの連続性は断ち切られるべきものであるし、実際に断ち切られる。思想の本をひらけば「切断の必要性」などと当たり前のことのように言われているが、切断という操作はどんなものに対しても無条件で行えるわけではない。しなやかに動く水は切りようがない。たとえ直線的であっても光線は切れない。そこそこ以上の固さをもっていてはじめて「断ち切る」ことが可能になる。ラテン語でcantus firmus、イタリア語でcanto fermoの名が暗示するとおり、定旋律の旋律線は固いのである。その固体的な、硬直した線の連続性がn個の点に粉砕され消失したとき、バラバラの点と点のあいだに、ノーノが明示的には言及していない、別の面的な連続性が浮上してくる。その上をしっかと踏みしめて、決まった方向に迷わず歩いていくことのできる陸路が断ち切られたことと引き替えにして、その上に船を浮かべて、あらゆる方向にsospensione=不安(定)にゆれ動くことのできるひとつづきの海面が出現するのである。ノーノが重視する断片相互間の多様な関係は、すべてこのおおいなるひとつの水域を介してとり結ばれていくものだ。

 

つまりノーノの断片化は、ただ単に連続性を破壊する操作ではないということである。ひとすじの堅い線をn個の点にバラしてそれでおしまいではなく、そうして出来た複数の点をひとつの面に浮かべる。前に示したノーノ流scomposizioneの黄金の方程式

1個の○○ → scomposizione → n個の断片 + 水

をもとに図式化すればこうなる。

連続性A(内陸/線) 
→ 断片化 scomposizione → 断片性(島/点) + 連続性B(海/面)

 

一本の線をn個の点に解体することをとおして、硬質な陸の連続性(A)に統べられていた諸要素を柔軟な海の連続性(B)の作用下に移し替えること、そこに断片化の意義がある。断片をつくることはそのための手段であって、目的ではない。

 

以上のことから、ノーノにとって「島」の必要性がどこにあるのかもみえてくる。ノーノの諸作品のなかでも群島の構造がもっとも明瞭に顕れているFragmente - Stille, An Diotimaを例にとって、島の存在様式を観察してみよう。

*1:Erik Esterbaurer (2011). Eine zone des Klangs und der Stille: Luigi Nonos Orchesterstück 2° No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij. Würzburg: Königshausen & Neumann, p. 29-30.

*2:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 92.

*3:Juan María Solare (2004). Nono: Soñando caminos. Acerca de la trilogía "Caminantes" del compositor Luigi Nono y sus fuentes de inspiración en España y América Latina. Humboldt 141: 24-26.

*4:Erik Esterbaurer (2011), p. 29-30.

*5:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 62.

*6:Christina Dollinger (2012), p. 282.

*7:Ibid., p. 83-88.

*8:Ibid., p. 283.

*9:シンポジウム:ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>> より [pdf]

*10:同上

*11:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、88~89頁