断ち切られない歌 中篇の下 1/16
こだま、海の歌(承前)
まえおき
さて、この先の航海は、一個の音楽作品を取り巻く外側の世界を意識することで その存在が仄めかされてくるより広大な海原へと舵を取り進められていくことになる。 すなわち、「音楽のなかにひろがる海」から、「個々の作品の枠を超えて 横たわるひとつづきの大洋」へ向けて。ただその前に、Risonanze erranti論と銘打ちながらも総論的内容にばかり走って、 これまでたまに立ち寄る程度の言及しかしてこなかったRisonanze errantiの海 =シャンソンのこだまを、一度正面からじっくり吟味しておくべきだろう。
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……と、2014年11月1日付記事の文末に記してから既に一年以上の歳月が経過した。 その間に、それはもうこのうえなく素晴らしい出来事があった。 Risonanze errantiの新編集版スコアがRICORDIから遂に刊行されたのである。
ANNO 2015
Printed in Italy 139646
ISBM 978-88-7592-994-7
ISMN 979-0-041-39646-0
演奏の際の奏者の留意点、 全33種類のライヴ・エレクトロニクスのプログラムの設定法、 曲中で使用されるサルデーニャ島の牧用の鈴はどんなものを用意すればよいかなどの、 実演に必要な各種補足事項を網羅した巻頭解説(英独伊)付き。この一冊と、意欲と、電力があれば、 Risonanze errantiは世界じゅうどこででも演奏可能な作品になった。
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Music Shop Europeから届いたスコアを手にして真っ先に調べたことのひとつが、 噂に聞くRisonanze errantiのディードー・コネクションである。
一箇所めは260小節のadieuに添えられた、doloroso wie "remember me" ――「remember meのように悲嘆にくれて」。NEOS盤のSACD(NEOS 11119)では26分45秒から 27分07秒にかけてである。アルト独唱(とクロタル)のB♭ - A は、パーセルの歌劇 Dido and Aeneasの幕切れ近くでディードーが歌う Re- (D) mem- (D) ber (D) me! (D) に つづく伴奏の音の推移を参照したものかもしれない。
もう一箇所、361小節のpleureのlontanissimo Leidenschaft - "Dido" ――「はるか遠く 激情 ディードー」。CDでは37分57秒から38分33秒まで。
以上二つの書き込みは、1986年初演のRisonanze erranti(翌87年に決定版初演)と1958年初演の合唱曲Cori di Didoneが、30歳近く齢の離れた姉妹の間柄であることを教えてくれる、 ほっぺたのえくぼみたいなものだ。
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Cori di DidoneとRisonanze errantiの血縁関係は海についても当てはまる。 Risonanze errantiの音の海=シャンソンのこだまは母音を主成分とする海である。 ノーノ最古の音の海は、Cori di Didone (1958) やIl canto sospeso (1955-56) などの 50年代の声楽曲に現れる「母音の海」で、シャンソンのこだまはその直接の進化型にあたる。
母音の海の系図を辿る今昔比較の旅に妙味あり。 Risonanze errantiの海までびゅーんと一気に飛行機で飛んでいって、 その日のうちに帰ってきてしまうのは、長篇小説の下巻だけ読むようなものである。 あえいうえおあおおあおえういえあ、母音の水の上をゆくわれらの海路はこの先三日の行程である。
- 第一日 1958年 Cori di Didoneの海
- 第二日 1956年 Il canto sospesoの海
- 第三日 1987年 Risonanze errantiの海
第一日 1958年 Cori di Didoneの海
Il canto sospesoの一部の章ではじめて導入された歌詞のscomposizione、すなわち、 歌詞をシラブルに、さらには母音や子音のレベルにまで分解して複数の声部に割り振っていく手法が いよいよ全面的に拡張された、6章構成の合唱曲。第4章の歌詞は ウンガレッティの「ディードーの心のうちを描いたコロス」の第XIIコロス。
A bufera s'è aperto, al buio, un porto
che dissero sicuro.
Fu golfo constellato,
e pareva immutabile il suo cielo;
ma ora, com'è mutato!
嵐のなかでひらかれていた、闇の奥に、一つの港が
そこならば安全だと人は言った。
星屑をちりばめた入江
その空は変わらぬものと見えた、
だがいまは、何と変ってしまったことか!
(河島英昭訳)
さらにその中の3行めに注目しよう。嵐をくぐり抜けてきたディードーの心の船の 四囲にいっときうちひらけてくる、夜の入江のくらく静穏な海面。 その海の情景が、Fu golfo constellato(星屑をちりばめた入江だった)という 歌詞の解体操作によって音楽化されていく。
■ 海の眺め 7: Cori di Didone (1958) - 4 142~147小節
色分けして示したとおり、テノールと、ソプラノおよびバスとのあいだに明瞭な役割分担がある。 テノールのパートの構成は、ちょうど魚の骨格標本をつくるときの要領である。 歌詞は断片化され、4つの声部に振り分けられていくが、 その際に原詩の脈絡を傷付けないよう配慮が払われており、いったん ばらばらになった断片は、結局もと通りの位置関係にしたがって順序よく譜面に並べ置かれる。 なのでテノールの4声部を多少引き気味の位置から眺めれば、
→ FU GOL FO CON STE LLA TO →
という一筋のまっすぐな航跡を引いて左から右へと進んでいく船影をみてとることは容易である。
そのテノールの船に対して背景をなすのがソプラノとバスである。 4人合わせれば歌詞をフルで歌っているテノールとは異なり、 ソプラノとバスはもっぱら母音のみを発する。 ソプラノは長く引き伸ばされた母音 A O を、バスは同様に母音 U E を、 声部間で引き継ぎながら、母音の平坦な響きの連続からなるひろびろとした音風景を、 つまりはなにか海のようなものを、テノールを取り巻く空間にひろげていく。 ソプラノの A O とバスの母音 U E は、実際には上に図示されている範囲を超えて さらに遠くの方まで伸びており、テノールからバトンを受けたアルトが e parevaという次の行の歌詞を歌っている3小節先の辺りまでをもその圏内におさめている。 以上を要約すると、母音の海原をゆく一艘の船、という構図。
みどころ:海の水はどこから来たか
Cori di Didoneの音の海は、ディードーのFu golfo constellatoという内的独白が その懐に宿している母音――エルンスト・ユンガーの『母音頌』風に言えば、 情動や記憶を触発する言葉の原形質――の滲み出しによって生じたものであった。具体的には、 バスの歌うUがFu golfo constellato、同じくEがFu golfo constellato、 ソプラノのAがFu golfo constellato、 OがFu golfo constellatoもしくはFu golfo constellatoである。 テノールが歌うFu golfo constellatoという歌詞の全体を(声部間の音の引き継ぎ というかたちではあるものの)すっぽりと包み込んでいるA- や O- や U- や E- は、 もはやどう見ても島にたとえられるような点状の断片ではない。 テキストの解体によって切り出されてきた母音は、往々にして母音本来の無限定に伸びる性質を 発現し、液体的な挙動を示すようになるのである。
声楽作品のなかでアーだとかウーだとかいった母音が歌われること自体は格別珍しいことではない。 ひとつサンプルをあげると、一般的にはこのようなケースである。
出典:丸山豊詩、團伊玖磨曲の合唱組曲『海上の道』の第3曲「夜の海」
さて、上の楽譜に出てくる A- と O- であるが、 これらは丸山豊が書いた詩にもともと含まれていた音韻ではなく、 作曲に際して團伊玖磨が新たに作品世界に持ち込んだ、 テキストの土壌からみれば外来性の母音である。 この種の「天から降ってきた」母音がノーノの声楽にどのていどの頻度で出現するのか、 数作品で実態調査を行ってみた。
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Das atmende Klarseinの合唱には該当するケースがひとつも見当たらない。
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Omaggio a György Kurtágの独唱にも皆無。
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Risonanze erranti
アルト独唱が歌っている母音(a ah u uh eh ua)のほとんどはこだまとして歌詞に含まれている。 歌詞には出てこない母音の使用例は、序盤のsweep stormingの直後の UA(35小節)と、 終盤に四度繰り返されるdeathの後の、3小節にわたって伸びる U(329~331小節)のみである。
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Cori di Didone
3曲めと6曲めのところどころでbocca chiusa=口を閉じたままのハミングが歌われる。 そのうちの一箇所、3曲めの冒頭で、ハミングのなかに A 音と U 音が混ざっている。 もうひとつの例は5曲めの、歌詞を歌い始める前と歌い終えた後に現れる A。
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Il canto sospeso
全9章のうち、Nr. 2、3、5、6、7、9の6章に声楽が入る。 Nr. 6b、Nr. 7、Nr. 9の3章ではBocca chiusa、Bocca quasi chiusa(唇を閉じ気味)、もしくはBoccha quasi aperta(唇を開き気味) によるハミングが多用される。さらにNr. 6bに限っては、歌詞に由来しない母音 ―― (u) のようにかっこ付きで表示される――が計20回用いられている。
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Ein Gespenst geht um in der Welt
この作品には該当例が割と多い、と認めざるを得ない(とは言っても標準的な合唱作品と同レベルか)。
- 25~28小節のソプラノ独唱のA、I、Oと合唱のA、O
- 73~89小節の合唱のU
- 94~98小節のソプラノ独唱のA、U
- 103~105小節のソプラノ独唱のA
- 109小節の合唱のU
- 113~116小節の合唱のA
- 119~120小節の合唱のO
- 143~156小節の合唱のA
157~228小節で『東方紅』の歌詞が中国語で歌われるくだりでは特に多くなる。
- 177~183小節の合唱のA、E、O、U
- 181~183小節のソプラノ独唱のA、O、E
- 188~193小節の合唱のA、U
- 196~197小節のソプラノ独唱のA
- 208~215小節の合唱のA、E、O、U
- 212~216小節のソプラノ独唱のA、E、O、U
- 219~220小節の合唱のA、E、O、U
- 224~226小節のソプラノ独唱のA
- 225~227小節の合唱のA、E、O、U
そして最後に
- 284~295小節の合唱のA、O、U(全曲の総小節数は314)
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Quando stanno morendo
- PARTE IIのほぼ全篇をとおしてソプラノ2とメゾソプラノの二人の歌手が歌いつづける A。
そのほかに、
- PARTE I 28~29小節のA、34~35小節の A
- PARTE III 38小節の A、57~58小節の A - U -(ともにアルト独唱)
- PARTE III 73~75小節の U、91小節から最終94小節の A - O - U (ともに合唱)
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Io, frammento da Prometeo
全9楽章のうち7楽章(1、3~7、9)に声楽が入る(以下の小節数は通し番号)。
- 3楽章:ソプラノ独唱はA、Uの母音のみを歌う。合唱は103小節のA、110~111小節のA、 117~118小節のEとU、131~132小節のOとU、150小節のUが該当例。
- 4楽章:ソプラノ独唱がA、U、Oの母音のみを歌う。
- 5楽章:193~195小節のquesta sferzaの歌詞に合わせて合唱が歌うOとA。
- 6楽章:冒頭の218~224小節で独唱歌手二人が歌うO。
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Prometeo
- Terza / Quarta / Quinta Isolaに6回挿入されるECO LONTANA (DAL PROLOGO) =「Prologoからの遠いこだま」のなかで合唱が歌う U。 U音の合唱はこの章の末尾にももう一度出てくる。
ほかには、
- Prologo 191~192小節のc'è dataの中に混ざっている U
- Isola Seconda b) Hölderlin 1~7小節の O、45~50小節のA / U / O
- Isola Seconda c) Stasimo Primoの49小節、inaccessaのあとの合唱の U
- Tre Voci bの47~48小節、dal movimente delle opereのあとの合唱の U
- Stasimo Secondoの83小節、silenziのあとの、quasi bocca chiusaで歌う U
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テキストに含まれない母音の使用は概して控えめである。演奏時間2時間強の破格の規模を誇るPrometeoでさえ、10分に1回ペースの計13箇所。 ノーノのテキストの扱い方は、言葉を音素レベルにまで無慈悲に分解し尽くして なんの意味もなさないただの音に変えてしまう バラバラマン的所業であるかのようなことを言う人も少なくないが、 実のところは、各々の言葉が具える音の響きにいたって忠実な、素材重視の料理法なのである。