アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 4/16

プロメテオのさいはて、つづき

senza fine

Tristanに関するノーノの主な発言は二種類の文献にまたがっている。ひとつは先ほどマーラーのところでも出てきたカッチャーリとの対談で、もう一つは例の自伝的インタビューである。

 

Enzo Restagnoによる自伝的インタビュー(1987年3月) *1 より

A

Tristanの第三幕の始まりの、あの名高いB♭マイナーの和音、あれが海です。ゆったりと波打ちながらつづいていく海、そしてその只中に沈黙がある、トリスタンの沈黙、イゾルデの沈黙。 *2

B

私にとってTristanの第三幕は、ひとつづきの沈黙です。その沈黙が折につけよすがとしているのが、断片――それとともに幕がひらき、時としてそこに立ち返っていくB♭マイナーの和音――です。ここには声もあり器楽もありますが、私にとって、時おり回帰してくるこの和音は、いままさに沈黙が始まると告げ知らせる境界標のようなものです。 *3

カッチャーリとの対談(1984年春) *4 より

C

Tristanの第三幕は、絶えざる破壊です。そこではもはや声は声ではなく、テキストはテキストではない。そこではすべてが音です。その音というのは、(マーラーと同様に)別の深さを、別の次元を探し求めるワーグナーによって組み合わされた音です。演劇的な次元になお囚われながらも、彼がそれを乗り越えんとして柵を、牢の格子を叩いているのをわたしたちは感じます。要素が回帰してくるありかたを聞くことで、それを感じることができる。回帰といっても、もちろん、ただ繰り返すための空疎な自己引用ではない(連続変数だとかライトモチーフのようなものではありません)。別の可能性を提示するために回帰してくるのです。それらは再創造するのです……アドルノが言っていたような類の回帰ではない。長い沈黙を、破るとともに開始させるべく回帰してくる、冒頭のB♭マイナーの和音。Tristanの第三幕では、まさに限りない沈黙を聞くことができる。

D

Tristanの「終結部」においても同様の問題が、マーラーの一番の開始において経験するのと同じ「投げ込まれたもの」があります。時間の問題、そしてその達成、完遂の問題。なぜなら、実際のところTristanには終わりはないのです。それは決して終わらない。もちろん舞台上の登場人物の死によっても。それどころか、書かれた音楽の消滅によってさえも。Tristanによって、われわれはまさしく、沈黙と、音と、そして何よりも新しい音――ultrasuoni ――の写像が投影された空間のなかに入っていくのです。そうなのです、Tristanにおいてワーグナーは実質的に、ultrasuoniによる作曲を成し遂げたのではないかと思います。ultrasuoni――物理的な音ではないが、にも拘わらず存在している音。ついに聞き得るものとなった聞き得ないもの。これこそがTristanの魔術です!

 

Prometeo初演を半年後に控えたカッチャーリとの対談の席でTristanをこれほど熱っぽく語っていたノーノが、Prometeo終結部とTristan終結部の符合にまったく無自覚だったとはちょっと考えられない。おそらくノーノはPrometeoを、「そこに始まりはない」マーラーで始まるとともに、「決して終わらない」ワーグナーで終わる音楽にしようという目論見を、短く言い換えれば、Prometeoを始まりも終わりもない(senza inizio senza fine)音楽にしようという目論見をもっていたのだと思う。

*

マーラーのほうの簡潔なコメントに比べてだいぶ込み入っているノーノのTristan評をいまいちど整理しよう。Tristan第三幕は○○である、の○○のところに4つのものが入る。

  1. Tristan第三幕は海である。
  2. Tristan第三幕はひとつづきの沈黙である。
  3. Tristan第三幕はすべてが音である。
  4. Tristan第三幕を海のように充たしている、沈黙でありまた音でもあるこの新しい音に、ultrasuoniというひとつの呼び名が与えられる。イタリア語でultrasuoniといえばふつう超音波のことであるが、ここでは「聞こえないけれども存在している音」の意で受け取るべきなのだろう。

以上を要約して、Tristan第三幕は丸ごとすべてがultrasuoniの海である、というだけでは本当はまだ足りない。ベッリーニの場合と同じく、海の水は一個の作品の枠を越えて自然に溢れ出していくからである。ノーノはもっぱら第三幕の終端に立って、イゾルデの死によって劇の幕が下りてもなお途切れることなくつづいていく「決して終わらない」海を見やっているが、おそらく反対の端に立っても同じような海の眺めが、開いていく幕の向こうに横たわっているに違いない。

 

それではわれわれはTristanのなかの何によって、いまこの場所が広大無辺の海原の真っ只中だということを知るのだろうか。

 

「例の無限旋律によってですよ」という、誰でも思いつきそうな月並みな解答――ちなみにノーノは、1980年の弦楽四重奏曲Fragmente - Stille, An Diotima初演に合わせて開かれた討論の席で無限旋律の語を口にした質問者を、「貴方はなにを今さらそんな古めかしいクリシェを持ち出しているのですか」とにべもなく一蹴したことがある *5 ――に代わってノーノが挙げている指標は、「時おり回帰してくるB♭マイナーの和音」である。

 

B♭マイナーの和音。これは第三幕冒頭の弦(チェロとコントラバス)に始まって、序盤の10分間ほどのあいだに計6度出現する。楽譜から該当箇所をすべて抜粋して並べてみよう。

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F - B♭ - D♭ 音と F - C 音が一小節ごとに入れ替わる呼吸のようなリズムがあって、その呼吸の回数が順に3回、3回、2回、1回、1回半。最後の6番目は例外で、F - B♭ - D♭ のみが3小節強つづく。スコアの何頁にもわたって連綿と持続する、マーラーのNaturlautとはまったくタイプの異なる音である。ノーノは至極真っ当に、これらの音を un frammento、断片だと呼んでいる。

 

そのささやかなる断片を指差して、あれは海だ、ゆったりと波打つおおいなる海だと呟くノーノの真意を知るには、ほんのちょっとした、一枚の絵で言い尽くせるほどの、ちょっとした発想の転換が必要である。

 

ノーノのCDジャケットのベストデザインを決める選抜総選挙でも開かれた折には、迷わず一位に推したい、EMI/RICORDI盤のPrometeoの外箱の眺め。Willem Klewaisという人の手によるものらしいこのデザインは、それだけでPrometeoについてのすぐれた批評である。材木の色合いも肌理も良い、鉛筆の殴り書きの粗いタッチも良いが、特に素晴らしいのは板にボコボコとやや蓮っぽく開けられた穴ボコだ。Prometeoといえば群島だ、島だという連想に傾きがちなところによくこの意匠を持ってきたものだと思う。そうなのだ、断片性の喩となり得るものは、なにも「島」だけではなかったのだ。

 

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「穴」としての断片には、それを見る人の心象のなかでバラバラの孤立状態にとどまらずにおのずと一体化するという特筆すべき性質がある。Prometeoのジャケットを見て、板の背後に暗い連続した空間の存在を意識しない人はいない。穴からはずれて見えない部分が、穴から見えている断片的な情報を元に脳内で補完されて、ひとつにつながりあうからである。もしも穴から覗いている色が黒ではなく青だったらなお良かったと思うのだが、もしそうだったら、板の向こう側にひろがる大海原を、もしくは大空を感じることができただろう。断片性を連続性に変換するこの強力な認識のしくみを「知覚的補完」という。いま挙げた例のように、一面の海の青が実際に目に見えるわけではないにもかかわらず、遮蔽物の背後に隠された海の存在が知覚されるような類の補完は、固有の感覚モダリティの体験を伴わないという意味で、とくに「アモーダル補完」と呼ばれる。

 

同じ断片であっても穴が島になると、知覚的補完はさっぱり働かなくなる。穴の向こう側の空間が連続しているように、すべての島は(浮島でないかぎりは)海底面を介してひとつにつながりあっているという事実を、わたしたちはたしかに知識として知ってはいるが、群島の絵をいくら眺めても、海面下に隠れた連続性が自然に「見えてくる」ことはない。これはひとえに、海面から突き出た島が周囲の海に対して図地の図の関係に置かれているからである。

 

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有名な「ルビンの壺」のだまし絵が教えてくれるとおり、知覚的補完は必ず、地だと認識されたほうの面に対して生じる。その背景にあるのは、ヒトの図地弁別の次のような基本原則である。

 

  • 図と地の境界線は図の側に帰属し、図の輪郭を囲み規定する線として機能する

 

図は輪郭をもつ。したがって、定まった形をもつ。だがその代償として文字どおり自縄自縛に陥り、自らが所有する輪郭のなかに封じ込められる。上のだまし絵を見ていて図地が反転するたびに、図になったほうの色は物体化してその場に凝固し、動かなくなる。図の領域は、現に見えている以上の拡がりを持ち得ないという意味において断片的である。

 

地は輪郭をもたない。したがって、定まった形をもたない。だがその引き換えとして無限定な拡がりをもつ。上のだまし絵を見ていて図地が反転するたびに、地になったほうの色が水のように流動化して、図によって隠されて見えない背後の空間にスーッと満遍なく浸透していくのが(見えないけれども)感じられる。現に見えている地の領域は、さらに広大な連続性の一部分だという意味において断片的である。

 

要するに、人が見る主観的な世界のなかで図は固体的な性質を、地は液体的な性質を示すのである。黒が壺の形を得たときは白が、白が人の横顔の形を得たときは黒が、視野一面の海になって空間の奥底を充たしていくのだ。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987). In: Restagno, E. (ed,) Nono. Torino: EDT/Musica: 3-73.

*2:Ibid., p. 38.

*3:Ibid., p. 17.

*4:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*5:Kay-Uwe Kirchert (2006). Wahrnehmung und Fragmentierung: Luigi Nonos Kompositionen zwischen <<Al gran sole carico d'amore>> und <<Prometeo>>. Saarbrücken: Pfau, p. 208