アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 12/16

陸から海へ:scomposizioneによる島ルート、つづき

 

f:id:dubius0129:20160511235522p:plain

■ 群島の眺め: Fragmente - Stille, An Diotima (1980) - スコア第1頁

 

Fragmenteの譜面はいわば二ヶ国語で書かれている。音に固体のような確たる形を与える効果をもつ陸の言語と、音に液体のような絶えざる揺らぎを与える効果を暗にもつ海の言語と。音符と休符が断片=島の輪郭を描き出し、書き添えられたもろもろの注釈が島の描線に動揺を加える。Fragmenteの弦の島のための注釈は、Guai ai gelidi mostriやPrometeoの弦の海を本物の海らしく波立たせるために用いられている各種の語彙と同種のものである。島を記述する言語のなかに、水の語法が混入しているのだ。島で聞こえるなべての音は、個々の島に内在する音ではなく、陸と海の接触によって生じる音である。

 

要するにノーノにとって、島をつくることは渚をつくることと同義なのである。海に抗する陸ではなく、海に面する陸。島の辺は端的に「海辺」であり、島の輪郭をかたどり規定するために引かれたものではない。重要なのは辺が海に接していることで、描線が閉じているかどうかは二の次である。海に面するようになった陸は、船の出入りする港にもなれば、以前の稿で「ジュデッカ運河モデル」の名のもとに示した、陸から海へと流れていく音の変容のドラマが繰り広げられる場にもなる。島はこうして常に海との関わりのもとにあり、水のざわめきと無縁な乾いた内陸の地は存在しないも同然である。そんなノーノの島には、「海に生きるひとびとにとって、島とは背後地域のある沿岸でしかない」 *1 という、カール・シュミット『陸と海と』の所見がよく似合う。

 

日本での講演からさかのぼること18年前の1969年に、ノーノは講演で話していたのとほとんど変わらぬ論旨を、自作のIl canto sospesoについての註釈というかたちで披露している。 *2

私は決して点描風には書きませんでした。それは批評家が見つけ出したことです。音の点がそれぞれ自分自身の中に閉じこもって密閉されているというような音楽観は私には全く無縁なものです。日常に置き換えると、それはひとりひとりの人間が自分自身だけで充足していて、なすべきはただ自己実現に邁進することのみであるといったことを意味します。ですが私にとって、人は他の人間や社会との関係においてのみ自らを実現できるものだということはいつでも明白です。初期の私の作品においては音の点は決してそんなに重要ではありません。重要なのは例えば音の高さではなく、むしろ音程であって、音の回りを取り囲んでいる諸音型への関係です。そしてこれらの関係は、音楽のいわゆる垂直的、水平的な面だけで展開し尽くされることのないものであって、あらゆる方向にひろがっていく網のように、作曲することの全ての面をとらえているものなのです。セリエルであるというレッテルについても、ただ条件付きでのみ承服するものであるとはっきり言えます。当時すでに私は新聞や雑誌が徹底的に組織された音楽だと呼んでいたものは書かなかったのです。(……)批評家や演奏家は点描的な作曲なるものにすっかり馴染んでいたので、かれらは(Il canto sospesoでの)私のテキストの扱い方も、音響的な出来事の隔離のさらなる一例だとみたのです。ケルンでの初演や、それについて後に書かれたことにその影響が表れていました。人は私がテキストを恣意的に破壊していると、そしてそれを当たり障りのないものにしようとしていると、あるいは引け目を覚えてそれを取り下げようとしているなどと言ったのでした。私の関心はしかしまったく別のところにありました。私は一つの旋律的、水平的な構成を音域の全体にわたってやってみようとしたのです。一音から一音へ、一シラブルから一シラブルへのゆれ動き、すなわち、ある時には個々の音や個々の音高の連続から生じる一つの線、ある時には響きにまで厚くなる一つの線という構想です。

※ 上の引用の七割程度は黒住彰博『ノーノ作品への視点』 *3 に訳出されているので、該当箇所については訳文をそのまま拝借している

 

ノーノが群島の眺望にみているのがばらばらな点の現実ではなく、点と点を結ぶさまざまな線の可能性であることが改めて確認できよう。ノーノにとって群島とは文字どおり、相互作用する「島の群れ」である。

 

島々をつなぐ際限のない関係性のネットワークが、ここでは全体として「eine Linie ひとつの線」と呼ばれている。呼び方は同じ線であっても、この線は定旋律の旋律線とはまったく異質なものだ。一つの線があるのなら二つの線もあるのか。これはそういう量的な概念としての一ではない。その上に無数の航跡が引かれていく場である海がひとつづきの地をなしていることの反映としての、質的な一である。その線の挙動をノーノは「ゆれ動き」の語で要約していた。「ゆれ動き」と訳されている言葉は、ドイツ語原文ではein Schwebenである。Schwebenとは、Il canto sospesoのsospesoにあたる言葉にほかならない。

※ Il canto sospesoの独訳はSchwebender Gesang

 

というわけで、ノーノが講演で描いた3枚つづきの図に、今ならこう見出しをつけることができる――canto fermoからcanto sospesoへ。全声部で模倣されるcanto fermoの4本の線からcanto sospesoの「ひとつの線」への、旋律線の質的変容。canto fermoの変貌した姿であるcanto sospesoは、canto fermoの堅固な旋律線が切断された成れの果てのバラバラな点が歌う、「断ち切られた歌」ではない。それらの断ち切られた点のあいだに横たわるひとつの連続した空間を漂いつづける、始まりも終わりもない海の歌である。

*

よく教科書に付いているような、章末の演習問題をひとつ。

 

§ 以下のノーノの発言を絵で描き表しなさい。

Dal Canto sospeso in poi questo è un sentimento che continua ad assillarmi, la sospensione da, per, o attraverso qualcosa, un classico Augenblick rilkiano che deriva, anticipa, sogna. *4

*

Il canto sospesoからこのかた、これは私につきまとい続けている感覚です。なにかから、なにかのほうへ、あるいはなにかを横切って宙に漂っている状態、流れていき、待ち受け、夢をみる、お手本のようなリルケの「瞬間」です。

§ 前置詞と動詞の3とおりの対応関係に着目しよう。

  • sospensione da --- deriva
  • sospensione per --- anticipa
  • sospensione attraverso --- sogna

日本語に訳すと、

  • から放れて漂うこと / 流れていく
  • に向かって漂うこと / 待ち受ける
  • を横切って漂うこと / 夢をみる

これらは、「なにか(qualcosa)」と呼ばれる、なにか島のようなもののあいだにひろがる水域を漂う(sospensione)船の三様態を表している。この点を踏まえて絵を描くと、ノーノの故郷の海であるジュデッカ運河を彷彿とさせる水の上を、三艘の船が航行している図になる。

f:id:dubius0129:20160511235549p:plain

 

canto sospesoの旋律線はまさしく、これらの船が海の上に引く航跡である。この歌をそれでもなお「断ち切られた歌」と呼び得るとすれば、船がその上に浮かんでいるqualcosaの島々のあいだの海域が、ひとつづきの大きな大陸を断ち切って小さな島々にすることによって生じた空隙であるかもしれないという間接的な理由からである。

*1:カール・シュミット『陸と海と』、生松敬三・前野光弘訳、福村出版、1971年、91~92頁

*2:Gespräch mit Hansjörg Pauli (1969).

*3:黒住彰博『ノーノ作品への視点』、広島文化女子短期大学紀要 22: 53-65、1989年 [link]

*4:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 61.

断ち切られない歌 中篇の下 13/16

陸から海へ:subversionによる穴ルート

この世には2種類の断片が存在する。島と穴だ。たとえば、トウシマコケギンポが低潮線直下の水の流れが乱流をなしているような荒磯に、イワアナコケギンポが同じく水の流れが層流をなしているやや波の穏やかな磯に住み分けているように、 *1 島と穴はそれぞれ性質の異なる別種の空間を主生息地としている。

 

島が主役の座を占める島型空間を穴の優先する穴型空間へと変換するのにたいした手間はかからない。手始めに、島型空間の典型というべき群島を上空から見下ろした模式図を描いてみる。

 

f:id:dubius0129:20160511235652p:plain

次いでこの図を要素に分解するとしたらどうなるだろうか?

 

f:id:dubius0129:20160511235716p:plain

いくつもの点在する陸地=島と、島の形にいくつもの穴ボコの空いた水域=海。だとしたらこれは、人間の物の見方としては相当特殊な部類である。人というよりはむしろ、はとぽっぽ的な世界認識。

 

f:id:dubius0129:20160511235738p:plain

中村哲之『動物の錯視(京都大学学術出版会)』 27頁より

 

ハトは彼らなりのなんらかの事情により、少なくとも視覚においてアモーダル補完を基本的に行わない主義らしい。どういうことかというと、上の図 (a) のようなものを見せられたとき、ハトはそこに、実際目に見えているとおりの (c) のような図形を認識していることを示唆する実験結果がぞくぞくと得られているのである。 *2

 

おおハトよ、われわれヒトには同じ図(a)が、前面の白い四角形の背後に、白によって一部を隠された灰色の四角形が置かれている (b) のような状態にみえる。白の図に対して灰は地になり、直接見えない灰の欠落部分が補完されるのだ。逆にいうと、かの平和主義者たちは白と灰を同一平面上に見ているため、図地関係に基づく補完が生じないということなのだろう。

 

ヒトが群島の俯瞰図を見るときは、島と海の図と地の布置に、「島々はそれが浮島でないかぎり、海底でひとつにつながり合っている」という地学の知識による補正がはいるわけであるが、人間本来の自然な視覚認識からすれば、群島の風景の構成要素はこうなるはずである。

 

f:id:dubius0129:20160511235759p:plain

いくつもの陸地=島が点在する「図」と、広大無辺の水域=海が占める「地」の二層構造。

 

明らかに、Aの補完なきハトの島とBの補完のあるヒトの島とでは、海へのアクセス方法が大きく変わってくる。前者の場合、陸と海とは島の辺においてのみ接しているので、とにかく渚に降りないことには話がはじまらない。翻って後者の場合、渚の重要度は格段に低下する。そこが内陸部であろうと岸辺だろうと、海は島の下方のどこにでも存在するのであるから、海を見ようと思ったらただ単に、地の層へとつうじる穴をその場で穿ってやりさえすればよいのである。その際、穴は別に小さくてもかまわない。それが穴であるかぎりは知覚の仕組みにしたがって脳内で自動的に補完がはたらき、見かけよりはるかに広大な空間の一角として認識されるだろうからである。

*

ノーノの群島を構成する島のなかでも最大の規模を誇る(なにしろ踏破するのに20分以上かかるのだ)、PrometeoのIsola Prima=第1島にいま近づきつつあるところ。果たしてこの島はハトの島か、それともヒトの島だろうか。Isola Primaは基本的にどこも同じような眺めなので、サンプルとして島のまんなからへんに焦点を合わせてみよう。

 

f:id:dubius0129:20160511235825p:plain

陸と海が見える。

 

上側、13段×4=52段(上の譜面はその一部)の、三重の意味で山あり谷ありの起伏に富んだ――

三重の意味とは、

  • 音高(高低まちまち)
  • 強弱( ppppp の微弱音から fffff の耳を劈く大音量まで)
  • テンポ(MM = 30~120の範囲で変動し、平均して約2.8小節ごとに切り替わる)

のことである

――4群のオーケストラの陸地と、

下側3段の、三重の意味で水面のように平らかな――

三重の意味とは、

  • 音高(持続音主体で、そこにarco mobileの奏法によるかすかなさざなみが立つ)
  • 強弱( ppppp から f までの弱音主体)
  • テンポ(MM = 30で常に一定)

のことである

――弦楽三重奏の海原。

 

オペラ的な言い方をすれば、Isola Primaは「コーカサスの岩山の場」ということになるが、Isola Primaの陸と海の位置関係は、「コーカサスの山岳地帯の東に黒海、その先に地中海、南にペルシャ湾、その東に紅海…」などといった地球上の地理とは一見して全く異質なものである。いま目にしているのは、文字どおり陸続と連なるオーケストラの大地と、一面の弦の海原が二段重ねになって並走している構図である。

 

54頁にわたるIsola Primaの譜面を順に見ていくと、弦楽三重奏のドローンは、途中の6箇所に挿入される合唱のうち4箇所でいったん鳴り止むのを除いて、常に各頁の最下層を蒼く染め上げていることが分かる(最長でも1小節に満たない短い休止は所々に入るものの、弦の音はライヴ・エレクトロニクスによってフィードバック再生されるため、それらの休止の効果は限定的だろう)。要するに海は、アモーダル補完のあるヒト型群島モデルが示す世界像そのままに、第1島の陸地の下方全域にわたって連綿と連なっているのであるが、楽譜を見れば一目瞭然のその海の広大な連続性が、聴き手の耳に直接伝わることはない。弦の潮騒はオーケストラに比べて相対的に小さな音であるため容易にかき消されてしまい、オーケストラの陸の喧噪がふと減弱する谷間においてのみ、きれぎれに聞こえてくるからである。

 

聴き手が知覚しているこの断片性は、島ではなく穴である。

  • 穴、照葉樹の密な葉叢の隙間から点々と覗く海の青。
  • 穴、無響室から一歩外に出た途端に消えてしまう沈黙の大洋のかすかなざわめき。

音が途切れるその度に、いちいち音が鳴り止んでいるわけではない。単にいっとき聞こえなくなっただけで、音はなおultrasuoni――聞こえないけれども存在している音――として閾下を底流し続けている。だからこそ、あの呼びかけが意味を持ち得るのだ。アスコルタ、耳を澄ましてよく聞いてごらん……。

 

Prometeoのちょうど中間点には、Isola Primaのオーケストラの陸地が消えて(弦の)海だけが残ったかのような、全篇MM = 30のテンポで統一された短く静謐な章が置かれている。その章、Interludio Primoのことをノーノはまさしく穴だと、そこから「新しいプロメテウス」を垣間見ることのできる針の穴crunaだと形容しているのである。 *3 敷衍すればPrometeoという一個の音楽自体が、あるひとつの大いなる海に向かってひらかれた、直径2時間強の巨大な――とはいえ海の広大さに比すればまことにちっぽけな――覗き穴なのだとも言える。Stasimo Secondoの第104小節、恐らくはTristan und Isoldeへのオマージュを兼ねたB - F# の五度の歌声――テンポはMM = 30である――をもって音楽が鳴り止んだとしても、それはただ穴の縁に達しただけのことだ。Isola Primaで、Interludio Primoで、チラチラと背景に見え隠れしていた海は、Prometeoという一個の穴を縁取る五線譜の最後の複縦線を越えて、その先の空間と時間へとなおもひろがっていくだろう。そしてそのなによりの証左が、Prometeo後の作品群に幾度となく回帰してくるMM = 30の海の時間である。

*1:Ryuzo Fukao and Toshio Okazaki (1987). A study on the divergence of Japanese fishes of the genus Neoclinus. Japanese Journal of Ichthyology 34 (3): 309-323.

*2:中村哲之『動物の錯視 トリの眼から考える認知の進化』、京都大学学術出版会

*3:EMI/RICORDI盤PrometeoのCDのブックレット(Jürg Stenzl 解説)より。Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 111. に同じ内容の記述。

断ち切られない歌 中篇の下 14/16

無限性検査

ノーノの作品世界において30が青色だというのは、単純な比較から導き出される結論である。

 

■たくさんの小さな穴をとおして、ひとつの同じ海を見つめている。

  • 青い海
  • そのひとつの海の上に、浮島のように、船のように点在する、二十いくつかの小片(pieces)
  • おのおのの小片(a piece)の下方にひらいている、多数の小さな穴
  • その穴の個数だけ回帰してくる青色

■たくさんの小さな穴をとおして、ひとつの同じ海を見つめている。

  • MM = 30の海
  • そのひとつの海の上に、浮島のように、船のように点在する、二十いくつかの作品群(pieces)
  • おのおのの小片(a piece)の下方にひらいている、多数の小さな穴
  • その穴の個数だけ回帰してくるMM = 30

 

ゆえに、30=青色。先ほどまで長々と述べてきたように、私はノーノの30が、ブルーであるだけでなくブルーノの徴でもあると信じている。30の青い水で充たされた海は、ブルーノ的な空間――すなわち、ひとつの連続した無限空間――のモデルであって然るべきである。巨大なるPrometeoを優に包み込んでいるMM = 30の海の広大さが、果たして「無限」と呼ぶに値するほどのものなのかを、ブルーノの名にかけて検証しなくてはいけない。

f:id:dubius0129:20160511235738p:plain

 

『動物の錯視』27頁の図を再び眺めながら、まずはアモーダル補完なきハト派の世界に思いをめぐらせてみる。本のなかでは白と灰の見え方についてしか書かれていないけれども、灰が図(c)のように見えるからには、おそらく黒も、見かけどおりのえらく複雑な輪郭の物体だと思ってハトは見ているのだろう。補完しないということは、現に見えている形がそのものの本来の形に正確に一致するということである。ものとものとの境界を、それぞれがおのれの輪郭線として仲良く分け合い各自の持ち場におとなしく収まっている、領土侵犯のようなキナ臭い有事とはいっさい無縁の、このいかにもハトらしい平和な世界に、無限へとつうじるおおいなる扉がひらく徴候は一向に見当たらない。アモーダル補完のないハト型群島モデルは実際のところ、海によって限界づけられた島と、島によって限界づけられた海の2種類の有限性が同一平面上に住み分けている状態を示したモデルと言うべきなのである。島の存在が、海の無限性をあからさまに損なっている。島々をその只中に鏤めた海は、広大ではあっても明らかに無辺ではない。

 

アモーダル補完はこの問題の解決を、世界に奥行きをつくることによって図ろうとする。みたび『動物の錯視』の図を、こんどはヒトの目線で眺めてみよう。灰が白の下にあるように、黒は白と灰の下にあって、白、灰双方の背後で補完される。その結果、われわれは黒を、白と灰で中央部を隠された、三色のなかで最大の四角形として認識する。ヒトの眼のなかで黒の領域は、ハトが見ているよりも大きな広がりを得るわけであるが、大きいとは言っても、『動物の錯視』A5判の紙面に余裕で収まるていどのものである。だがここで視点を切り替えて、黒を白い紙面の上に置かれた物体ではなく、紙面に空いた穴であると想像してみる。そう難しいことではないはずである。「穴だ」と認識できた途端、『動物の錯視』27頁の紙面の裏側にひろがる漆黒の果てしない空間が透視されるようになる。地が図に輪郭線を譲り渡して図の背後に滲みひろがっていく、液化作用に似た図地関係の連鎖の涯、視界のもっとも遠い奥処に、もはやいかなる辺によっても規定されずとめどなく拡がる(無限の)空間を出現させる/させてしまうこと。これが穴というものの「恩寵と呪い」である。

 

有限から無限を産むかにみえるこの錬金術のからくりはいたって単純である。世界を高層化する。そして邪魔な物体はすべて上の階に押しやり、一階をワンフロア丸ごと「無限」専用の貸切スペースにしちまおうというのが、アモーダル補完の基本戦略である。形あるものが点在する図の層と、形なきものが遍在する地の層の厳然たる区別を前提として成立する無限。だがこれは裏を返せば、地の層を充たしている掛け値なしに広大無辺の海は、図の層に向かってたった一滴の波しぶきをひっかけることすら許されていないということでもある。

 

どうもうさんくさい。これって結局、ハト型群島モデルでは横方向に住み分けていた島と海を縦に並べ直しただけなんじゃないのか。渚から見はるかすにしろ、穴から覗きこむにしろ、何者かによって外側から眺められる対象物を無限と呼ぶのは、そもそも語義矛盾というやつなんではないか。

 

と、俄かに不信感が募ってきたところで、今まで眺めていた『動物の錯視』を脇に置き、新しい本を手に取る。『英雄的狂気』――ジョルダーノ・ブルーノによる、この熱く厚い一冊を通読すれば気がつくだろう、ブルーノが「無限の対象」あるいはそれに類する表現をさかんに口にしていることに。

 

その『英雄的狂気』の第一部第五対話でブルーノはこう言っている、「なぜならば、神は近くに、われわれとともに、われわれの内にいるのですから」。 *1 ブルーノの語彙のなかで「神」の語は「無限」とほぼ同義であるから、この一節は次のように読み替えることができる。

無限は近くに、われわれとともに、われわれの内にいるのですから

 

「近くに」を、「われわれとともに」「われわれの内に」と二度にわたって上書きする、このいささか回りくどい言い回しから読み取るべきなのは、「準備運動もなしにいきなり冷たいプールに飛び込んではいけませんよ」などといった学校の先生の台詞にも似た、すぐれて現実的なアドバイスである。無限という途方もない存在へは 一歩一歩、段階を踏んで接近を試みるのが筋だとブルーノは言っているのである。無限がわたしの内にいるのだということ、つまり、わたしは無限の外側に立っているのではなく、わたし自身もまた無限なるものを構成する一要素なのだということをしるためには、無限を対象としてしかと見据えるところからまずはじめなくてはいけない。一個の限りあるものが限りのないものに対峙しているという構図は、たしかに無限についてのいまだ不完全で不正確な描像ではあるけれども、無限との合一という究極点へと向かう長く困難な道のりにあってはそれも必要な通過点だ、というのがブルーノの立場である。PrometeoのIsola Primaを出発点としてそこから徐々に視野をひろげることで見えてきた穴の向こうの大海原は、無限への旅路のいわば玄関口の光景である。ブルーノの提示する、「無数の諸世界を群島のように鏤めた無限の宇宙」の空間モデルは、アモーダル補完のないハト型群島モデル、アモーダル補完のあるヒト型群島モデルのいずれとも若干異なっている。コロンブスの卵のように単純だが効果覿面なある設計変更によって、二者のモデルがそれぞれに抱えている無限性からの乖離はワンステップで解消されるのだ。

 

そのモデル――「水浸しの島」モデル――のことは、後ほど詳しく紹介するとしよう(「後ほど」とは、この後すぐにということではなく、今からたぶん半年ぐらい後という意味)。

 

群穴性

この世に島と穴という二種類の断片が存在し、一方に群島性という概念が息づいているのならば、他方について群穴性なるものを考えることもできるだろう。

 

群穴性、その模範的実例。ムージルは言う、「人類の全歴史にわたって、ある二分法が貫き通っている」 *2 のだと。人間の二つの精神状態、人間の感情の二つの在りかた。手短かに言えば二つの世界。その対をムージルは、1925年のエッセイ『新しい美学への端緒』の時点で「通常の状態」と「別の状態」と呼んでいた。「通常」と「別」の対が示唆する関係性は明らかに非対称的だ。南極と北極のような両極性の構図ではなく、中庸と極地、日常と非日常の関係。実際ムージルは同じエッセイのなかで、通常の状態を「中間的な」 *3 と形容している。となると興味を惹かれるのは、われわれの通常の立ち位置に、常ならざる別の状態がどのように現れてくるのかということである。「透けて見える」のだ、とムージルは言っている。

世界はそのあるがままの形において、ありえたかもしれぬ、あるいはそうならねばならなかったもうひとつの世界を、到る所で透かして見せている *4

*

一定の感情は、少なくともそれが「放射する」、「襲う」、「それ自体から作用する」、「膨張する」、あるいは、外的運動なしに世界に「直接」働きかけると言える場合には、その中に必ず未定の感情の特色が透けて見えるのである。 *5

※「一定」と「未定」は「通常」と「別」の対におおむね対応する

日本語訳でともに「透けて見える」となっている動詞は、原文を辿ると前者がdurchscheinen、後者がdurchblickenである。ドイツ語の辞書を引いてもよいが、ここはネットの世界ですっかり通常のツールとなった画像検索を試してみよう。durchscheinenでは日本語独特の表現で言うところの木漏れ日の情景が、durchblickenでは洞窟の開口部や紙の筒やレンズをとおして向こう側の風景を覗き見ている図が、何枚も出てくる。要するに、ムージルは「穴」を思い描いているのだ。

 

別の状態の断片的性格にムージルが言及することがある。 曰く、「周知のようにこの状態(別の状態)は――病的なコンディションを除外すれば――けっして永続しない。これは仮説的境界事例であって、われわれはこれに接近しては、繰り返し通常状態に帰還する」。 *6 あるいは、別の状態は「あまりにもすばやく逃れ去ってしまう」。 *7 これらの発言を、別の状態そのものの断片性を述べた言葉だと単純に受け取ってはいけない。のちに『特性のない男』のウルリヒによって与えられた「海」の形象が物語るとおり、別の状態はまさしく大海原のように、空間的にも時間的にも遍在するのである。ムージルが指摘しているのはあくまでも、通常の世界から別の世界に向かってひらいている個々の穴はおしなべて小さなものだ、ということである。

 

ムージルを読む体験は、海沿いの、けれども山がちな土地を旅するのに似たところがある。木立の向こうにチラチラと垣間見える海のように、「似たようなことが起こる」平凡な日常のそこここに「別種の生活の断片」 *8 が明滅している――それがムージルの作品世界の基調をなす眺望である。ムージル自身の言葉で言えば、「あの恍惚の生(…)を映す鏡は散りぢりに砕けて日常の生の中に隠見している」。 *9 つまりわれわれは別の状態を、ほんのささやかな「日常性の中断」 *10 として断片的に体験するすべしか持ち合わせていないのだが、それにもかかわらず、とムージルは言う、「にもかかわらずわれわれには、これらの『中断』を『ある別の全体性』の諸断片、ある体験行為の構成要素と見なす傾向があるのである」。 *11 ここに表れているのはまたしても島ではなく穴のイメージだ。というのも、多数の断片性を補完してひとつの連続性(全体性)へと変換する回路は、断片が穴として認識された時にしか作動しないからである。

*1:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、149頁

*2:ムージル「新しい美学への端緒」、早坂七緒訳、『ムージル・エッセンス』、中央大学出版部、57頁

*3:同上、69頁

*4:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「庭の鉄格子の特命(草案)」

*5:同上、「ウルリヒと二つの感情の世界」

*6:「新しい美学への端緒」、73頁

*7:大川勇『千年王国を越えて:ムージルの『特性のない男』における〈別の状態〉の行方』、37頁 [pdf]

*8:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「一連のふしぎな体験のはじまり」

*9:「新しい美学への端緒」、69頁

*10:同上、71頁

*11:同上、71頁

断ち切られない歌 中篇の下 15/16

阿呆船

ムージルについてやや詳しく述べてきたのは、ノーノの世界観をムージルの世界観と比較するためである。

 

例によって、1987年春ベルリンの、Enzo Restagnoロング・インタビューのひとこま。「貴方が憎んでいるものはなんですか?貴方にとって抑圧とは、暴力とは、不正とは?」というRestagnoの問いを受けて、ノーノはこう話を切り出す。貴方が言っているのは、私の感じているもっとも悲惨な事柄は何なのかということなのかもしれないが、ここではそれよりもっと地味な、日常の相貌について考えてみたいと思う。私にとってこの日常questo quotidianoはいくぶんゲームの――それもしばしば邪悪な種類の――ような様相を呈している。

枠(caselle)――まったく恣意的な秩序のために馬鹿げた権威によって規定され、神話や市場や仕分けによって既に形式化された枠――にはめ込もうとする手練手管に私たちは日々直面し、圧倒されている。歴史はあらかじめ定められた囲壁gironi prefissatiに、秩序の確立を告げるおぞましいリトルネロに満ちている。「プラハでは秩序が支配している」「ワルシャワでは秩序が支配している」「○○では秩序が支配している」……。その一方で、孤立や疎外を恐れることなく、ゲームのルールだとされているものを打ち破ろうとする試みも歴史の過程で日々繰り返されてきた。日常がわれわれに振るう強制力に私もまた、もっとも深い奥底からの抵抗の本能を駆り立てられる。新たな別の知性、新たな別の知識、新たな別の未知、新たな別の生の質への攻撃や暴力に対して、私はあらゆる危険を冒してでもたたかい続けるだろう。

 

中世以来、いや明らかにそれ以前もそして他の地域でも、「別様に考える人々quelli che la pensavano in altro modo」を厄介払いするもっとも古典的なやり方は、異端だの魔女だの狂人だのといった烙印を押して社会から排斥することだった。15世紀にドイツで書かれた諷刺文学を思い出そう――Das Narrenschiff、阿呆船。あらゆる港から拒絶された人々を乗せて、阿呆船は水域を放浪していく。さまざまな形に姿を変えて、阿呆船は現在に到るまで命脈を保ち続けている。その船になんと多くのポントルモが、シューマンが、ヘルダーリンが、グラムシが、ジョルダーノ・ブルーノが、ローザ・ルクセンブルクが、ルディ・ドゥチュケが、ウルリケ・マインホフが、アントナン・アルトーが、アンドレイ・タルコフスキーが、乗船を余儀なくされていることか! *1

Restagnoの質問の意図を少しばかりずらすことで、「私は日々どのような世界を生きているか」とでも言うべきなおいっそう普遍的なテーマにノーノは答えているわけだが、そこで示される世界像は、内実はともかくとして構造的にはムージルのそれとまったく同型といって過言ではない。

 

結局ノーノが述べているのも、「人類の全歴史にわたって、ある二分法が貫き通っている」ということである。ムージルの「通常の状態」に相当するものをノーノは「この日常questo quotidiano」と呼び、日常の裏面に潜在するもうひとつの世界をムージルと同じ「別のaltro」の語で呼び表す。

 

「この日常」の耐え難い堅さについてノーノは語っている。あまりにも多くの堅い枠caselle。あまりにも多くの堅い壁gironi。ノーノが最も嫌うもの、固定されたもので満ち溢れた、いや、水気を孕んださんずいへんの言葉はふさわしくない、固定されたものが林立する世界。いっぽう、日常を領する堅固な地盤が問いに付される別の世界には船が、阿呆船が浮かぶ。どうして別の世界の移動手段は船なのだろうか。「別の」世界だからである。上に掲げたノーノの発言は、じつは原典で36行に跨る滔々たる長台詞をかなり端折って意訳したものである。その長い原文の前半23行を、逐語訳するのでなく音楽的に鑑賞してみよう。

Quello che tu dici, e mi chiedi, può essere una delle cose più tragiche che io sento. Hai regione, lasciamo per un momento da parte tragedie immani che sono sotto gli occhi di tutti per considerare il volto quotidiano e dimesso del tragico. Per me questo "quotidiano" (caro, tragico Hölderlin, nella sua ribellione al "quotidiano") ha un po' l'apparenza di un gioco, spesso perverso: ti trovi davanti, o travolto, al tentativo di venir incastrato in caselle già sistematizzate da mitologie, mercati, classifiche, determinate da alcuni poteri pressoché di assurdo autoritarismo per un ordine totalmente arbitrario presupponente. La storia è piena di giorni prefissati, di appelli all'ordine, che risuonano come perversi ritornelli: "L'ordie regna a Praga", "L'ordine regna a Varsavia", "L'ordine regna a...", o "Attento ai rischi che corri", o allora "Peggio per te, non vuoi capire". Ma la storia è anche piena di tentativi per forzare, per rompere le cosiddette regole del gioco, fino a ribellioni, a rivolte, a nuovi cammini, anche di solitudine "quotidiana", malgrado possibili quotidiane emarginazioni, accuse che sono affannate autodifese di privilegi o di altrettanti ordini precostituiti, furbeschi travisamenti fino all alibi concesso e accettato da succube complice. Istintivo mi si scatena l'esser contro a questo quotidiano, con tutti i rischi possibili, contro chi (e quanti!) manipola i mass-media giornali e istituzioni varie, per una falsa cultura di massa (Ždanov ne sarebbe felice!), livellatrice di valori anche morali, totale offesa e violenza inquinante alla nuova altra intelligenza, a nuove altre conoscenze, a nuovi altri ignoti, a nuova altra qualità di vita.

 

二種類のリトルネロが歌声を競い合っている。ノーノが「おぞましい」と形容した第一の歌は、あらゆるものを石や氷のようにカチンコチンに固めてしまう、冷たい怪物メドゥーサの歌うテリトリーソングである。

L'ordine regna a Praga プラハでは秩序が支配している!

L'ordine regna a Varsavia ワルシャワでは秩序が支配している!

L'ordine regna a... ○○では秩序が支配している!

第二の歌を歌うのは、逆に万物を水のように流動化させるアンチ・メドゥーサである。彼女の歌のなかで何度も繰り返される特徴的なフレーズが altro(別の)だ。

alla nuova altra intelligenza 新たな別の知性への

a nuove altre conoscenze 新たな別の知識への

a nuovi altri ignoti 新たな別の未知への

a nuova altra qualità di vita 新たな別の生の質への

これは、メドゥーサの歌声が常に潮騒とともに送り届けられるのと同じことである。

 

ノーノの語彙のなかでaltro(altri / altra / altre)という言葉は、『ノーノ語辞典』 *2 巻末付録の「ノーノ基本単語10選」にも含まれるほどの、まさに特別な位置を占める一語である。... sofferte onde serene ... 以降のノーノの譜面にフェルマータが急激に増加するように、ノーノの文書や談話には70年代末ごろからこのaltroという形容詞が目にみえて頻出するようになる。アンチ・メドゥーサが歌っている、表現としてはややぎこちない印象すら受けるaltroの執拗な連呼は、80年代ならではの典型的なノーノ節だ。

 

『ノーノ語辞典』のaltroの項の説明によると、ノーノのaltroは基本的に水の世界の語彙だとされる。忌まわしい「固定」の対義語であり、愛すべき「動的」の類義語であり、可変性を表す言葉。ノーノにとってこれらの三要素は総じて水の属性である。ヴェネツィア本島南岸ザッテレの岸辺の、玄関先にまで波の打ち寄せてくる家で産まれた本物の海の作曲家であるノーノは、水(液体)の高度な流動性がもたらすものは均質化ではなく不断の変容であると、当然のごとく心得ていた。あらゆる海面が奏でる尽きることのない波のしらべが、ノーノの耳にはこう聞こえるのだ。

...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...

絶えず別様に変化してやむことのない、水のリトルネロ。altroの語がこだまする場にはどこでも必ず喚び起こされる水のイメージの上に、船が浮かぶ。ムージルが「昼と夜ほど違っている」 *3 と形容した二つの世界の対比をノーノ流に翻案するとしたら、「陸と海ほど違っている二つの世界」とするのが最もふさわしいだろう。

 

ノーノと同じく本物の海の作家であるハーマン・メルヴィルは『マーディ』のなかで、「any future cast away or sail away 将来の棄てられし者 、それとも海に去りし者」 *4 のために航海の秘訣を授けていた。海は一面において逐われし者の、一面において逃れし者の赴くところだ。たとえば『白鯨』第112章の鍛冶屋のパースのような。

果てしなくひろがる無限の太平洋の無数の芯から、人魚らが歌い掛けてくる。「ここへお出でなさい、心ずたずたにされた人よ、死ぬという罪の仲介なしに新しい生に出会うことができる場所はここ、ここは死ぬことなしに、世界を越え、驚異に出会うことができるところ。ここへお出でなさい!ここに来て、自分を新しい生に埋めなさい。憎悪し、憎悪されて過ぎ去る陸の生を忘れさせること、死よりはるかにまされるこの新たな生に埋まりなさい。さあ、早くお出でなさい、教会の墓地に自分の墓石を立てて、そちらでは死んでしまったことにして、こちらにいらっしゃい。結婚しましょう、このわたしたちと!」海からの声が、東からも西からも、夜明けにも夕暮れにも、耳もとに寄せてくる。鍛冶屋の魂は応えた、ああ、行くとも! (千石英世訳)

あるいは、「陸上には何ひとつ興味をひくものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった(阿部知二訳)」イシュメイル。かれら海の人間が、かれらにとっての阿呆船であるピークォド号に乗り組むべく目指したナンタケットのような港町は、ノーノが見つけた舗石の下の「別の海」には構造的に存在し得ない。

 

着想から初演まで約10年に及ぶ、Prometeoへの紆余曲折の道のりの途中では、聴衆を船に乗せてヴェネツィアの海へ漕ぎ出そうという、おそろしく壮大な「水上の音楽」が一時期検討されたこともあったらしい。

塔を、鐘楼だけを音源として用いる ということも考えていました。中世にあるのと同じ楽器を使うわけですが、ただしここではスピーカーが加わります。サン・マルコの船着場一帯――つまりサン・マルコとサン・ジョルジョのあいだの大運河ですね――に音が鳴り響くことになります、水を巨大な共鳴体として。まあ突拍子もないアイディアです。聴衆は船に乗って、さまざまな地点から音を聞くのです。 *5

このイカれたアイディアは、結局のところ半分までは実現した。聴衆および奏者を収容する木製の巨大な船はレンゾ・ピアノの設計で実際に造られたが、船が浮かべられたのは海の上ではなく、1984年ヴェネツィアでの初演の際は教会の、翌年のミラノでの再演では廃工場の中であった。

 

その船は、ほぼ立方体の外形がいかにも箱船然としているとともに、素朴な木のつくりは遠い神話の時代の海の英雄(オデュッセウスやアルゴナウタイ)の船を彷彿とさせるところもあるが、レンゾ・ピアノの設計計画のスケッチにはもうひとつ、それらとは別の船の名が記されている。nave dei folli the crazy ship すなわち、阿呆船である。 *6

 

だから、誤解してはいけない、Prometeoの船は、本来海に浮かべられるべきだったものが、現実的な諸事情のために進水式も執り行われないまま陸地に据え置かれていたのではなくて、そこが現実に陸であるか海であるかに拘わらずどこにでも存在するあの「別の海」の洋上に航跡を引きつつ、始まりも終わりもない象徴的な大航海をつづけていた(る)のである。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 42.

*2:出村新『ノーノ語辞典(増補改訂版)』、民明書房、2258年

*3:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「ウルリヒと二つの感情の世界」

*4:メルヴィル『マーディ』第14章、坂下昇訳

*5:Albrecht Dümlingとの対話のなかでの発言。Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226, p.212

*6:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 206.

断ち切られない歌 中篇の下 16/16

遠い音

再びPrometeoのIsola Primaの譜面に目を向けてみよう。Isola Primaはノーノ的世界観の忠実な反映である。併存する二つの世界――この日常の陸と、あの別の海。阿呆船は下層に延々とつづく弦楽三重奏の大海原を渉っていく。その上に聳え立つオーケストラの大地には、コーカサスの岩山の「縛られたプロメテウス」の日常がある。

 

Isola Primaのプロメテウスのモデルは、リブレットに直接の引用こそされていないものの、ゲーテの詩のプロメテウスである。天の方角をしかと見据えて、ゼウスの暴虐にゼウスの鏡像をみるような雄々しい「力の言語」 *1 で立ち向かう、敢然たる抵抗者としてのプロメテウス。

濛々たる煙霧をもって ツォイスよ

お前の空を覆え

薊の首をむしる少年のように

槲の梢にまた山巓に

ほしいままにお前の力を振え

だが然し この大地は俺のものだ

お前の干渉は許さぬ

お前が建てたのではないこの家

またそこに燃える火ゆえに

お前が俺を嫉視するこの竈にも 一指をも触れてはならぬ

(……)

俺はここを動かぬ

俺はここに坐って

俺の姿を似せて人間を創る

俺と同じ種族をだ

悩むことも 泣くことも

享楽し 歓喜することも

お前を崇めぬことにおいても

一切俺と同じ種族をだ! (山口四郎訳)

間歇的に炸裂するオーケストラの激烈な強音が、果たしてゼウスが天から振り下ろした裁きの雷なのか、プロメテウスが地上に燃え上がらせた反撃の炎なのかの見分けもつかない「ゼウスとプロメテウスの内戦」 *2 の舞台に、どこか遠くから別の声が聞こえてくる。「アスコルタ、聞きなさい、あなたもまた、妬み深く困らせ好きな新しい主のようではないですか?」――ノーノがCoro lontanissimoと名付けた合唱が歌うMitologiaは、ゲーテの「プロメテウス」に向けられた批判的なコメントである。そしてまた、荒ぶるプロメテウスの耳にきれぎれに届く、遠い弦の海のかすかな潮騒。「別の altro」と並んでノーノの世界観を特徴づけるもうひとつのキーワードは、そう、「遠い lontanissimo/lontano」である。

 

「これは遠くから聞こえてくる音である」旨の但し書きをノーノの後期作品の譜面上で目にする機会は少なくない。たとえばRisonanze erranti全379小節の道のりには、じつに計13箇所の「遠い音出没注意」の標識が立てられている(lontanissimo 11箇所、lontanissime 1箇所、 lontano 1箇所)。

 

f:id:dubius0129:20160512000128p:plain

その一例

 

ちなみにノーノは、EXPERIMENTALSTUDIOのスタッフ宛に書き送った手紙のなかで、Risonanze errantiの「こだま」全般の音響的性格についてこう記している。 *3

immer von draußen, immer von anderer Seite
常に遥か遠くから、常に別の側(クビーンの小説の邦題に倣えば「裏面」か)から

 

「遠い」とは、では具体的にどこのことか。PrometeoのIsola Primaの弦の海が、コーカサスの山岳地帯からはたしかに遠く離れている地中海やペルシャ湾や紅海のような現実の海を模したものでないことは明らかだろう。ノーノの「遠い音」の主成分は、いつでも(時間的にも)どこでも(空間的にも)二重層をなしている世界の地(あの別の世界)から図(この日常の世界)へと、非物理的な距離を渉ってきた音である。日常の背後に別の世界が、「裏面」があるという世界の二重性の意識が、ノーノの中に遠さの意識を産んだと言っても過言ではない。

 

系譜はさらに続く。altroから産まれたlontanissimoは、frammentoという名の子を産むのである。

別の → 遠い → 断片

 

和風に言えば遠山さんや遠藤さんみたいに、「遠い」の字を名前に含む音がPrometeoには4種類出てくる。

Coro lontanissimo
Isola Primaに 6 度挿入される 2、2、4、6、6、3 小節の断片

Ricordo lontanissimo
Stasimo Primoに 4 度挿入される 3、2、1、3 小節の断片

Ricordo lontano (Eco)
Tre Voci a に 6 度挿入される 2、1、3、3、2、2 小節の断片

Eco lontano (dal Prologo)
Terza/Quarta/Quinta Isola に 6 度挿入される 3、4、3、7、5、3小節の断片

 

以上4分派の遠音一族に共通する断片的性格は、遠さがもたらす効果のひとつである。長い距離を渉ってきた音はおしなべて減弱する。減弱した音はより近くて強い音が発せられるそのたびにかき消されて、途切れ途切れのきれっぱしとなって耳に届くようになる。要するに、連続性は距離に濾されて断片性へと変質を遂げるわけだ。

 

ノーノにおいて、島型ではなく穴型の断片が重視されるべき大きな理由がここにある。ノーノの作品世界には、遠さによって断片化を遂げた音が多産するのである。無辺際の海原が距離により断ち切られて偽りの皮膚を纏う。遠さには水さえをも(擬似的なやり方ではあるが)断片化する力がある。遠い断片はしたがって必然的に、島ではなく穴のイメージをもって迎え入れなくてはいけない。空間や時間のあちらこちらに穿たれた穴を想うこと。そして、穴の向こう遠くにひらけているはずの、ひとつづきの広大な世界を脳裏に再現してみること。

 

ステップ1、ひとつの広大な連続性が、遠さの作用を介して、いくつものささやかな断片性へと変換される。ステップ2はステップ1のまったくの鏡像で、いくつものささやかな断片性が、穴のイメージを介して、われわれひとりひとりの裡でひとつの広大な連続性へと逆変換される。「ちりぢりに砕けた鏡(ムージル)」の復元作業はこれで完成である。

 

ステップ1、ひとつの広大な連続性が、遠さの作用を介して、いくつものささやかな断片性へと変換される。つづくステップで、いくつものささやかな断片性を、島のイメージによってその場に凝固させる。これは、遠さが変質させた状態の不可逆的な固定化である。断片=穴がその両側に招きよせる対称性を断片=島は抑制するのだ。穴が開いた眼だとすれば、島は閉じた眼である。

 

次回予告

ノーノの別の世界に拡がっているものは、必ずしも常に一面の海であるとは限らない。カッチャーリに薦められて *4 1984年ごろに *5 はじめて読んだエドモン・ジャベスに傾倒して以降は、海が砂漠に変貌することもある。ジャベスの砂漠でノーノはあるものを発見した。別の遠い砂漠、もしくは海へアクセスするための手段をひとことで呼び表す言葉である。次回はその言葉、subversion(転覆)についての話題から。

*1:Massimo Cacciari L'étroite bande de terre. [pdf]

*2:Ibid.

*3:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 184-185.

*4:Nils Röller (1995). Vorwort. In: Edmond Jabès, Luigi Nono, and Massimo Cacciari. Migranten. Berlin: Merve: 7-17, p. 11.

*5:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 160.

断ち切られない歌 中篇の上 1/9

こだま、海の歌(承前

塩分を含んだ水の巨大な量(マッス)が何億年もかけて作りあげた混沌と秩序、それを一瞬のうちに「海」と言い切ってあとに残された海と同じ大きさの空虚を私たちは水や魚や貝や海胆という言葉で少しずつ満たしてゆく以外に方法はないであろう。

桑原徹 『これは通常その外側に貝殻を生じている』(書肆山田) より

*

この音をなにかに喩えるとしたら、島なんかじゃあないね―― 水のように連続的で/水のように平坦で/水のように不定形で/水のように可変的で/水のように匿名的で/水のように不可算的で/水のように空間を流動する(こともある) ――そんな性質の音、一言で言い切ってしまえば音の海が、ノーノの音楽のなかのそこかしこにひらけており、Risonanze errantiのシャンソンのこだまはそのほんの一例である。

*

他にどんな海があるか。

  1. Guai ai gelidi mostriの 弦楽三重奏+ライヴ・エレクトロニクスの海
  2. Prometeoの Guai ai gelidi mostriから継承された弦楽三重奏の海(Prima Isola、Seconda Isola)
  3. Prometeoの Tre voci aの 弦とユーフォニアムの空と海、あるいは二重刷りの海
  4. Omaggio a György Kurtágの 「ジュデッカ運河」のざわめき
  5. Post-prae-ludim per Donauの 前半部をしめくくるC1音の海、後半部のより抽象的なf1音の海
  6. A Pierreの 仄暗い海中の蒼い沈黙
  7. Caminantes...Ayacuchoの 作品世界を縁取る、オルガンによる異色のドローン
  8. No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskijの 全篇にわたって連なるG音の海
  9. "Hay que caminar" soñandoの 弦のハーモニクスが微かに波打つノーノ最果ての海

 

怪物の棲む海への小旅行

「 <<音の海>> というのが私にはなんのことだかよく分かりません」

「どうしてですか?」

だってノーノの音楽は、<<沈黙の海>> に <<音の島>> が鏤められた群島の音楽なんでしょう?だったら海は音じゃなくて沈黙で出来ているはずなんじゃないですか?」

 

などとブツブツ言っているわからんちんでもご納得いただけるよう企画した、ノーノの海の見学ツアー。上に挙げた9つの海のなかからひとつだけ選ぶとしたら、行き先は迷うことなくリストの一番めに決まる。NEOS 10801の神録音のおかげもあって、ノーノの海というと真っ先に脳裏に浮かぶのがこのGuai ai gelidi mostriの海である。東海道本線の車窓から見える海で喩えるなら、小田原と熱海のあいだで見える海みたいなもの。

*

Guai ai gelidi mostriの海は弦楽三重奏(ヴィオラ、チェロ、コントラバス)でつくられている。

 

楽譜上の海の眺め。下の楽譜はスコアから直接採ったものではなくて、Manuel Cecchinatoによるsuono mobileについての論文 *1 に転載されている抜粋を写したものである。以下のGuai ai gelidi mostriに関する記述もこの論文に拠っている。

 

f:id:dubius0129:20160512000311p:plain

■ 海の眺め 1 Guai ai gelidi mostri (1983) - PARTE I

 

ノーノの海の一般的なつくりがたいへんよく分る譜面だ。まず目につくのは、連続的でなおかつ平坦という、海のもっとも基本的な属性だけを具えた、すこぶる単純な音符である。そしてその単純な音符の傍らに、いつものことながら、もろもろの註釈が書き加えられている。ARCO MOBILE SEMPRE AL TASTOと、VERSO IL PONTEという字が読み取れる。その他の注記は音の強弱に関するものである。下方に見切れているのは、ライヴ・エレクトロニクスの使い方に関する指示を記した欄。

 

上の楽譜を、まずは音符どおりにキーボードで弾いてみる。さてどうだろう、これは海だろうか?聞こえてくる音はたしかに海のように連続的で海のように平坦ではあるものの、いかんせん単調で動きを欠いた、頭でっかちな哲学者の脳内に住みついている均一性の象徴としての海のような、ベタ凪の死んだ海だ。

 

この不活性状態の海のマテリアルを、間断なく揺れ動き、色彩を千々に移ろわせる生きた海へと変貌させるべく、言い換えると、単なる連続性continuitàを連続的変容continua trasformazioneへと変質させるべく、音の細部に影響を及ぼすさまざまな仕組みが導入される。ノーノの細部への拘りとは、しばしば誤解されているようにあやふやな細部を厳密に固定することにあるのではなく、まったくその逆に、硬直した細部を水のように流動化することにあるのである。上の楽譜から読み取れるのは次の4種類の解凍因子である。

  • 運弓法1(ARCO MOBILE)
  • 運弓法2(TASTO - PONTE)
  • ダイナミクス
  • ライヴ・エレクトロニクス

 

A 運弓法1(ARCO MOBILE)

コントラバス奏者Stefano Scodanibbioの談話によるarco mobile誕生のいきさつ~

フルート奏者のRoberto Fabbricianiとノーノが1978年冬に出会い、そのファブリチアーニが、Prometeoのためのコントラバス奏者を探していたノーノにスコダニッビオを紹介して、スコダニッビオとノーノが1982年に知り合う。話し合いの結果それではいっしょに仕事をしようということになり、80年代のノーノのベースキャンプであるフライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOにスコダニッビオが出向いていったとき、まず最初にノーノから持ちかけられたのはこんな提案であった。

 

「管楽器と同じようなsuono mobileを弦でもつくることはできるだろうか?」

 

Roberto Fabbriciani(フルート)Ciro Scarponi(クラリネット)Giancarlo Schiaffini(チューバ、トロンボーン)という3人の管楽器奏者とノーノの共同作業による、EXPERIMENTALSTUDIOを主な舞台とするsuono mobileの探究は既にだいぶ前からはじめられており、その成果はDas atmende KlarseinやIo, frammento da Prometeoとしていちはやく作品化もされている。遅ればせながら、弦についても同様の試みに着手する必要があった。

 

もっとも弦に関しては、ノーノがフライブルクを訪れる直前の1970年代末にラサール四重奏団とともに長い時間をかけて作曲した弦楽四重奏曲Fragmente - Stille, an Diotima――ラサールは初演までに1年半ものあいだこの曲の練習を繰り返したとノーノは言っている *2 ――におけるもろもろの試みが、後期作品の各種奏法の素地となっていることを忘れてはいけない。

 

フライブルクでの数週間にわたる試行錯誤を経て、arco mobileというひとつの手法が編み出された。そしてそのarco mobileをもちいたはじめての作品がGuai ai gelidi mostriである。

 

arco mobile、このかなり漠然とした名称で呼ばれる奏法とは具体的にどういうものか。スコダニッビオはこう説明している――手首をつかった弓の回転運動。弓を指板の側に傾けた状態から、弓の毛と弦が垂直に接する通常の弾き方、弓が駒のほうに傾いた状態、そしてまた逆向きの動きといった具合に、弓の毛が弦に接する角度を連続的に、ただし機械的な動きとならないよう不規則に変化させる。この奏法の妙味は、時間とともに弓の角度が万華鏡を回すときのように徐々に変化していき、それにつれて音色が微視的レベルでだんだんと変わっていくところにあるわけだから、持続時間の短い点的な(島のような)音に使用してもさして有効ではない。また、音色の微細な変化を埋没させてしまうほどの陸的な起伏に富んだ音もふさわしくない。上の譜例にあるような平坦な持続音に適用された時にはじめて精彩を放つ、文字どおり「生きる」ために海を必要とする奏法なのである。

 

B 運弓法1(TASTO - PONTE)

とはいえarco mobileは、そのいかにも総称風の呼び名にも拘わらず、弦によるsuono mobileの多種多様なレパートリーに含まれるあくまでひとつの方法であって、Guai ai gelidi mostriの海に海らしい表情を与える唯一のしくみというわけではない。

 

弦のsuono mobileの多岐にわたる手法のなかでも、軸となるのは二種類の弓の動きである。まず第一に、弓が弦に接する角度の変異。これには弓の毛criniではなく木legnoの側の使用も含まれる。arco mobileは毛の接する角度を連続的に変化させる手法だが、

 

CRINI LEGNO CRINI+LEGNO LEGNO+CRINI

 

といった具合に角度を逐次指定する記譜例もよく見かける。そして第二に、指板から駒、さらには駒の後ろに到るまでの、弓が弦に接する位置の変異。

 

当然この二系列の動きは組み合わせることができる。もう一度先の譜例に戻ると、各パートの音の出だしに書き添えられている記述はARCO MOBILE SEMPRE AL TASTOであるから、これは常に指板の側で行うarco mobileである。それが3小節めになるとVERSO IL PONTE、すなわち駒の方に弓の位置をスライドさせつつ行うarco mobileになる。

 

C ダイナミクス

Guai ai gelidi mostriの弦は、第1楽章と第2楽章の末尾で管楽器ともども冷たい怪物に豹変して fffff による恐ろしい咆哮をあげる場面を除けば、終始弱音の潮騒を奏でているが、ひとくちに弱音と言っても、そのダイナミクスppppppppp が8つ)から p までの間で刻々と変動していく。

 

p が8つも9つも並ぶような、ほとんど聞き取れないほどの小さな音、あるいは非常に長いフェルマータ、極端な高音といった具合に、ノーノが強弱においても高低においても緩急においても、中庸に対して周辺部の音を好む理由を、Hans Peter Hallerは次のように語る。

It was particularly towards the higher frequencies that Nono wanted peripheral sounds to be played, which could hardly be realised in concert. Yet, it was the composer's intention that these sounds were almost impossible for the performer to play, since it was exactly the fragile timbre resulting from this, which Nono wanted to preserve -- an uncontrollable sound shape. *3

André Richardも同様のことを指摘している。

...he was very concerned with the "micro-universe"... the region where many, many things can happen, especially with extremes of dynamics... inside this universe one discovers incredible life and can hear infinite newness. Nono was also very interested in volatile and uncertain sounds...extremely high notes on the tuba, clarinet and flute... extreme pianissimo for voices... *4

周辺部において不可避的に生じる音の不安定化、流動化。fragile、uncontrollable、volatile、uncertainといった言葉で形容される音のありさま。「要するに ここ周辺部には 確たる形のあるものは何もない」 *5 という、その場所のいかにも渚めいた様相が、ノーノをあらゆるものの縁へと駆り立てる原動力となるのだ。人はその土地に水のあるかぎりは、必ずや水のほとりへと引き寄せられていくだろうという、メルヴィルが『白鯨』の冒頭で説いていたあの心性とごく近い、水の誘いである。

 

付記1

ノーノの生前に作曲者立会いのもとで行われたGuai ai gelidi mostriの演奏に何度も参加したスコダニッビオの伝える興味深い逸話。「ときどきノーノは、演奏会場の空間にあわせて(スコアからの)削除を行っていました。ダイナミクスだけでなく、弦の運弓法の指定を変更することもありました。legno + criniと書かれていたのをlegnoだけ、あるいはcriniだけにしたり、あるいはtastoとあるところをponteに変えたり。というのも、その場所にはそこに特有の音の響き方があって、指板の側での演奏よりむしろ駒の側での演奏のほうがより効果的だったからです」

 

「私の音楽は空間(※より一般的には環境)とともに書かれるものである」 *6 というノーノの、生物学の用語で言えば「表現型可塑性」の思想どおりの実践だと言える。たとえば、1987年11月28日のNo hay caminos, hay que caminar...Andrei Tarkowskij世界初演に合わせて来日したノーノが、初演の会場となるサントリーホールでやらなければならなかった作業とは、高橋悠治が「20世紀の終わりに」というエッセイ *7 で書いていたように、ノーノがヨーロッパの地であらかじめ「書き上げた」スコアの指示どおりの演奏が行われているかどうかをホールの真ん中に陣取ってたしかめることではなく、サントリーホールと高関健率いる東京都交響楽団という、ノーノがそこではじめて接する「環境」に応じてスコアの細部を修正することである。じじつNo hay caminosのリハーサルの過程で、ノーノはいつものようにその場でスコアをどんどん書き変えていったと伝えられている。

*1:Manuel Cecchinato (1998). Il suono mobile. La mobilità interna ed esterna dei suoni. In: Borio, G., Morelli, G. & Rizzardi, V. (eds.) La nuova ricerca sull'opera di Luigi Nono. Firenze: Olschki: 135-154.

*2:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*3:Hans Peter Haller (1999). Nono in the studio - Nono in concert - Nono and the interpreters. Contemporary Music Review 18 (2): 11-18.

*4:Stephen Davismoon (1999). ...many possibilities... Contemporary Music Review 18 (2): 3-9.

*5:岩成達也「四月/皮膚」、『(ひかり)、……擦過。』、書肆山田

*6:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*7:http://www.suigyu.com/yuji/ja-text/2000/seijaku15.html

断ち切られない歌 中篇の上 2/9

怪物の棲む海への小旅行、のつづき

D ライヴ・エレクトロニクス

ここまでの内容は、Guai ai gelidi mostriの海に関するまだ7割ていどの説明でしかない。以上の三要素にさらにライヴ・エレクトロニクスが加わるのである。

 

なんでもかんでもアップロードされることで有名なYouTubeには、Guai ai gelidi mostri全曲の演奏風景を収めた魅惑の動画もあがっている(削除されていなければGuai ai gelidi mostriで検索するとヒットする)。それをひらいてみてすぐ気がつくのは、ステージに段差がつけられていることである。弦楽トリオが一番低い位置にいて、二人のアルトが中間の位置、4人の管楽器奏者(通常は3人で演奏されるがこの動画は1人多い)が一番高い所にいる。これはスコアの指示どおりのセッティングだ。

 

航海のための布置:

弦を弾く人の座は地上から20cmの高さに、

(弦は海なのであるから最低層を占め、

歌を歌う人の座は60cmの高さに、

(歌手は船の甲板に立ち、

管を吹く人の座は100cmの高さに設置すること。

(管は帆柱の風の通い路をわが住処とする。

 

だがこの空間的関係は、それぞれの奏者ごとに割り当てられたマイクロフォンから取り込まれた演奏音が電子処理を施されたのち、会場に分散配置された10台のスピーカーから出力される段になると、大きく再編成される。

 

f:id:dubius0129:20160512000423p:plain

ライヴ・エレクトロニクスの音響処理回路は弦、管、声のモジュールに分けられているが、特に声のモジュールの独立性が高い。会場の中央に立てられた、もしくは中央部の天井から吊り下げられたL9とL10の2台のスピーカーは、声の出力に特化したスピーカーである。これらは音の伝播する方向が上向きとなるよう設置されているので、空間に放たれた歌声――リバーブのみのシンプルな音響効果が加えられている――はいったん天井に反射して、空のほうから下方に拡がる弦の海へと陽光のごとく降り注ぐ仕組みになっている。

 

その弦に対する音響加工の基本的語彙は、フィードバックとハラフォンである。3秒もしくは8秒のいずれかのディレイと組み合わされたフィードバック・ループによって、生の演奏音の線的な流れが機器の内奥で円環状に圧縮/混合され、短波長(3秒)と長波長(8秒)のふたとおりの周期でうねる、連綿たる波のしらべが生成される。出力の際にはハラフォンが、L1→L2→L3→L4→L1の流路を3秒かけて一周する時計回りの速い流れと、L8→L7→L6→L5→L8を9秒かけて一周する反時計回りの遅い流れの2種類の海流を空間に描き出していく。このほかに、ローパスフィルタが弦に適用されることがある。フィルタ使用の意図について、ノーノは創作メモに「倍音を除去するため」と記している。弦の奏でる潮騒はローパスフィルタをくぐることによって、たとえ倍音の全カットとまではいかないにしても顕著に音色を漂白され、沖合いのような遠さのオーラを身に纏うようになる。

 

付記2

Guai ai gelidi mostriの弦楽三重奏の海は、スコダニッビオの編み出したarco mobileの技法ともどもPrometeoに継承されている。旅のついでに少し足を延ばして、Guai ai gelidi mostriの海とは瀬戸内海と太平洋のような関係にある、Prometeo第1島(Prima Isola)の海もチラ見しておこう。

f:id:dubius0129:20160512000454p:plain

 

■海の眺め 2 Prometeo. Tragedia dell'ascolto (1984/85) - Prima Isola

 

いま目の当たりにしているのが、海があってその中に陸地が点在してという群島の構図とはまったく異質の世界であることに注目しよう。これは、見わたすかぎりの陸地と見わたすかぎりの大洋が、ありうべき二つの世界として二重刷りのように併存している光景である。楽譜の上側の、13×4=52段で書き表された(上の写真には一部のみ写っている)4群のオーケストラが、その頂にプロメテウスのつながれたコーカサスの岩山の風土を思わせる、起伏に富んだ、しばしば苛烈な音景を表出していくその一方で、下段の弦楽三重奏は、arco mobileによる静謐な海のドローンを、Prima Isolaの全篇をとおして終始平らかに奏でつづける。両者の小節線のずれは、陸と海とが空間的には重なり合いながらも、異なる時間体系に属していることを物語っている。陸の緩急まちまちな時間に対して、弦の海を流れる時間は最も遅くかつ常に一定である。そのテンポが「四分音符」=30であることは、ノーノの海に慣れ親しんでいる人にとっては言わずもがなの常識である。ノーノ的海洋地理のエッセンスが凝縮されたPrima Isolaの海へは、いずれもう一度ゆっくり訪れる機会があるだろう。

 

別の音で充たされた沈黙

杓子定規な整理。「沈黙の海に浮かぶ音の島」という常套句より、

沈黙 = 海 (1)

音  = 島 (2)

「ノーノの音楽のそこかしこに音の海がひろがっている」ことから

海 = 音 (3)

(1) と (3) より

沈黙 = 海 = 音 (4)

そこにおいて音と沈黙の区別が消失する場としての海、という図式。さらに間に挟まっている海を取っ払うと、

沈黙 = 音 (5)

となって、「沈黙もまた一種の音である」という、わりといろんなところで聞き覚えのある文句が浮かび上がってくる。ノーノがこの言葉をスクリャービンからの引用として口にしたのは、ヴィンチェンツォ・ベッリーニのオペラ『ノルマ』についての寸評の中でのことだった。

Per esempio nel Preludio della Norma le corone bloccano i suoni dell'orchestra; le batture vuote, che di solito non vengono rispettate, introducono silenzi improvvisi che non sono il vuoto, ma un silenzio denso di altri suoni sgorganti dalla memoria, dall'orecchio, da un comporsi improvviso di segnali acustici circostanti. Skrjabin diceva che <<anche il silenzio è suono, ci sono opere musicali che si basano sul silenzio>> ... *1

*

 たとえば『ノルマ』の前奏曲では、フェルマータがオーケストラの音を堰き止めます。通常は重んじられることのない休拍が不意の沈黙を招き寄せる、その沈黙は空っぽなのではなくて、記憶から、耳から流れ出た別の音で充たされた沈黙、周囲の音のシグナルの不意の重なり合いからなる沈黙なのです。スクリャービンは言っていました、「沈黙もまた音であり、沈黙をもととしてつくられた音楽作品が存在する」……

さてこの発言は、「沈黙の海に浮かぶ音の島」というおなじみの群島の図に、最低限付け加えておかなければならないある重要な要素にノーノが言及しているという点で、たいへん注目すべきものである。ここで言う『ノルマ』前奏曲の沈黙とは、冒頭付近に3度現れるフェルマータ付きの休止のことで、下の譜例はそのうちの一つである。

 

f:id:dubius0129:20160512000526p:plain

発言内容の大枠を整理しよう。まずはじめに、オーケストラの音の流れを堰き止める(断ち切る)という人為的操作によって、音と音のあいだに、ふつうは沈黙の名で呼ばれる空隙が生じる。ところがノーノはそこに別の流れを、「空間に流れ込んで空虚であることを許さずこれを充満する」別の音の流れを感受する。その流れによって、沈黙と呼ばれていた空隙は、島々のあいだの空間を水が充たすように、「別の音」で充たされていく。un silenzio denso di altri suoniというのが、したがって全文のもっとも簡潔な要約である。

 

ではその「別の音」とは何処からきたものなのか。簡単にひとくくりにして言えば、空隙の周囲に点在するもろもろの島(のようなもの)が流れの源である。「島」の具体的な内訳としてまず思い浮かぶのは、上の楽譜でフェルマータ付き休符として描かれている沈黙の海を取り巻く音符の島である。ただこれだけでは、sgorganti dalla memoria, dall'orecchioのくだりを説明することができない。このちょっと変わった表現は、どうやらこういうことを言っているようだ――「沈黙の海のほとりに佇ってこの音楽を聞いている聞き手の記憶から、耳から音が海へと流れ出していく」。記憶から、耳から音が流れ出すとはどういう事態を指すのかおおいに気になるところではあるが、それについての詳細はより議論が進んだ段階でふれることにしよう。さしあたっていま必要なのは、島から海のほうへと向かっていく音の流れが存在するという基本的な認識である。

 

母なるジュデッカ運河のほとりで

「別の音で充たされた沈黙」と聞けば、誰もがジョン・ケージのかの有名な沈黙の概念を多少なりとも連想するのではないかと思う。ケージを意図された音に対するところの意図せざる音に満ちた沈黙の発見へと導いたのがハーバード大学の無響室だとすれば、それに相当する啓示をノーノは何によって得たのか。おそらくはヴェネツィアの「水のおしえ」によってである。

 

... sofferte onde serene ... の項で書いたことの繰り返しであるが、ノーノがヴェネツィアの戸外の音風景について語っている発言をまとめて読んでみると、

1 ... sofferte onde serene ... に寄せた文章より

ヴェネツィアのジュデッカにある私の家には、様々に打ち鳴らされ、いろいろなことを告げる、種々の鐘の音が、昼となく夜となく、あるいは霧の中を通って、あるいは日の光と共に、絶え間なく聞こえてくる。それらはラグーナの上の、海の上の、生のシグナルである。 *2

 

2 カッチャーリとの対話より

鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います。 *3

 

3 ベルリンとヴェネツィアの音環境を比較して

ヴェネツィアでは)もっと高い音のスペクトラムを感じます――リバーブによって、鐘同士のエコーによって、別の音によって、またそれらの音が水の上を伝播していくことによって。 *4

 

4 フライブルクの黒い森の音響空間やベッリーニの歌曲について語るなかで

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、リバーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。 *5

 

5 1985年の講演より

ヴェネツィアの、ジュデッカの一角で、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島で、サン・マルコの船着場の水の鏡面で、金曜の7時ごろに聞こえてくるのはこのうえなく美しい音風景です。それはまさしく魔術です。鐘楼から何かの古い宗教的なシグナル(晩課やお告げの祈り)が打ち鳴らされる、するとそれらの音にリバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面の上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。 *6

いつでも話題の中心にあるのは、ヴェネツィアの島と島のあいだの、運河の水の上の空間で鳴り響く音のことであるのが分かる。それではノーノがこういう話をしている時、脳裏に思い描いているのは主にヴェネツィアのどの運河か。

 

f:id:dubius0129:20160512000601p:plain

↑だとか、

 

f:id:dubius0129:20160512000621p:plain

↑のような、いかにも「ザ・ヴェネツィアの運河」といった趣の絵はがき的情景を差し置いて真っ先に挙げるべき場所は、

 

f:id:dubius0129:20160512000640p:plain

そう、ここである。河というよりは海峡や水道といった呼び名のほうがよっぽど似合いそうなこの大きな運河の名は、ジュデッカ運河。

f:id:dubius0129:20160512000704p:plain

 

白地図は矢島翠『ヴェネツィア暮し(平凡社ライブラリー)』巻頭のもの

 

地図上のA地点、ノーノ生誕の地であり終焉の地でもあるザッテレの岸辺の家と、B地点、1950年代以降ノーノがながらく住んでいたジュデッカ島の家を二大拠点とするノーノの生活圏のど真ん中に横たわる水域、それがジュデッカ運河である。上の発言5に出てくる2つの具体的な地名、サン・マルコ(C)とサン・ジョルジョ・マッジョーレ(D)も、ともにジュデッカ運河とその周辺に位置している。 

 

ジュデッカ運河のオンリーワンぶりは、こうして地図を見れば一目瞭然である。リオ(rio)と呼ばれる毛細血管のような小運河がたくさんの16分休符や8分休符で、ヴェネツィアの大動脈として有名なカナル・グランデが2分休符だとすれば、外洋からやって来る超大型客船でもやすやすとひと呑みにしてしまう消化管クラスのジュデッカ運河は、ヴェネツィアでもただ一箇所ここだけに出現する、全休符の数小節にわたる連続だ。クロダイみたいな背の高いのと、ボラみたいにすらっとしたの、伴泳する2匹の魚のようなヴェネツィア本島とジュデッカ島の配置が産み出した、幅約400mの絶妙なスペースは、ザッテレで生まれ、ジュデッカ島で暮らし、再びザッテレで生涯を閉じたノーノにとっての海の原イメージであり、ひいては沈黙の原イメージでもある。

 

そのジュデッカ運河のほとりでノーノが日々観察していたのは、一言で言えば流れである。運河の岸辺に佇って観察できる流れといったら誰もが思い浮かべるのは運河を流れる水のことだが、ノーノが感じとった流れとはそれではなくて、陸のさまざまな方角から、運河の水の領域へと拡散していく音の流れである。この流れが、ベッリーニの『ノルマ』についての談話のなかでノーノが言及していた音の流れと相同であることは言うまでもない。

 

ノーノの沈黙を考えるにあたっては、「沈黙の海に浮かぶ音の島」という常套句を、まったく字義どおりのものとして受け取ることが大切である。すなわち、沈黙は海であるということ。言い換えると、ノーノの沈黙はがらんどうではなく、底に水を湛えた沈黙だということである。水の存在が音に及ぼす物理的影響を考慮しなくてはいけない。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 16

*2:イタリア語原文はFondazione Archivio Luigi Nonoの作品リスト中に掲載されている。Deutsche Grammophon日本盤CD解説中の日本語訳(庄野進訳)を一部改変。

*3:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*4:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 70

*5:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono. [pdf]

*6:Luigi Nono (1985) Altre possibilità di ascolto.