アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 6/14

とりあえずシンメトリー、略してとりシン

 「正面性」ということに関して穴と左右対称とのあいだには互換性がある。無地の平面に穴をひとつ空ける、するとそれだけで正面向きの印象が生まれる。穴を空ければ穴をとおる前後方向の動線が自然に生起するからである。左右対称の図形をなにかが横を向いている姿だと想像することも非常に難しい。左右対称形は穴と同様に、垂直に立つ対称軸に直交する前後方向の動線を強力に暗示する。地球の重力下をまっすぐに方向性をもって進んでいくCaminantesの基本体制が左右対称だからである。「われわれは何を頼りに、これらを動物であると識別しうるのであろうか。その識別の基礎をなすものはほかでもない、動物の左右対称性という特徴である」。 *1 そしてこの穴と左右対称は、どちらもノーノの譜面上に頻出する。穴は断片化の進んだノーノの音と音のあいだにひらく沈黙の空隙である(それを穴として捉えれば沈黙もまた断片的なのだ)。以下では左右対称のほうを詳しく取り上げる。

 

Alvise Vidolin *2 やHans Peter Haller *3 といった、下流域のノーノ――下流域とはつまり音楽創造の最終段階の練習や実演の現場ということ――をよく知る仕事仲間の「彼はアシンメトリーを愛していた」という証言にも拘らず、さらにはノーノ自身が1984年のWerner Lindenとの対話の中で「私の思考にとって重要なのはアシンメトリックなモメントだ」 *4 と発言しているにも拘らず、ノーノはひとたび譜面を前にして筆記具を手にすると、そこかしこにシンメトリックな構造(点対称の場合もあるが多くは左右対称)を拵えて倦むことがない。ノーノの楽曲分析では楽譜に潜むシンメトリー探しが一種のルーチンのようになっている。

 

後期ノーノ作品のスケッチ分析の古典であるStefan Dreesの著書Architektur und Fragment *5 で最初に俎上に上がるのは、友人の建築家カルロ・スカルパの死を悼んで1984年に作られた管弦楽曲A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibiliである。本作は総小節数が71小節のとりわけ小さな「ゲノムサイズ」のおかげで作曲過程の精緻な分析に適している。このモデル作品の成立過程を克明に辿ったDreesの研究成果から、ノーノが少なくとも譜面上ではいかにシンメトリーを愛しているかを具体的にみていこう。

 

A Carlo ScarpaはRisonanze errantiの「船の歌」の先駆けでもある。71小節という数には意味があって、これはカルロ・スカルパの71歳半の生涯を意識したものである。ノーノはスカルパの誕生から死に到るまでの一生の航跡をこの作品の背骨に据えたのだ(最終小節の末尾に置かれているフェルマータ付の休止が「半」に相当する)。単純な総数の一致だけではなく、各々の小節がスカルパの年齢に対応している可能性も示唆されている、たとえば、16小節目の総休止は16歳の時のAccademia Reale di Belle Artiへの入学という人生の大きな節目を表しているのではないか、といった風に。 *6

 

ノーノはまず全体の大まかな構成を設計した後で、各オクターブが3声部からなる7オクターブ21段の音域別の楽譜を書き、それを何度か書き直した後で楽器別の楽譜に書き換えて曲を作り上げている。対称性は初期の全体構成の段階からあちこちに顔を覗かせている。たとえば、速度指定が四分音符=60である5つのセクション(そのほかのセクションは四分音符=30)の小節数が登場順に1-2-3-2-1と推移すること。いっぽうで、この5つのセクションの全曲の中での分布は後寄りにずれていて非対称である。こうした対称性と非対称性の相互浸透がノーノの作曲法の顕著な特質だとDreesは指摘する。 *7

 

最初に書かれた音域別の楽譜は、細かい変異も含めれば200種類ほどのリズムパターンを組み合わせて作ったピッチ指定のないリズム譜である。厖大な変異の大半は基本リズムの変形で得られたもので、逆行形が多用されているため、オリジナルと変異型はしばしば鏡面対称の関係をとる。リズムパターンの組み合わせのもっとも基本的な構築原理はさまざまなスケールで現れる対称性である。

 

次の書き直し以降に導入されるピッチは、Carlo ScarpaのイニシャルであるCとSの二つの中心音とその周囲の16分音に分割された非常に細かい微分音である。二重線で区切られた22のセクションごとのピッチの高低は、各々の中心音を軸としてしばしば対称に分布している。

 

初期のスケッチに認められる対称性は、その後の度重なる修正の過程で、新たな挿入句、要素の削除、配置の移動などによって喪われたり不明瞭化する傾向がある。このことから、対称性はノーノの破壊的作曲法scomposizioneにおいて解体の標的となるべく真っ先に構築されるもろもろの「堅い」構造の一種ではないか、という仮説が立てられるが、しかしこれは十分な説明となり得ない。第一に、対称性はたしかに作曲の行程で破壊の手に曝されるが、それでも少なからぬ割合が攪乱を乗り越え最後まで生き残る(そしてそれが出版された楽譜にしか接する機会のない、研究者ではない一般人の目にも留まる)。第二に、ノーノの修正作業は対称性に関して破壊一辺倒ではなく、初めは存在しなかった新たな対称性が逆に後から作られることもままある。たとえば、スケッチ第2稿の26-29小節の低音域に現れる綺麗なリズムの鏡面対称は、第3稿の27-30小節(2小節めに新たな挿入が入るので相同部位が1小節ずれている)ではほぼ消滅してしまっているが、しかしそれに替わって第3稿では、27-30小節の低→高への音域の上昇、31小節の総休止、32-33小節の最高音域の頂上を経て、34-36小節の高→低への音域の下降の山形をなす、一瞥して明らかな音域分布の左右対称形が楽譜上に新規に形成されている。 *8

 

正面性と対面性

ノーノのシンメトリーを解釈するための大きなヒントを、私は画家の中西夏之が唱える正面性という考え方から得た。 *9 中西夏之から教わったことは、より広く言えば、断片性と連続性を接続するひとつの方法としての「向きの違い」という、単純ながらも目覚ましい発想転換の術である。「流れが断ち切られたように見えるのかい?いやいや、流れの向きが変わっただけだよ」「えっ、ひょっとしてカイロスって正面を向いたクロノスのことだったんですか?」

 

絵の正面性とはなにか――「絵はまず立ち停りを企て、横の連続を切って直角に正面なるものを強制する。河の流れに沿って来た人が橋の上で直進してくる流れと対面するように。人はそれをボンヤリといつまでも凝視めている」。 *10 正面性に関して、「横の連続を切って」やあるいは「時間の流れの外に出て」 *11 といった言い回しを中西夏之が用いているとしても、正面性が立ち現れてくる特異点は時の切断、停止の場ではない。「時の流れに沿って進んでいる」から「流れてくる時間に正面から相対する」への、変わらず流れ続ける時間に対して私の側が取る向きの変化、そしてそれに伴う時の眺望の変化である。船で喩えるなら舷側から檣頭への移動。

 

中西夏之には「絵」と呼ばれる平面が左辺と右辺の対面によって成ったものだという並外れたイメージがある。「画家の眼前にある平面自体、すでに何ものかと出会った結果なのだ。通常の絵画形式の平面は左辺と右辺の出会いなのである」。 *12 左と右の遠方からそれぞれ接近してきた左辺と右辺が、しかし一本の垂直線への融合にまでは到らず残された隙間、それが絵の横幅なのである、と。 *13

 

→( )←

 

左遠方からの左辺の→と右遠方からの右辺の←とで、横方向の流れは打ち消しあってゼロになる。人は→と←に挟まれた絵の前に立ち止まることを促される(強いられる)。視線が絵の前でゆっくり静止する。それに応じて今度は前後方向に動線が引かれる。

 

中西夏之が絵の正面性を導き出す過程では、鏡面対称の特性が最大限に活用されている。左辺と右辺の相互接近そして対面(つまり「出会い」)を表す

 

→( )←

 

の図が鏡面対称になっていることにまず注目しよう。鏡面対称とはなにかという問いに対するひとつの答えがここに顕れている。すなわち、鏡面対称とは二つの別個の存在が互いに向かい合う対面関係を模式的に表す図である、ということ。

 

たいていは矩形である絵の画面を、中西夏之は左辺と右辺の対面関係からなる左右対称形として意識している。すると今度はその絵全体に対して正面性が意識されてくる。これは先に述べた鏡面対称のもう一つの重要な特性である。鏡面対称は特に対称軸が垂直に立つ左右対称の場合、進みゆくものの正面向きの像になり、その軸に直交する前後軸すなわち進行方向を強力に暗示する。

 

中西夏之の唱える絵の正面性が、絵とそれを見る人の対面性の謂でもあるということは、「私はこのように正面を露わにしている。あなたの正面を私に向けてほしい」 *14 というセザンヌの絵の台詞、あるいは「立っている姿勢の向きを“真正面として位置づけてくれる拡がりのあるモノ”」 *15 といった記述から明らかだ。結局のところ正面性とは、十字を描く二重の鏡面対称=対面関係なのである。第一に、左辺と右辺の対面によって生じる画布の鏡面対称。第二に、絵とそれを見る人の対面によって生じる鏡面対称。

 

「山頂の石蹴り」と題された小文の一節では、以上のイメージにおける動線の推移が非常にシンプルに表現されている。「一定の位置に立てられた平らなものの前に近づく。その時気がついたことは、自身の体は片身ずつ左右からやってきたものであり、それが平面に対して前後に動いているのである」 *16

*1:マーティン・ガードナー『新版 自然界における左と右』、坪井忠二・藤井昭彦・小島弘訳、紀伊國屋書店、85頁

*2:Das atmende Klarsein Instructional DVD: Ricordi 139378.

*3:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 153.

*4:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-206, p. 206.

*5:Stefan Drees (1998). Architektur und Fragment: Studien zu späten Kompositionen Luigi Nonos. Saarbrücken: Pfau.

*6:Ibid., p. 84.

*7:Ibid., p. 37.

*8:Ibid., p. 48.

*9:中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』、筑摩書房

*10:同上、155頁

*11:同上、103頁

*12:同上、104頁

*13:同上、112頁

*14:同上、107頁

*15:同上、47頁

*16:同上、18頁